その②
「暑…」
翌朝、いつもどおりの独り言を吐いて靴を履き、遥は灼熱の世界へ勇進する。
と……。
ドアを開いて早々に見たくはなかったものを見てしまった。
いや、正直に言えば怖いもの見たさがあったために開けてすぐそちらを向いた。
それでもどうせなら見たくはなかった。
外付け給湯器の上。
プラスチックカップに入った透明の液体。
量は昨日と変わらない程度か。
これでわかった。
「たまたま」のことではない。
誰かが意図的に置いているのだ。
しかし時間も無い。
わずかな躊躇いは暑さとそれに対する苛つきで消えた。
すっとカップを手に取り、ドアを開け靴を脱ぎ、キッチンのシンクに中身をあけて、器はゴミ箱へ。
帰ってきたときに再度見たくなかった。
その日は1日、酷暑と仕事に追われた。
しかし、ふと時間と心に余裕ができるたびに遥の心中ではあのプラスチックカップのことが思い返された。
誰が、何のために。
私へのメッセージだろうか。
しかし何が言いたいのかさっぱり伝わらない。
こんな伝言あるだろうか。
では他の誰かに?
物を売って歩くセールスマンたちが、同業者向けにその家の住人の情報を玄関に残すことがあるという話を思い出した。
あのカップの液体が、わたしの個人情報をまき散らしているのだろうか。
そう考えると少し気持ちが悪い。
嫌なアイデアからは離れたいものだ。
もしかしたら。
もしかしたら、あの箇所に天井からの水漏れがあって。管理人さんが置いているだけなのかもしれない。そんな些細なことかもしれない。
だから。事を大きくはしないでおこう。
そうあってほしい。何事もなく過ぎ去ってほしい。
帰宅後も遥は管理会社に確認をしなかった。
あえてそうした。
だって、答えを知りたくなかったから。
翌朝も、翌々朝も、その次の朝にもカップは置かれていた。
どれも同じように遥は粛々と処分した。
できるだけ手を伸ばし顔から距離をとってキッチンまで運び、シンクに流した。
この暑さで蒸発するであろうその液体を、口や鼻から体内に吸い込みたくなかった。
シンクは念入りに水で流し、カップはゴミ箱に捨てた。
金曜日の夜、帰宅して遥は気づく。
キッチンが臭う。
むわっと熱された空気にのって、何物かの臭気が鼻をつくのだ。
何だろう。
生ゴミは極力出さないように生活している。
この暑さの中では即座に腐敗して臭い立つからだ。
そしてこの臭いは…生ゴミのそれではない。
どこかで嗅ぎなれた臭い。
冷蔵庫を確認する。
ここじゃない。
シンクを確認する。
ここでもない。
ゴミ箱の蓋を開ける。
ここだ。
強烈なすえた臭い。
酸っぱいような、獣が放っているような、そんな刺激臭が敏感な遥の鼻をくすぐる。
汗の臭いだ。
そう感じた瞬間、全身の鳥肌が立ち、居ても立ってもいられなくなりキッチンの窓を全開にした。
この部屋の空気を吸いたくなかった。
水栓を開け、シンクへ水を流す。
今までそこに流してきたものを、さらに遠くへ洗い流したかった。
視覚が朧気になり心臓が強く脈打つのを感じた。
身体が警戒態勢をとっている。
呼吸が浅く短くなっている。
暑さと臭気の中、遥はやや気が遠のいた。
そして、無関心と楽観視を貫くのをやめた。
一人では手に負えない事態におちいり陥りかけているのだ。




