予備勤務と通し番
朝4時。昨日よりも1時間遅めの起床。だが、外はまだ真っ暗。アラーム無しで自然と目が覚めた由紀は、隣で眠っている真貴を起こさないよう、そろりそろりと寝室から出て準備を始める。
いつも通り出勤の準備を済ませ、通勤用のコートを羽織って外に出ると、昨日よりも風があって寒い。冷たい空気が顔に当たる。あまり外に出る作業はしたくないな…と由紀はふと思った。
今日の仕事は2つある。まず朝5時に出勤し、7時30分までは事務所で待機。”予備勤務”というもので、急な欠勤や遅刻などで来られない運転士のための補充要員だ。7時30分から少し休憩したあと、8時25分から本来の自分の仕事である75ダイヤの乗務をする。この75ダイヤは”通し番”と呼ばれる長い勤務で、19時前の退勤。前半の予備勤務と合わせて、14時間の長丁場だ。
「おはようございまーす」
朝5時きっかりに、由紀は事務所へ出勤した。入って正面の点呼執行台に面したデスクでは、夜勤の運行管理者である副所長の志田弘一が仕事をしている。彼は由紀がドアを開けた音に気付き、眠そうな顔をあげた。
「お、下里さん。おはよう」
「おはようございます。今日は志田さんが夜当務なんですね」
「ああ。このあと昼も仕事だけどな」
「え?」
志田の答えに、由紀は一瞬答えに困り固まった。夜当務は前日の19時30分に出勤、仮眠も含めて夜通し事務所に常駐し、翌朝10時30分に退勤する。2日間にわたる勤務で、退勤する日は”明け”といって勤務日の扱いだが朝に帰ることができる。定時で帰れれば、実質休みが1日増えたようなものだ。しかし志田は昼から寄居町役場に赴き、町が主催する地域公共交通会議に出席しなければならない。
「代理は立てられないんです?後田さんとか」
「あいつは絶対出せねえよ。行ったところでまともな話してこないだろ」
後田というのはこの寄居営業所の助役である後田俊一郎のこと。もともとは運転士だったが、あまりにも素行が悪く当時の所長が半強制的に事務所へ異動させた。それ以来10年ちかく、ずっと事務所で仕事をしている。だが、デスクワークも壊滅的で与えた仕事もまともにこなさないため、ほとんど仕事をまわしてもらえない状況になっている。ゆえに、こういった会社の代表として出席するような会議などには、まず出させてもらえない男だ。
アルコール検知器にストローを差し込んで息を吹き込み、0.000mg/Lの数値を確認。予備勤務は基本的にトラブルが無ければ暇なので、まずは異常などがあるか運行管理者に確認をする。
「今日はなんかトラブルあります?」
「いや、何も。暇なら先に自分の車点検してくるか?」
「そうします。何号車です?」
「1403」
「マジすか!?やった!」
今日、このあと75ダイヤで自分が使うバスの番号を聞いて由紀は思わずガッツポーズをするほど喜んだ。社1403号車はいすゞのノンステップバスだが、いすゞの純正車体ではなく富士重工業製の”新7E”と呼ばれる車体を架装している。角張った車体で古めかしいデザイン。そしてこのバスは、軽油ではなく圧縮天然ガス、通称CNGを燃料にする。屋根の上に大きなガスボンベを搭載しており、それを覆うカバーが設置された、頭でっかちな形だ。不格好だが、彼女はこのバスがとても大好きだった。富士重工業製の車体のバスが大好きで、そのバスを自分の手で運転するためにこの会社にいるようなものだ。
社1403号車のカギと金庫を受け取り、通勤の服装のまま上機嫌でバスのところへ向かう。外の寒さなど全く気にならないぐらいに、由紀はウキウキしていた。この社1403号車は天然ガスを燃料としているが、その天然ガスは軽油と違って営業所での充填ができない。充填するときは、他のバス会社が運営しているガススタンドまでいかなければならない。そんなめったに乗れないバスに、今日一日乗ることができる。それだけで彼女は最高の気分であった。
昨日と同じ、縦列駐車の区画である16番線の後に社1403号車は止まっていた。このバスには外から開閉するためのスイッチが無いため、フロントにある小さな取っ手のついた蓋を開けたところのツマミを押し込む必要がある。押し込むと、プシューという空気が抜ける音とともに前扉の圧力が少しゆるくなった。これで、素手でドアを開けることができる。
車内に入りメインスイッチを入れて、中と外の電気系統をチェック。いつも通り点検を済ませる。終わったらエンジンもかけて、問題ないことを確認。金庫を差し込んでから事務所に戻って、日常点検表を記入。これであとは点呼を受けるだけだ。しかし今日のダイヤは8時55分出庫。今の時間は5時半。ここで点呼を受けても仕方がない。
事務所に戻ってきた由紀は、一度ロッカー室でネクタイをつけてベストを着てから、カウンターで仕切られた事務室に入り、自分のデスクへ向かう。3階建てになっている事務所の建物。その1階は事務室と休憩室、喫煙室になっているが、壁で仕切られているのは休憩室と喫煙室だけで、事務室は点呼台から続くカウンターだけで仕切られている。カウンターの外が乗務員や来客の来るスペースで、内側が事務所の社員の仕事場だ。一般的なオフィスのようにデスクが並んでいて、もちろんパソコンもある。由紀はパソコンを立ち上げて自分の仕事を始めた。
主任運転士の仕事には、普段のバス乗務のほかに事務仕事もある。与えられている担当業務は人によってさまざまだが、由紀は主に運転士の教育と車両に関する業務を担当。新しく入社した運転士の研修はもちろん、法令によって定められている運転士全員を対象とした定期的な研修も行っている。
社内サーバーから自分のフォルダにアクセスし、乗務員台帳を開く。新しく入ってきた者のうち、研修を終えて正式に運転士として選任された者たちのデータを入力する作業だ。
エクセルファイルを開いたとき、運行管理者のデスクにいる志田が声をかけた。
「デスクにおいてある紙、見たか?」
「はい。中谷さんと今井さんの選任日ですよね」
「そうそう。それ入力して、3枚印刷して。1枚はうちで保管。あとは、熊谷と小川に送っておいて」
乗務員台帳のエクセルファイルから、”中谷恵里”のシートを見つけ、指定された書式の部分に、志田からのメモ紙を見ながら彼女の運転士としての選任日を入力する。大型二種を持っているからといって入社したらすぐ運転をしていい訳ではなく、運転士として客を乗せて運転するためには、こうして会社としてあらかじめ定められた内容の研修を受けさせたうえで選任をしなければならない。会社内に複数の営業所がある場合には、その各営業所で選任をする必要がある。そうして選任したという証明をするために、この書類は印刷し、教育や研修の記録と合わせて個人毎にファイリングし、各営業所で保管している。
中谷と今井の選任日を入力し、その入力済みのデータを寄居営業所用、熊谷営業所用、小川営業所用でそれぞれ1部ずつ印刷する。これでそれぞれの営業所に送れば、この二人はその営業所でもバスに乗務することができる。人手不足に陥ったときに、すぐに応援に出られるようにするための策だ。由紀もまた、埼玉県内や東京都内の営業所のほとんどで選任されており、時には他の営業所でバスを運転することもある。
やがて時計が5時半を過ぎ、事務所内が騒がしくなってきた。ちょうどここから7時までは出庫の集中している時間で、何人もの運転士が次々と出勤しては点呼を受けて出ていく。その中には、空港連絡バスや都市間高速バス、観光バスやスクールバスに乗務する者もいる。この1時間半の間には、約60人の点呼が集中している。とても志田一人では当然さばききれない。なので、由紀もヘルプに入り点呼を行う。朝の日常点検を終えた運転士から日常点検表を受け取って確認し、押印。
「73ダイヤ点呼お願いします。車両と健康状態異常なし。重点目標は『側方の 自転車バイクに 要注意』」
「はい、異常なしですね。時計の整正は」
「5時33分。46、47、48…」
運転士が自分の置き時計を読み上げる。腕時計ではなく、自分用の置き時計を持参して運転席に置いている者もいる。由紀が点呼執行台の時計と交互に見て確認するが、どうやら10秒ぐらいずれている。
「安田さん10秒早いね。定刻ぴったりで行くと早発になるから、気持ちゆったり目で発車お願いします」
「あいよー」
この運転士、安田健一郎は73ダイヤの乗務。由紀と同じ路線の早番だ。厳正な点呼が終わったあとは、もう運転士同士の軽口の世間話が始まる。
「由紀ちゃん今日75だっけか」
「ええ、あとから追いかけますんで」
点呼こそしっかりと行うものだが、それさえ終わればあとはもう同僚同士だ。カウンター越しに今日乗務する路線のことで盛り上がっていると、隣で点呼をとっていた志田がイラッとしたのか、一言。
「点呼終わって喋るのなら喫煙室でやってくれ」
すぐ隣でも点呼中。気づかないうちに、話をしていてだんだんと互いに声が大きくなってしまったようだ。隣で点呼をしている志田や運転士の声がかき消されていたのだろう。由紀は微妙に気まずそうな顔をし、「ごめん、気をつけて」と安田を送り出す。彼もまた同じように気まずそうな顔をしつつ、手を挙げて「行ってくるよ」のジェスチャーで返す。
怒涛の点呼ラッシュが終わり、時計は7時15分を過ぎたところ。由紀の予備勤務はあと15分で終了。欠勤や遅刻もなく、平和に終わりそうだ。
志田は運行管理者のデスクから、事務室の奥にある自分のデスクに戻り、新聞を読みながら束の間の休息。由紀は仕事もひと段落したので、スマホを見て暇つぶし。電話も無線も鳴らない、無言の空間が続く。正直、さっきの感じからすると、志田は普段以上にイライラしている。由紀のほうから声をかけるのは、少し気まずかった。
しばらくして、志田が口を開いた。
「朝マックでも食うか」
「はえ?」
由紀は思わず素っ頓狂な声をあげた。
「朝マック。デリバリーで頼もうよ。下里さんも、すぐ休憩でしょ」
「ですね。いいんですか?甘えちゃって」
「いいよ。おごるよ」
奢ると言われればもう食べないという選択肢はない。由紀は志田のデスクへ行き、メニューを見て食べたいものを選ぶ。志田がそれを聞きつつ、自分のスマホからデリバリーの注文をする。店舗が近くにあったので、30分ぐらいで配達員がやってきた。
「すみません志田さん、いただきます」
「うん」
包み紙を開けて、マフィンを思いっきり頬張る。そういえば朝は何も食べていなかったので、このタイミングで朝食が食べられるのはありがたかった。しばらく互いに無言で食事をしていたが、由紀はあることに気が付いた。
「そういえば、今日ってA点呼いないんですか?」
「いないよ。当欠」
「え、誰ですか」
「後田。3時半に電話かけてきてよ。『寝坊したので休みます』だって。バカか、あいつ」
そう。本来であれば、この事務所にはもう一人いるはずだった。夜当務は前日の最終バスを乗務していた運転士の入庫点呼をとった後に事務所を施錠し、仮眠室で翌朝7時まで仮眠できることになっている。夜当務が寝ている間、事務所は無人になるが、朝4時にA点呼という出庫点呼を担当する運行管理者が出勤し、外から鍵を開けて代わりに業務を行う。そのA点呼で来るはずの後田が、ギリギリの時間に、しょうもない理由で当日欠勤の電話をしてきたので、ここに志田がずっと居るという訳だ。寝不足な中、一人で事務所をまわしていたのだ、イライラするのもわかる。さっきの安田とのやり取りについて、彼が普段と違う苛立ちを見せていたことを思い出し、由紀は申し訳なく思った。
8時になると、今度は事務所の社員が増えてくる。通常の日勤のシフトもあり、所定出勤は9時半。朝礼は10時だ。だが、総務や経理、”交番”と呼ばれるシフト作成を担当する社員は早めに出てくることもある。今日も、8時に一人出勤してきた。
「おはようございますー」
「おはよー」
「おう、おはよう」
40代ぐらいの体格の大きい、眼鏡をかけた穏やかそうな男性社員が出勤してきた。野中優。この寄居営業所では一番在籍期間が長く、かれこれ15年この営業所で働いている。以前は水道関係の仕事をしていたそうで、大型二種免許は持っていない。純粋な事務員だ。
野中のデスクは由紀の向かい側。座るや否や、由紀のほうへ早速仕事の相談を持ち掛けてきた。
「下里さん、来週の月曜って出られます?」
「行けるよ。ダイヤは?」
「5ダイヤをお願いしたくて」
「了解―」
野中の仕事は主に”交番”。運転士のシフトを組む仕事で、限られた人工で、定められたダイヤをきちんと運行できるようにしなければならない、大事なポジションだ。休日出勤や残業を頼む立場でもあるので、こうして普段から運転士とのコミュニケーションをとって信頼関係を築くことが大事。由紀もまた、彼の頼みだからこそ、休日出勤や残業といった仕事の依頼を快く引き受けているところもある。
交番担当は、どこの会社であっても大体一番過酷。遅くまで残業していたり、休みの日も出てきていたりするものであるが、この寄居営業所ではあまりそういうことが無い。野中も今日は2時間早出しているが、定時になるころには今できている物から3日後の分まで交番を作り終えている。それだけ運転士も足りている状況なので、順調に作れるのだ。
そうこうしているうちに、8時40分になった。由紀の出庫時刻は8時55分。誰もいない喫煙室で一服してから、彼女は日常点検表をもって点呼執行台へ向かう。点検表を点呼執行台にいる志田に提出し、まだもらっていなかった行路表を受け取る。
「75ダイヤ点呼お願いします。車両、健康状態異常なし」
「はい。重点目標は」
「『側方の 自転車バイク 要注意』」
「はい。時計はどうかな」
「8時49分、59、50分、1…」
腕時計を確認し、読み上げる。その声を聴きつつ、志田が点呼執行台の時計と見比べる。今日もズレなく、ぴったりだ。
「よし。陣見山口線だけど、最近ダンプや大型がひっきりなしに来るそうだから、あまり広くない道だし、対向に来たら無理せず止まるように。あと寝過ごし注意な」
「寝過ごし?」
「そう。昨日の夕方、所沢営業所で休憩明けに寝過ごして、結果1本運休になった事案が発生した。長い休憩で寝るときは、必ずアラーム設定してな」
志田の話によれば、所沢営業所の運転士がバス停に隣接した休憩所でアラームをかけ忘れたまま寝てしまい、目が覚めたときには既に終点に着いているべき時間だったという。戻りの便に関しては営業所の予備勤務が代わりに運行したので数分の遅れで済んだが、行きの片道分は間に合わず、実質運休となってしまった。こういったことも、少なからずあること。そういう事案があったことを共有することや、注意喚起もこの点呼の目的のひとつだ。
点呼を終えて、由紀はようやく事務所を出た。やはり事務所の中では時間が経つのがとても遅く感じる。定められた行路表のとおりに運転しているときと、事務所の中でデスクワークをしているときでは、たとえ同じ時間だったとしても運転しているほうが時間が短く感じる。そういう意味でも、やはり自分は運転している方が性に合っているな、と彼女はあらためて感じるのであった。
社1403号車に乗り込み、エンジンをかける。バスが、身体を震わせるようにブルっと振動して、始動。CNGエンジン特有の軽やかな音が背後から響く。一昔前のオートマチック車なので、シフトレバーの代わりにボタンが並んでいる。”D”ボタンを押し、サイドブレーキを解除。久しぶりの社1403号車に、由紀は内心ウキウキでハンドルを握っている。
西ノ入住宅から鉢形城歴史館経由で寄居駅に向かう便を1本運行し、駅に到着。もうすでにラッシュも終わり、道路はそれなりに流れが良い。バスターミナルに進入し、降車専用バス停で乗客を降ろす。今日は出庫前に営業所の自販機で飲み物を調達してあるので、コンビニにはいく必要無し。車内を点検してから、次の行先である陣見山口行きのバス停へ向かう。
寄居駅南口のバスターミナルは、縦列で停車できるバス乗り場が合計6つある。バスの通る通路に挟まれているところは島のようになっていて、横断歩道で連絡している。昨日乗務していた西ノ入住宅線の発着する1番・2番乗り場は駅ビルから歩道でつながっている、一番端の場所。陣見山口行きの乗り場は、そこからバス通路を挟んだ隣の島、3番乗り場だ。
由紀がバスをつけようとしたとき、手前の4番乗り場に止まっていたバスが右ウインカーをつけた。同じ営業所の、イオンモール行きの直行バスだ。彼女はブレーキを踏んで停車し、パッシングして合図した。「お先にどうぞ」の意味だ。それに気づいた前のバスは、お礼のハザードランプをつけながらゆっくりと出ていった。その後ろを追うように、由紀は慎重に3番乗り場のバス停標識に前扉を合わせて停車させる。
「お待たせいたしました、9時35分発陣見山口行きでございます」
中扉が開くと、数人の男女が乗ってきた。この路線は途中で円良田湖という湖を通る。ダムによって形成された人造湖で、釣りやボートなどを楽しむ人たちが訪れる。乗ってきたのもどうやら友人グループのようで、山登りの恰好をしている。一人の男性が、由紀のいる運転席のもとへやってきた。
「すみません、運転手さん。このバスって円良田湖行きますか」
「はい、行きますよ」
「ありがとうございます」
丁寧な質問には丁寧に返す。それが彼女の流儀。一方で、横柄に聞いてくるような輩には容赦しない。喧嘩をする訳ではないが、相手の目をしっかりと見て圧をかけた上で「すいません、もう一度いいですか」と普段よりも低い声で返す。これだけでも、かなり効果があるものだ。もともと低音な声の彼女。普通に話しているだけでも「威圧感がある」とか言われるので、この方法で横柄な客に対応すると、大抵しおらしくなる。
陣見山口線は、片道7.5kmの路線。距離こそ短いが、途中寄居の市街地をはずれて山のほうへ登っていく。その登っていくあたりの道路が狭く、大型同士でのすれ違いがむずかしい。カーブもあり見通しが悪いので、慎重に進む必要がある。
寄居駅を出発し、市街地から新興住宅地を抜け、保養所公舎前というバス停を過ぎると、問題の狭い登り坂の区間に入る。低速ギアのボタンを押し、先のカーブミラーを見ながら慎重に入っていく。終点での捨て時間と折り返し時間も多く取ってある路線なので焦る必要はないが、それでもやはり先急ぎしようとしてしまう。
最後の左カーブに差し掛かろうとした瞬間、かなりの勢いで10tダンプが曲がってきた。思わず、考えるよりも先に右足はブレーキペダルを踏んでいた。幸い立ち客もおらず速度も遅かったが、それでも大きな衝撃であることは変わりない。由紀自身の身体もかなり前へ持っていかれ、思わず前のめりになる。同時に、背後からは乗客の悲鳴が響き渡る。
「急停車、大変申し訳ありません。お怪我はございませんでしょうか」
まだ登り坂なので、とりあえずサイドブレーキを引く。そして状況を確認しようとマイクで放送する。反応はなさそうだし、車内ミラーを見ても、転んだとかケガをしている人はいなさそうだ。
車内の安全が確保されたのが確認できたあとは、前に視線を戻す。ダンプのドライバーは相手が女だとわかって油断したのか、にらみつけて威嚇している。しかし由紀は、それに狼狽えることなく、坂道発進の要領で前進。ゆっくりと近づいてくるバスに、ダンプも致し方なくバックする。すぐ右手の観光案内所の駐車場へ入っていったことを確認すると、由紀は再びアクセルを踏み、いつも通りの運転に戻った。
乗っていた乗客に「念のためお名前と連絡先をうかがってもいいですか」と尋ねるが、ほとんどの乗客は「いいよ、いいよ。ケガも無いし気にしないで」と降りていく。しかし、こうして連絡先を尋ねることにも理由があり、仮に「身体が痛い」とあとから連絡が入ってしまうと、車内人身事故として処理しなければならなくなる可能性がある。
そのため、こういった事故になるかもしれない事象があった場合には、当事者となる乗客の連絡先は控えておくよう常日頃から指導されているのだ。もっとも、この時点ですんなりと降りていく人たちが、後日連絡をしてくることなど無いに等しいのだが。
ダンプとの小競り合いのおかげで、終点の陣見山口には5分遅れで到着。ここは”山口”とついているが登山口などではなく、ただ単に砂利の回転場があるだけ。バス停も、1本のポールに丸いプレートと時刻表や路線図を掲示する板があるだけのシンプルなもの。ここで乗り降りする客もほぼゼロで、バスが折り返すためだけの敷地だ。かつてはこの先、美里町を通って新幹線の本庄早稲田駅や本庄市の中心部までを結ぶバスが通っていたが、時代とともに分断され、短縮され、今はこの陣見山口が終点となっている。
由紀は車内を確認し、バス停のポールの横に置いてある灰皿で一服。すぐに発車時刻になったため、”送り”ボタンを押して寄居駅行きの表示を出し、ドアを閉め発車させた。
寄居駅に戻ってくると、もうここで休憩だ。とは言っても、すでに8時35分の出勤から2時間経過している。ちょうどいいタイミングでの休憩だ。由紀はバスターミナルの降車専用バス停で乗客を降ろし、車内を点検してから待機場へ向かった。
寄居駅のバスターミナルを出て左折したところの左手、バスターミナルの入っている駅ビルに隣接した場所に、アスファルトで整地された広い駐車場のような場所がある。ここは寄居駅から一番近いバス専用の待機場で、駅で運行が終わったバスはこの待機場に止めて、次の発車を待つことになる。
ちょうど、この時間はラッシュを終えた早番や通し番の者たちが休憩に入るタイミングとあって、待機場には様々な関北交通のバスがずらりと並んでいる。一般路線バスだけでなく、同じような形をしているが車内に高い背もたれのついた仕様の急行バス、背の高い所謂ハイデッカーの高速バスなども止まっている。バスの前で談笑している者もいれば、車内で休憩している者もいる。バスターミナルが入っている駅ビルには、乗務員専用の休憩仮眠室もある。休憩スペースと個室の仮眠室を備えた施設だ。
由紀は空いている枠にバスを止め、一服するため建物の入口付近にある喫煙所へ向かった。そこには既に数人の運転士がたむろしていたが、偶然にも全員が同じ主任運転士だ。背の高いスキンヘッドの主任運転士、小久保宏明が声をかけてきた。
「お、下里さん。お疲れ」
「お疲れさまです、小久保さん。今日は何やってるんです?」
「羽田線だよー。あと1本走らないといけなくてよ、帰って事務仕事もあるからキツいぜ」
「羽田からの事務所はしんどいっすね…」
由紀は29歳、小久保は54歳。二人の年の差は親子ほどあるが、それでも同僚として垣根もなく楽しそうに話をしている。同じ運転士であれば、年齢差など関係なくコミュニケーションをとれるのも、この仕事のいいところの一つ。
二人が今日の仕事の話で盛り上がっていると、その横で電子タバコを嗜んでいる七三分けの主任運転士、横山修が割って入ってきた。
「そういえば聞きました?今度のダイヤ改正の件」
「おう、聞いてねえな。なんだっけか」
「どうやら新規路線やるらしいんですけど、まだその内容がおりてきてないんですよね」
横山の話では、今度の4月1日から小川営業所で新たな路線を開設するらしく、これまで通ったことのないルートがほとんどを占めるのに情報がまだ来ていないのだという。本来であれば、該当する営業所の運転士を集めて、空車のバスを使った路線研修を行わなければならない。その研修を計画・実施するのも主任運転士の仕事。小川営業所の仕事は、由紀たちの所属する寄居営業所の運転士たちも日常的に応援で担当しているため、新しい路線が増えるのならば研修は必須だ。
「でも、路線の情報が無いのにどうやって研修しろって言うんですかねえ」
由紀が首をかしげる。どこを走るかもわからないまま、人だけあつめて当てずっぽうに走らせては時間の無駄だ。少なくとも、ルートだけでも主任運転士のあいだで共有したいところ。
しばらく三人で考えていたが、やがて小久保が口を開いた。
「とりあえず、俺から大宮本社に言っておく。由紀ちゃん、運輸部に知り合いいるんだろ。探り入れといてもらえるか」
「ええ、もちろんです」
由紀は快く彼の頼みを引き受けた。関北交通バスの本社はさいたま市大宮区にあり、その場所をとって”大宮本社”と呼ぶ。そして、主に路線の改廃やダイヤ改正、車両の導入、運転士教育などのバス運行に直接かかわる業務を担当するのが”運輸部”だ。ここには、由紀の先輩である越野千尋という女性が課長補佐で在籍している。彼女であれば、何かしら知っているだろうと小久保は踏んだ。
同じ会社である以上、もっと緊密に連携しているべきであるはずだが、バス会社では各部署の間に温度差があり、それ故に連携が薄いということが往々にしてある。
タバコ会議をしている間に、横山の出庫時間になった。彼は「お二人が動いてくれると助かりますよ。データが来たら、自分にください。研修資料作りますので」と言って自分のバスへ戻っていった。前職で営業マンだった彼は、パワーポイントなどの資料作りが得意だ。毎回、乗務員向けの教育では思わず目をひかれるような資料を作ってくれる。
続いて、10分もしないうちに由紀の出庫時間になった。小久保はあと1時間休憩があるというので、建物の運転士通用口から仮眠室へ入っていく。再び社1403号車へ戻り、エンジンをかけて発車の準備を整える。由紀は出発前に千尋へ新路線の情報を教えてほしいという内容のメッセージだけ送り、ハンドルを握って出庫した。
由紀の今日の仕事はまだまだ長い。最初の休憩が終わってから、寄居駅11時35分発の西ノ入住宅行きとその折り返しの12時00分発で往復し、寄居駅に戻ってきた。ふと行路表を見ると、ここでまた1時間の休憩。そして、休憩明けは陣見山口線を3往復。
「長っげぇなぁ」
彼女は、思わずそう言葉に漏らし、ため息をつく。いくら大好きな社1403号車で走っているとはいえ、長丁場の仕事であることには変わらない。運転しているのだから疲れだって出る。おまけに、今日は前残業までついている。もう既に出勤から7時間もたっているというのに、全体の仕事ではようやく半分終わったばかりだ。
待機場にバスを止め、お昼を食べるため駅ビルに向かう。駅ビルは4階建てで、1階はスーパーマーケットを中心とした商業施設、2階が駅の改札口と観光案内所、3階から上がオフィスビルになっている。バスターミナルの歩行者通路を抜けて1階の入り口に入ると、金曜日ということもあってにぎわっている。一般的なオフィスワークの業種では金曜日の早引け文化が浸透していて、この時間は帰りの買い物客でスーパーマーケットが混んでいる。それより混むのは飲食店だ。既に3階4階で仕事を終えたサラリーマンがそこかしこの店で飲んだくれており、居酒屋からは笑い声が聞こえる。由紀も酒は好きだが、こういった運転の仕事を生業にしているので、そんなに自由には飲めない。
しばらく悩んだ挙句、立ち食いそばにした。安くて早い立ち食いそばは、運転士にとってありがたい存在だ。待機場のちかくに食事できるような場所がないような路線では、乗客を降ろしたあとに駅のバス停に止めたまま、すぐ目の前の立ち食いそばで食事だけを済ませてから回送で待機場へ出発するという手段も使える。バスの運転士は、いかに食事を確保するかというのも考えないと大変なのである。
食事と買い物を済ませ、再びバスに戻る。若干疲れもあったが、仮眠室へ行くほどではないと思ったので一番後ろの座席で横になる。アラームを出庫時刻に設定し、畳んだタオルを枕にして目を閉じた。さすがに疲れたし、次の休憩では仮眠室に入ろう…そう考えているうちに意識が飛んだ。
気がつくと、アラームが鳴っている。1分過ぎているが、バスターミナルはすぐ横なので、正直誤差の範囲だ。制帽をかぶり、運転席にもどってエンジンをかける。このタイミングで行けば、ギリギリ発車時刻1分前にはバス停に停められるだろう。”D”ボタンを押下してDレンジに入れ、ゆっくりと、しかし急ぎ気味で待機場を出発した。
何事もない1往復を終え、2往復目に入り、陣見山口へ戻ってきた。時計は15時を過ぎたところ。何もない、山に囲まれた砂利の待機場は少し肌寒い。エンジンはかけっぱなしで、前扉を開けたまま降りて、バス停の横の灰皿で一服。すると、珍しくバス停へ人がやってきた。制服を着たおとなしそうな少女、高校生だろうか。通学鞄を持っているが、まだ学校は終わっていないはず。由紀は何かありそうだな、と感じた。
その少女はバス停で一服している由紀に、おそるおそる尋ねてきた。
「あの、このバス寄居駅行きですか」
「うん、そうだよ。10分に出るから、乗ってな」
そう言って由紀はタバコの火を消し灰皿に捨て、運転席に入り中扉を開ける。少女はバス車内に入り、一番後ろに座った。発車時刻まであと4、5分。もう1本吸えるかと由紀は再びバス停のところへ行き、新しいタバコを取り出して火をつけた。
一服している間、乗ってきた少女の様子をバス停からうかがう。まだ学校も終わっていないのに、こんなに市街地から離れた山奥に何故いるのだろう。そして、何をしに来たのだろう。それに、この1本前のバスは寄居駅13時25分発で、着くのは50分。由紀のバスが到着するまで約1時間。店も無ければ時間を潰せるような場所も無い。親戚や友人のところに行っていたとも思えない。何かありそうだ、と由紀は思った。
発車時刻になり、タバコを灰皿に捨てて運転席へ戻る。車内には由紀と、乗ってきた少女の2人だけ。動き出す前に由紀は、マイクで「一番前の席においで」と声をかける。少女はおそるおそる前へ来て、タイヤハウスの上にある高い場所の座席に座った。由紀はそれを確認してから、ハンドルを切って陣見山口を出た。
円良田湖のダム事務所までは、湖沿いをゆるやかなカーブを描きながら走る。運転しながら、少女に話しかけた。
「どしたの、こんなところで」
「えっと、あの…」
何か答えようとするが、言い出せずにどもっている。普通の感じではないと由紀は直感した。何かある。
「学校は?」
「…今日は行ってないんです」
「何かあったん」
「…」
理由を尋ねようとすると黙ってしまう。この先、山を下りて市街地に入ると、ほかの乗客も乗ってきて聞きづらくなる。どうしたものかなあ、と由紀は考えながら走っていたが、やがて少女のほうが、決心したかのように口を開いた。
「学校で、先生から色々言われてて」
「怒られたとか?」
「じゃなくて。その、付き合って、みたいな」
由紀の眼の色が変わる。その相手の教師が、おそらく一方的に好意を持って接してきている。ストーカーの一歩手前か、もしくは既にストーカー行為にはしったか。いずれにしても、このまま降ろすのは危険だ。
「そしたら、このあと寄居駅まで行くけど、降りないで。一回待機場へ行こう」
「えっ、でも」
「いいから。そのまま降りて、どっかで待ち伏せとかされてたら、どうするの」
相手は大人だ、どんな手段でも取ることができる。学校に来なくて心配になった、迎えにきたと言って連れ去ることだってできる。バスの車内であれば、他の乗客の目もあるし、何より運転士の目がある。正義感の強い由紀は、この自分の仕事道具…”バス”を使って、彼女を守ろうと決めた。
市街地に入り、数人の乗客を途中から乗せて寄居駅に到着。少女以外の乗客が降りたことを確認すると、由紀は社1403号車を待機場へ移動させた。ここは関係者以外出入りできないし、他の運転士の目もある。車内で、事務所へ電話をかける。
『お疲れさま、野中ですー』
穏やかそうな声。助役の野中が電話に出た。
「お疲れさま、下里です。陣見山口から女の子乗せたんですけど、なんかストーカーされてるっぽくて。親御さんに連絡とってもらえませんか」
『え、マジですか。了解です、電話番号教えてもらえますか』
少女から聞いた、親の連絡先を由紀が伝える。スマホや携帯は手元にないそうなので、勤務先と親の名前を聞く。野中はすぐにその会社へ連絡するので、二人はそのまま離れないように、と言って電話を切った。
親が来るのを待っている間、由紀は少女としばし話をする。もともと彼女の親は仕事で家を空けがちで、本人も内向的で友人もあまりいなかったそうだ。高校に上がってからしばらくは何事もなく普通に過ごしていたが、ある時からその教師が授業を受け持つようになり、その直後から積極的に声をかけられるようになったのだという。やがてそれは単なる教師と生徒の関係とは思えないようになり、周りに人がいないタイミングで声をかけてくるとか、連絡先をしつこく聞いてくるなど変な行動が目立つようになった。それが怖くて学校も休みがちになり、今日もそのことで母親と喧嘩し、家出するような形で出てきたのだという。
彼女の話を聞いているうちに、由紀は同居している真貴のことを重ねて思い出した。彼女は好意ではなく”いじめ”が発端ではあったが、同じように苦痛から逃れるために、由紀の運転していた名古屋行き夜行バスへ乗ってきた。名古屋に着いたときの、彼女の安堵した表情を思い出す。
この子も、そういったことから逃れるためにバスへ乗ってきたのだろう。だが、終点の陣見山口にはすぐ目の前にダム湖がある。由紀のバスが登ってくるまでの間に何をしていたのかはわからないが、思いつめて最悪の結果にならなくてよかった、とほっとした。
しばらくして、待機場へ軽乗用車がやってきた。降りてきた母親は、少女の顔を見るや駆け寄ってきて抱きしめた。心配したのだろう。バス会社から連絡が来たときは驚いたが、事情を聞いて、仕事を抜けて大急ぎで来たと言っていた。二人は由紀に何度もお礼をして、帰っていった。周りで見ていた運転士も、何があったのかと野次馬のごとく集まってきた。事の次第を説明すると、周りから感嘆の声があがった。
とは言っても、自分の休憩を削ったことに変わりはない。すべてが終わってほっとした瞬間に、由紀の意識は現実に引き戻された。行路表上の発車時刻は16時52分、腕時計がさしている時間は16時40分。この休憩ではさすがに仮眠室へ行きたいと思っていたが、結局また休憩をつぶしてしまった。
「…ま、仕方ねーか」
そういって由紀は運転席に戻り、スマホをいじりながら発車時刻を待った。
18時40分。既に日も沈み、寄居営業所の敷地を照らす明かりが付き始めた。県道のほうから、CNG特有のカラカラという軽やかなエンジン音とともにバスが近づいてきた。由紀の乗務していた社1403号車が、仕事を終えて帰ってきた。
出入口から入り、スタンドの前に停車する。燃料が軽油ではないので、給油はしない。終点の西ノ入住宅で、既に解錠作業は済ませた。ロックの外れた金庫と、行路表と、日報をもって事務所へ向かう。中に入ると、今日の夜勤である真貴がデスクで誰かの電話を受けていた。
「いえいえ、そんな…はい、本人には伝えておきます。はい」
どうやら、お礼の電話のようだ。電話を切ったあと、真貴はうれしそうな顔をしていた。
「下里さん、お手柄でしたね。夕方寄居駅の待機場に来たお母さんから、電話がありましたよ」
「その電話だったのね。まあ、大事にならなくてよかったよ」
そう言って金庫を精算機に差し込み、今日のダイヤ番号”75”を入力して精算作業を開始する。ゴウンゴウンと大きな音を立てて、いつも通り機械は金庫のお金をひっくり返し、集計する。その間にデスクへ行路表と記入済みの日報を提出。今日は予備勤務もあったので、一応日報は2枚提出。
「あの子、ちゃんと学校行けるといいんだけど」
「…?」
「あ、いや、なんでも。ところで1403は格納どこ?」
由紀は一言呟いて思い出した。そういえばこの子は、何も事情を知らないのだった。何のことですか、と言わんばかりに首をかしげる真貴の顔を見て、格納する場所だけを確認してそそくさと出ていく。
社1403号車を指定された枠へ格納し、後片付けをしている間に、スマホの通知が鳴る。千尋から、昼間の新規路線の件で返信がきた。『新規路線はまだ申請が通ってないから確定してない。けど、経路に関しては早急に共有します』とのことだった。
「現場の連携は早いけど、本社が絡むと遅くなるんだよなあ」
由紀は思わずため息をついた。そしてすべての作業が終わり、エンジンを切ってメインスイッチを落とす。ようやく、14時間の仕事が終わった。後田助役の当日欠勤に始まり、乗客の人助けに終わる。とても濃密な1日だった。
社員証をカードリーダーにタッチして、真貴に「先、帰るよ」と言って退勤。明日は休みだ。
今日の乗合乗務日報
乗務日:2026年1月15日(木) 天候:はれ
ダイヤ番号:予備A①
社番:
運転士氏名:下里 由紀
乗務開始時刻:5時30分
乗務終了時刻:7時10分
乗務開始メーター:
乗務終了メーター:
当日乗務距離:
報告事項
事故や運行に関する内容:異常なし
車両に関する内容:異常なし
その他報告事項:異常なし
乗務日:2026年1月15日(木) 天候:はれ
ダイヤ番号:75
社番:1403
運転士氏名:下里 由紀
乗務開始時刻:8時55分
乗務終了時刻:18時39分
乗務開始メーター:696,073km
乗務終了メーター:696,156km
当日乗務距離:83km
報告事項
事故や運行に関する内容:異常なし
車両に関する内容:異常なし
その他報告事項:異常なし




