夏への扉
夏のホラー2025
志保姉ちゃんがいなくなったのは、八月の初めだった。
夏休みの宿題をまだ何もやっていない私が、団地の駐車場で水風船を割っていたときだ。
当時、私は小学五年生。志保姉ちゃんは高校二年生だった。
祐介の姉であり、私にとっては、どう呼べばいいか分からない存在だった。
彼女の部屋は、集合住宅の三階の端にあった。
洗濯物の向こうに見える窓はいつも少しだけ開いていて、そこから流れてくる空気には、石鹸と若い皮脂と、クーラーの熱風の混ざった匂いがあった。
あるとき、祐介とけんかをした私は、泣きながら彼女の部屋に逃げ込んだ。
濡れたシャツを脱がせてくれた彼女は、自分のTシャツを手渡してくれた。
それは、脇の下に汗のしみがあって、少し湿っていた。
彼女は黙って私の髪をタオルで拭いて、指先でうなじを撫でた。
「もうちょっと大きくなったら、そういうの言わなくなるのよ」
その“そういうの”が何だったのか、私はもう思い出せない。
でもあのとき、私は確かに、何かが変わってしまったのだった。
以後、私は彼女のまとう空気の一部になりたいとさえ思っていた。
それから間もなくして、夕立の日にもう一度、私は彼女の部屋に上がったことがあった。
雨でずぶ濡れになった私を見て、志保姉ちゃんはまたシャツを貸してくれた。
少し湿っていて、袖のあたりに指の跡のような濡れがあった。
「それ、返さなくていいから」と彼女は言った。
でも私は返したくて、袋に入れて自転車のカゴに入れておいた。
その日の夕方、志保姉ちゃんはいなくなった。
誰にも告げず、部屋の扉を閉めたまま、鍵も財布も置いたまま。
警察が来て、団地の人たちがベランダから顔を出した。
祐介は何も言わなかった。ただ、夏の間じゅう、誰とも遊ばなかった。
彼女が戻ってきたのは、それから四日後だった。
団地の裏手の、エアコン室外機の並ぶ細い通路のいちばん奥。
誰にも見つけられなかったその場所で、彼女は立っていた。
まるで、そこにずっといたかのように。
彼女は無言だった。
笑わなかったし、泣きもしなかった。
目が合っても、視線はすぐにほどけた。
「誰…?」と、祐介がぽつりとつぶやいたのを覚えている。
けれど私には、その意味がわからなかった。
だって、あれは志保姉ちゃんだった。顔も、髪も、匂いも。
でも、話しかけても彼女は返事をしなかった。
まるで、私の言葉を聞いていないようだった。
その後、志保姉ちゃんはまたすぐにいなくなった。
今度は誰にも見られず、跡も残さず。
そして祐介の家族は、団地を出て行った。
私はひとり、彼女のシャツをずっと持っていた。
洗わず、畳まず、引き出しの奥に隠すようにして。
あの夏の暑さは、なぜか今も記憶に湿っている。
白いシャツと、熱と、風の通らない部屋の匂い。
あれ以来、私の中の時間は、少しだけ進み方が変わったように思う。
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二十年後の夏、取材で八丁目を訪れたとき、私は無意識に団地の跡地を歩いていた。
団地はもうなかった。つるりとした白いマンションが建ち並び、記憶の痕跡は何も残っていなかった。
ただ、角の古びた自販機だけが、なぜかそのまま残っていた。
私はその前で立ち止まった。
冷たくない風が、皮膚にまとわりついた。
「――来年の、今日。ここで、また会おうね」
背中越しに、そんな声が聞こえた気がした。
振り返ると、そこには志保姉ちゃんが立っていた。
昔と同じ顔。
同じシャツ。
けれど、目の奥に熱も冷たさもなかった。
そこだけ、何かが抜けていた。
「……うん」と私は返事をした。
彼女はうなずいて、角を曲がり、また姿を消した。
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次の年の、同じ日、私はまたそこへ行った。
去年と同じように暑く、風がない日だった。
だけど、彼女は来なかった。
その次の年も、さらにその次の年も、私は行った。
けれど、もう二度と、彼女を見ることはなかった。
それでも、夏が近づくと、私はあのシャツを探してしまう。
白くて、薄くて、少し湿った、志保姉ちゃんの匂いがするシャツ。
汗と熱と、もうひとつ、名前のつかない何かの匂いがする。
そして、あのとき返したはずのそのシャツは、なぜか今も、私の引き出しの奥にある。
触れると、ぬるい。
まるで、まだ着ていた誰かの熱が残っているかのように。