その④
その後数日間、相変わらずカップは玄関先に置かれ続けた。
遥は刑事に言われたとおり、ゴム手袋をしてカップにサランラップの蓋を張り、仕事前に警察署へ届けた。
遥はその任務を忠実にこなすことでカップから生じる雑念を払いのけた。
ある朝、警察署に寄った遥かに件の刑事が声をかけた。
彼女を待っていたようだ。
少し話があると言われたので、会社に出社が少し遅れるむねを連絡し、あの小部屋に通された。
「少々、お聞き苦しいことかと思うのですが」
刑事は前置きした。
「あのカップの液体。人間の汗でした。」
ああ…やはり…。
「ファンデーションの粒子が検出されたことから恐らく女性のもの。皮脂の成分が異なるため複数人。そして…あるカップからは血液が…。」
刑事の委細な説明は遥の耳に残らなかった。
血汗というものがある。
死に触れ合うほどの強い精神的ストレスにさらされることで、血管から血がにじみ出し、汗として流れるものらしい。
カップから検出された血は、外傷で流れ出たものではなく、その血汗特有のものだと。
刑事はそのように説明した。
よく効いた冷房が遥の身体を芯から冷やしてしまったかのように、彼女は震えた。
歯をカチカチと鳴らす遥の脳裏に恐ろしい光景がよぎる。
あの汗はどのように搾りとられ、遥の部屋の玄関先まで運ばれたのか。
血汗をかくほどの恐怖、不安、絶望。
彼女たちはどのような目にあったのか。
いま彼女たちは無事なのか。
ぐるぐると思考はめぐる。
そして…
「つぎはおまえだ」
というメッセージ。
あのカップはそういうことだったのだ。
「太田さん、大丈夫ですか?」
刑事が優しく声をかけてくれる。
言葉につまる。
だいぶ顔色が悪いだろうことは遥自身でもわかる。
「我々は本件に関して事件性有りと判断いたしました。」
遥は刑事の顔を見る。
「太田さんの許可を頂ければ、警察で監視カメラの設置およびご自宅への巡回体制構築をはかります。」
遥はこの申し入れに心から感謝をしつつ承諾した。
警察の対応は早かった。
その日のうちに監視カメラが設置され、制服を着た警官による巡回が始まった。
翌朝、遥は普段どおりに起床し、朝食をとり、身支度を整え玄関を出る。
職場にいるほうが安全だろう、ということで警察からは出勤をすすめられていた。
ドアを開けて、熱気に身を包まれながらおそるおそる給湯器を見る。
無い。
給湯器の上には何も置かれていない。
蜘蛛が巣をはっているだけだ。
ふぅぅ…と長めのため息をつく。
警察効果は覿面だったのだ。
しかし直後に不安を感じる。
つまり、むこうはずっと「見ている」のだ。
警察に相談に行ったこと、監視カメラを設置したこと、警官の巡回が始まったこと。
恐らく見ているのだ。
だから今日はここに来なかった。
それがわかった。
掌や足の裏がじっとりと汗ばむのがわかる。
早く人通りの多い場所に行きたい。
遥は早足で会社への道のりを急いだ。




