第10章 凍れる影
食堂には、まだスープやカレーの匂いが漂っていた。
だが味気ない食事の後に残ったのは、満腹感ではなく鉛のような疲労だった。
誰もが椅子に沈み込み、互いの目を避けるように視線を落としている。
やがて黒瀬宏(65歳・所長)が額の汗をハンカチで拭い、重く息をついた。
「……少し、自室で休ませてもらう。体が……もう持ちそうにない」
椅子を押しのけて立ち上がる姿は、ひときわ老いを感じさせた。
瞳の奥は焦点を結ばず、足取りは覚束ない。
「待て、ジイさん」
ジョー(47歳・刑事)が低く声をかけた。
「ひとりで大丈夫かよ? こんな時に席を外すのは危険すぎる」
「……心配はいらん。すぐ戻る」
黒瀬はそれだけ言い残し、ふらつく背中を廊下の闇へと消した。
◇ ◇ ◇
食堂に再び沈黙が落ちた。
誰も言葉を発しないまま、時計の音さえ聞こえそうなほどの静けさが続く。
しばらくして、ジョーが苛立ったように椅子を蹴った。
「やっぱり放っておけねぇ。……様子を見てくる」
立ち上がる彼に、レイジ(48歳・探偵)が静かに声をかけた。
「俺も行く。……この状況では、確認は二人で行うべきだ」
二人は無言のまま廊下を進み、黒瀬の自室へ向かった。
ドアノブを回すと、軋む音と共に薄暗い部屋が姿を現す。
◇ ◇ ◇
ランプの明かりに照らされ、ベッドには黒瀬の姿があった。
毛布を胸まで掛け、目を閉じて静かに眠っている。
遠目には生きているように見えた。
「……なんだ、寝てるだけか」
ジョーは安堵の息を吐き、肩を落とした。
「少し休めば、また顔色も戻るだろ」
だがレイジは眉をひそめ、ベッドの脇に歩み寄った。
毛布の上から胸の上下を注視し、さらに頸動脈へ指先を当てる。
「脈が、ない」
わずかに瞼を持ち上げると、濁り始めた瞳が光を失っていた。
レイジの表情は動かず、ただ冷徹に言葉を落とした。
「……もう息はない」
ジョーが顔を強張らせ、思わず声を荒げる。
「ふざけんな! さっきまであそこにいて、普通に喋ってただろ!」
レイジは首筋へ手を伸ばし、静かに毛髪をかき分けた。
そこには、かすかに赤黒い点──注射痕が浮かんでいた。
「見ろ。藤堂、杉浦、羽村と同じだ。……首筋に薬を打たれている」
ランプの淡い光に、冷たく乾いた痕跡が浮かび上がる。
四人の命を奪った“同じ手口”が、また繰り返されたのだ。
「これで……四人目か」
ジョーの声は沈み、握った拳が震えた。
レイジは毛布をそっと掛け直し、ベッドから立ち上がった。
「戻ろう。……知らせなければならん」
二人は重い足取りで食堂へ戻っていった。
残された部屋には、薬品の匂いと雷鳴の余韻だけが、死の証として漂い続けていた。