その③
翌朝、遥は普段の土曜日よりずっと早く目が覚めた。
部屋で身支度を整え、マスクを装着してキッチンに入る。
窓をしっかり開放したおかげか、マスクのおかげかキッチンの臭気は昨日ほどでは無い。
キッチンを抜け玄関でサンダルをつっかけてドアを開ける。
灼熱の世界が遥かを迎え入れる。
給湯器を見る。
やはりある。
遥は透明なカップを手に取る。
中身はすでにぬるい。
肌に馴染むようなその感覚に嫌悪感を覚えながら、カップを台所まで運び、口にサランラップで三重に蓋をして輪ゴムできつくとめた。
これから少し歩くので、その間こぼれないように。
それから少し躊躇われたが、ゴミ箱の蓋を開け、あまり手を奥に突っ込まなくても取り出せるプラスチックカップを3つ拾い出した。
液体が入っていた箇所には触れないように。
鼻から息を吸って、その臭いにひるまないように。
細心の注意を払って取り出した。
今朝のカップとそれらをビニールのレジ袋に入れ、遥は外に出る。
意を決したのだ。
彼女は最寄りの警察署へ向かった。
警察署につく頃にはすっかり日も昇り、気温は40度を超えていた。
自宅からは15分ほどの距離を歩いたが、肌はじっとりと汗ばみ、濡れた下着や肌着が肌と起こす摩擦がいやに気持ち悪い。
1階にいた案内受付の職員は要領を得なかった。
玄関先に液体が入ったコップが置かれている。
それが汗臭い。だからどうしたんです?
そんな対応。
遥の危機感も、警察への相談という一大決心もまったく汲み取ってはくれなかった。
ああ、そうか。
そんなちっぽけなことだったか。
役人らしい不親切さと、効きの悪い空調が作り出した生暖かい空気のせいで、思わず遥も意志が揺らぎかけたとき、たまたま刑事課の警官が通りかかり事情を聞いてくれた。
彼は遥を連れて涼しい小部屋へと案内してくれた。
もう1人、刑事とおぼしき警官が現れ、2人で遥の話を聴取した。
全てを聞き終わると、刑事同士は目配せをしてうなずき合い、遥に語りかけた。
「こちらのカップと液体、お預かりしてもよろしいですか?鑑識に回して成分を分析したいのです。」
遥は少し泣きながらうなずいた。
得体の知れない相手と一人で立ち会わなくて済むかもしれない。
その安心感が彼女に涙を流させた。
刑事2人は穏やかに、慇懃に彼女をなだめて帰途につかせた。
外気温はさらに高まっていたが、しばらく空調の効いた部屋にいたことと、久しぶりに優しくしてもらえたこと、刑事たちの頼りがいのある笑顔などが遥の足取りを軽くさせた。
朝から何も飲食していないことを思い出し、心地よい空腹感を満たすため、行きつけの喫茶店で遅めのブランチをとった。




