序章 探偵・時雨堂レイジ
午後の光がかすんだ喫茶店の窓際。背の高い男が椅子に沈み込み、無精髭を左手で撫でながら、気怠げに外を眺めていた。時雨堂レイジ、48歳。中折れ帽は少し擦れていて、決して洒落たものではない。だがそれを深くかぶるだけで、彼の存在はなぜか周囲から浮き上がって見えた。
テーブルには冷めたコーヒーと、皺くちゃになったガムの包み紙。レイジは味の抜けたガムを、わざわざ噛み直す。習慣なのか、ただの暇つぶしなのか。けれど本人にとっては、頭を切り替えるための大事な合図だった。
「また時計ばかり気にしてるんですか、レイジさん」
店主が声をかける。レイジは返事もせず、顎を撫でる手を止めない。壁の古びた時計の秒針が、わずかに遅れて進む。その誤差を確かめると、彼は小さく鼻で笑った。
普通の人間にとっては取るに足らない違和感。だが彼にとっては、世界がほころぶ隙間だった。
視線を通りに移したとき、レイジの瞳が細められる。
スーツ姿の男が主婦の鞄に手を差し入れ、財布を抜き取った。主婦は気づかない。周囲の誰も気づかない。男は何事もなかったかのように歩き続けている。
レイジは無精髭をさすりながら、ぼそりと呟いた。
「……あと8歩だな」
その直後、角から2人の巡回員が現れ、すれ違いざまに男の腕をつかむ。財布はあっさり取り返され、群衆がざわめく。だが、なぜ捕まったのか理解できる者はいない。
ただ一人、窓際のレイジだけが帽子の影で口元をゆがめ、ガムをゆっくり噛み直した。
(何も特別じゃない。ただ見てるだけだ。他人が見落としてるだけだ──それだけの話)
◇ ◇ ◇
数日後。警視庁の薄暗い一室。
神城丈一郎(かみしろ じょういちろう/47歳・警視庁刑事)が資料を机に叩きつける。
「山奥の黒瀬バイオ研究所から通報があった。研究員が“殺された”らしい」
時雨堂レイジ(しぐれどう れいじ/48歳・私立探偵)はガムを噛みながら無造作に問う。
「警察じゃなく、俺にまで声がかかったのはなぜだ?」
神城丈一郎は渋い顔で答える。
「黒瀬宏(くろせ ひろし/65歳・研究所所長)の指名だ。“必ずあの探偵を”ってな。……なんでかは知らねぇが」
レイジは帽子を深くかぶり、鼻で笑った。
「功名心の強い老人って話は聞いたことがある。世間を騒がせる事件なら、探偵の名前を利用したいんだろう」
神城丈一郎は煙草を指で弾きながら、不機嫌そうにうなった。
「俺は“神城”でいい。……“ジョー”なんて呼ぶんじゃねぇぞ」
レイジは口の端を上げた。
「わかった、ジョー」
「……チッ」
神城丈一郎は舌打ちをし、机から資料をかき集めた。