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下里さんはバス運転士!

 路線バス。普段町中でよく見かけるものだが、その運転士というのはどんな仕事をしているのだろうか。そう聞かれて正確に答えられる人はあまりいないだろう。

 ただバスを運転するだけの仕事ではない。あらかじめ決められた時刻をもとに、乗客を目的地へ運ぶ。それだけでなく、乗客が両替やチャージをするときの操作、最寄りのバス停がどこなのか、このバスはどこへ行くのかなどの問い合わせに対する案内、さらに車椅子やベビーカーなど特殊な事情のある乗客の乗り降りの手伝いもする。マルチタスクを求められる、高度な仕事だ。

 下里由紀(しもさとゆき)はバス運転士として9年目の中堅運転士。彼女は学生のときからバスが好きな、いわゆる「バスオタク」だった。バスに乗ることや写真を撮ることはもちろん、大人になったら大型二種免許を取り、自分の手で運転したいとずっと思っていた。高校生になると、学校の勉強そっちのけで自動車教習所に通い、普通自動車免許を取得。アルバイト先に選んだのは、地元東京の西武バス営業所だった。彼女は取り立ての免許を手に東京都内や埼玉県内のあちこちを社用車で走り回り、バス停の設置や撤去、壊れたバス停の修理や交換、ゴミ拾いなどをやっていた。バス自体の運転ができなくても、好きなバスに関わる仕事をしているだけで彼女はとても幸せだった。

 それだけ彼女にとって"バス"というものは特別な存在であり、欠かせないものであった。そしてそれは、高校を卒業して憧れのバス運転士になってからも変わることはなかった。


 朝3時。静かな部屋の中でけたたましくスマホのアラームが鳴り響く。由紀は寝ぼけ眼をこすりながらアラームを止め、出勤の準備を始める。

 一般的なオフィスワークであれば、まだまだ3~4時間は眠れる時間。しかし路線バスはそんな人々を会社へ送る役割を担う。当然、出勤時間だってそれよりも早い時間になるものだ。

 寝間着から着替え、簡単にスキンケアを済ませ、眼鏡をかけて通勤用のコートを羽織る。

 ネクタイやリボン、制帽などは会社のロッカーに預けているため、出勤する時はワイシャツにスラックスという一般的な会社員とあまり変わらないスタイルだ。これに冬場はベストやジャケットを着用する。

 運転士はバス運転中を含め、勤務中の服装はすべて定められている。昨今はこれに異を唱え、作業着や普段着でいいだろうという声も運転士側から上がっているようだが、由紀は個人的にこの制服を着て仕事をするほうが好きだった。なぜなら、この制服を身に着けてバスのハンドルを握る、その姿こそが彼女にとって「運転士」という職業の理想の姿だったからだ。


 3時57分。時間きっかりに由紀は営業所の事務所に出勤した。運転士は出勤していきなりバスに乗るわけではない。乗る前から仕事は山積みだ。

 まず、出勤してすぐに営業所に備えられたアルコール検知器に息を吹いて検査を行う。酒気帯び運転や飲酒運転は当然違法であり危険な行為だ。ましてやお客様の命を預かる路線バスでそんなことがあってはならない。そのため、運転士全員には法律で運転前にアルコール検知器を用いた検査が義務付けられている。

 そのアルコール検知器でアルコールが含まれていないと判定されると、運行管理者という国家資格を持った社員が今日使う道具を用意してくれる。バスのエンジンキーと、行路表(こうろひょう)というスケジュール表の2つ。どちらも1日の仕事に欠かせない大事な道具である。

 エンジンキーは、言わずもがなバスを動かすために必要な鍵だ。一方で行路表というものは世間一般ではあまり聞き慣れないものだが、バス業界では運転士が必ず携行しなければならない必需品だ。これに今日一日のスケジュールが示されていて、会社によっては「運行表」とか「乗務割」「スターフ」などと呼ばれることもある。

 行路表には主要なバス停の名前、各バス停の発着時刻、行き先などが記載されている。今日の仕事のスケジュールを示したものだ。

 この2つは営業所の事務所内で常に保管されていて、勝手に外部へ持ち出したりすることのないよう厳重に管理されている。効率だけを考えれば、店を広げるかの如くカウンターに鍵と行路表をずらっと並べておき、運転士が勝手に取っていく方がいいのだが、当然そんな杜撰なことは許されない。万が一、間違った行路表を持っていって出発して迷子になってしまうとか、バス停で待っていたお客から"バスが来ない"といわれるなど、トラブルになってしまったら問題だ。だからこそ、運行管理者が責任を持って管理し、間違えの無いよう確認して運転士に手渡すルールになっている。


 由紀が免許証をカードリーダーに置くと、運行管理者のパソコンに「下里 由紀 免許証有効期限令和10年2月29日 出勤03:57:38」と表示される。免許証に内蔵されたICチップを読み取り、本人確認と出勤記録を同時に行うことができるすぐれものだ。

 アルコール検知器に使い捨てのストローを差し込み、そこへ思いっきり息を吹く。その間に由紀の顔をアルコール検知器に備えられたカメラが撮影し、本人であることを確認する。

 彼女が数秒息を吹いたあと、ちょっと考えるかのように機械が読み込みを行い、画面に「0.00mg/L 評価A」と表示された。アルコールが一切含まれていないことを示すメッセージだ。


「51ダイヤ出勤しました。飲酒検知異常なし」

「はい、異常なしですね。よろしくお願いします」

 アルコール検査が終わると、当直の運行管理者、野本聡(のもとさとし)が画面を確認し、行路表とエンジンキーを由紀に手渡す。野本の顔が少しやつれているように感じた由紀は、受け取り際に声をかけた。


「のもっちゃん、大丈夫?ちゃんと寝れた?」

「いや、ぜんぜん。昨日の夕方にねえ…永久保さんが体調崩して当欠しちゃってね。早出して乗務してたんよ」

「そりゃ災難だな…お疲れさま」

 彼が夜勤の前に呼び出され、当日欠勤した運転士のピンチヒッターとしてバス乗務に駆り出されたことで疲労困憊だったことを知った由紀は、ポケットから缶コーヒーを取り出した。

 野本は慌てて手を横に振って断ろうとする。


「いやいや、下里さん大丈夫ですよ。あと少しで帰れるし」

「いいって。私も急な変番とかで迷惑かけてるからさ。もらっといてよ」

「申し訳ない…いただきます」

 半ば由紀に圧されるように、野本は缶コーヒーを受け取った。

 バスの運転士が、仮に体調を崩したなどやむを得ず休まなければならない事情があるときなどは、この運行管理者が代わりに運転してくれる者を手配しなければならない。大型二種免許を持っている運行管理者は、どうしても代わりの手配がつかなければ自ら運転することだってある。運転士でありながら運行管理者も兼務する由紀は、そういった欠勤者の手配が大変なことをよく知っていたし、逆に自分も迷惑をかけることがあると分かっているからこそ、お互い様の気持ちでこうしてお礼や気遣いを欠かさぬよう心がけていた。


 運行管理者から必要な道具を受け取ったあと、今度は自分たちで準備をしなければならないものもある。それは乗務日報と日常点検表だ。

 この2つは運行管理者から受け取るのではなく、運転士自身が用意する。あらかじめ定められた様式で印刷されたものが事務所に置いてあるので、それを1枚ずつちぎって必要事項を記入する。これらは実際に乗務したときの状況、バスの点検結果を報告するための報告書であるから、当然運転士自身が手書きで記入しなければならない。ましてや代筆や改ざんなどもってのほかだ。前述の通り報告書なので乗務前に書ける内容はあまり多くないが、由紀は毎回乗務前にダイヤ番号、車両番号、氏名など先に書けるものは書いておくようにしている。仕事が終わった後に少しでもスムーズに帰れるようにするための、彼女なりの工夫だ。

 必要事項を書き終えたあとは、行路表や日報など紙はすべてバインダーに綴じ、鍵をポケットに入れ、最後に営業所の棚に保管されているバス車両用の金庫を取り出す。これで必要な道具はすべて揃った。ようやくバスに乗り込むことができる。…が、由紀は金庫を棚から取り出さず、その上にバインダーを置いて更衣室へ向かった。制帽とネクタイをつけるためだ。

 由紀が勤めている関北交通(かんきたこうつう)バスでは、男性と女性で制帽の形が違っている。女性用の方が丸みを帯びた形をしている。だが彼女は、敢えて男性用の制帽を被っている。男性用の制帽の方がかっこいいし、何より彼女にとっての「運転士」の理想の姿というのが、その制帽を被りネクタイを締めた姿だからだ。業務中に制服として着用するリボンも、わざわざお願いして男性用のネクタイにしてもらっている。こういうところに融通が効くのも、関北交通のいいところであり、彼女がこの会社を好きな理由でもあった。


 制帽とネクタイをつけ、先程のバインダーと金庫を持って、いよいよ事務所を出て今日使うバスのところへ向かう。営業所の車庫には何台ものバスがずらりと並んでおり、それぞれ姿形が違う。由紀はさっき運行管理者から受け取ったキーに書かれた「2638」という番号のバスを探しながら歩いていく。

 事務所から少し離れた区画に、社2638号車が止まっていた。平成26年式の日野ブルーリボンIIという大型ノンステップバスで、ボディのコーナー部分に丸みを帯びている新しいタイプのバスだ。関北交通バスでは、ナンバープレートとは別に4桁の社番を各車両に付与している。千の位がメーカーを、百の位が納車された年度を和暦一桁で表している。社番で車を指すときは「社****号車」と呼ぶのがこの会社では一般的だ。

 由紀がフロントバンパーの蓋を開け、中のツマミを下へ弾くと、プシュウというエアーの抜ける音とともに前扉が開いた。彼女は中に入ってしゃがみこみ、目の前にある機械"運賃箱"に金庫を差し込んだ。運賃箱は乗客が支払った現金運賃が収まる機械だが、支払った運賃は金庫の中に収納され、その日毎に売上として営業所で精算処理を行う。

 もしこれを差し込まないまま運行すると、乗客が入れたお金はそのままバスの床に落ちて散らばってしまう。実際そういった失敗をした運転士も少なからずいるし、由紀も入社したてのときはよくそれで先輩運転士に怒られたものだった。今は金庫を差さないとエラー表示とブザーが鳴り続け、お金の投入を受け付けない仕組みになっていて、そういった失敗をしないように工夫されている。

 金庫を差し込んだあとは、バスのメインスイッチを立ち上げて電気をつける。バスは乗用車と違い、電気系統を立ち上げるメインスイッチというものが別にある。乗用車であればエンジンキーを回せばエンジン始動と同時に電気系統もスイッチが入るのだが、バスの場合はまずメインスイッチを入れて電気系統を立ち上げてからエンジンキーを回さなければ起動しない仕組みになっている。

 ハンドルの右下に飛び出しているメインスイッチを押し込むと、"カチッ"という少し大きな音とともにメーター類やモニター、車内の電気が一斉に点灯した。彼女は軽く車内を見回し、球切れしているところがないか確認をする。まだまだ暗い時間帯なので、球切れして薄暗い状態のままバスを走らせるのも良くないし、何より整備不良だなんだと疑われ苦情を入れられるのが一番面倒だ。だからこそ由紀はこの始業前点検を欠かさぬよう気をつけている。もっとも、これは法律で定められた"必ずやらなければならない事"なので、むしろやって当たり前なのだが。

 車内の点検が終わり、外に出てヘッドライト、フォグランプ、テールランプ、ウインカー・ハザードランプ、車幅灯、行き先表示など外側の電気系統を確認した後は、タイヤやエンジンの点検を行う。タイヤのナットが緩んでいないか、空気が十分入っているか、エンジンのベルトは緩くないか、オイルは規定量入っているか…など、点検する項目は山ほどある。これらを限られた時間内で済ませ、点検簿に結果を記入し、異常があれば運行管理者に報告し指示を仰ぐ。ここまでやっても、まだバスは動き出していないどころか、エンジンすらかけていない。それでもこれだけの仕事があるのだ。


 由紀がすべての点検を終えた頃には、出勤してからもう20分過ぎていた。あと10分で出庫時間だ。彼女は日常点検表に"異常なし"の意味であるチェックマークを各項目に記入したあと、バスのエンジンをかけて暖房を全開にしてから、前扉(まえとびら)を閉めて事務所へ戻った。出庫点呼を受けるためだ。

 点検を終えた運転士は、運行管理者と出発前の最後の確認を行う。それが"出庫点呼"だ。これから使うバスに異常はないか、本人の健康状態に異常はないか、今日のスケジュールはもれなく把握しているか、事故や工事、交通規制など共有するべき情報はあるか…など、運転士と運行管理者の間で業務開始前の情報共有を行う場である。ここで伝えるべきことを忘れたまま出庫してしまうと、運行中に何かトラブルが起きたとしてもすぐには対応できない。そういった事態を少しでも防ぐための情報共有を行うのが目的だ。

 由紀は事務所に戻り、運行管理者の野本に日常点検表と行路表を差し出す。彼はそれを受け取ると、日常点検表に自分の印を押し、行路表を由紀に見える方向でカウンターに置いた。


「51ダイヤ点呼お願いします。車両状態よし、健康状態異常なし」

「はい。重点目標はなんですか?」

「『慌てるな 焦りとイライラ 事故のもと』」

「はい、そうですね。時計の整正(せいせい)お願いします」

 野本がそう言うと由紀は手元の腕時計を確認する。点呼を行う場所、"点呼執行台(てんこしっこうだい)"の横にはバス運行の基本となる時計が置いてあり、運転士は全員この時計と自分の使う時計がピッタリ同じ時間を刻んでいるかどうか確認する。バスは遅れは許されても早発は絶対に許されない。だからこそ、この点呼の場で時間が合っているかをお互いに確認し、出発するのである。

「4時18分、12、13、14…」

 腕時計の針が時を刻むのを見ながら、由紀はそれを声に出して読み上げる。それを聞きながら、野本は点呼執行台の時計と合っているかを自身の目で確認する。

「はい大丈夫です。今日は51ダイヤ、始発は西ノ入住宅(にしのいりじゅうたく)4時47分発車ですね。朝の忙しい時間は寄居(よりい)の駅前通りがかなり混みますので、焦らず運転してください。特にすり抜けの自転車や原付が多いので、接触しないように。それと…」


 野本は真面目なので、点呼の際は行路表を運転士と一緒に見ながら丁寧に情報共有を行うようにしている。他の運行管理者の中には、始発のバス停の確認と注意事項の有無など、最低限のことしか確認しない者もいたりする。ここは人によってそれぞれやり方があり、法令で定められた最低限必要なことさえちゃんと確認していれば問題ない。

 ちなみに、由紀は行路表を見なくても全部のダイヤを把握しているので、行路表を見ずに注意事項を的確に伝えるタイプだ。


「まだ出庫まで少し時間あるな」

 由紀が点呼を終えて腕時計を見ると、4時20分になったところだった。出庫時刻は27分なので、まだ少し時間がある。彼女は事務所裏の喫煙所に行き、一服してから出発することにした。

 事務所の裏口横にある、7〜8人ほどが入れる部屋が喫煙所だ。もともと会議室だったところに換気設備を増設して喫煙所にしたもので、少し広々としている。

 喫煙所に入ると、既に2,3人の運転士が出庫までの暇つぶしに談笑していた。そのうちの一人、50代なかばと思しき色黒の男性運転士が由紀に声をかけてきた。


「下里さん、おはようございます!」

泉水(いずみ)さんおはよう。今日は早番?」

「はい、今日は61で早番です」

「そっか、運転士の仕事はもう慣れた?」

「おかげさまで絶好調です!これからも無事故で頑張っていきます」


 彼…泉水忠(いずみただし)は今年の秋に入社したばかりの新人運転士だ。新卒で入って30年以上勤めてきた電力会社を辞め、退職金を使い自力で大型二種免許を取得してこの会社にやってきた。年齢こそ由紀より20以上も上だが、この会社では後輩にあたる。彼はとても礼儀正しく丁寧だ。こういった新人運転士の指導教育も由紀の仕事で、研修を終えて独り立ちしてからも彼女はこうしてコミュニケーションを取るように心がけている。中には同業他社から転職してきて「他のバス会社で何年も勤めてきたのに、今更こんな若い女に指導されるなんて」などと悪態をつく運転士も居たが、そんな運転士ほど何かしらトラブルを起こし、自分から居場所をなくして辞めていった。そういう人材を見きわめるのも自分の仕事だと思っていた由紀は、そのように悪態をつく運転士には、たとえ相手が屈強な男でも、年齢が上でも関係なく、とことん厳しく指導した。それほど彼女はこの仕事に誇りをもっていたし、全力で尽くしたいと思っていた。


 泉水や他の運転士と談笑している間に、点呼を終えて出庫を待つ運転士や出勤前に一服しようと寄ってきた運転士が集まってくる。喫煙室はたちまち混みあい始め、早朝とは思えないぐらいににぎやかになる。そうこうしているうちに、由紀の出庫時刻の4時27分になった。

 

「じゃあ出庫なんで行ってきまーす」

 そう言って由紀は喫煙所を出て、裏口から2638号車へ向かった。いよいよ運行開始だ。

 戻ってから前扉を開け、運賃箱のICカードリーダーに社員証をタッチする。このカードリーダーは通常、ICカードから運賃を引き去るために使うものだが、それを起動させるために認証が必要だ。この関北交通バスでは社員証に同じようなICチップが埋め込まれており、これをタッチすることでICカードリーダーの起動と終了を行うことができるようになっている。このカードリーダーを起動させておかないと、乗客がICカードをタッチしても反応しない。要はタダ乗りし放題になってしまうのだ。

中に入ると、まだ寒かった。バスは車体が大きい故、暖房を全開にしても暖かい空気が回るのに時間がかかる。冷房の場合は、運転席を含めて天井に吹出口がずらりと並んでいる。そのおかげで冷えやすいのだが、代わりに暖房は3つの座席の下に吹出口があるだけ。運転席には「プレヒーター」という灯油を燃やして温める暖房器具があるが、これも車種によってはついていないものもある。夏よりも冬のほうがバスの温度調節は難しいのだ。

 由紀は運転席の後ろに掛けておいたコートを羽織り、ハンドルとシフトレバーを握った。最初のバス停、西ノ入住宅までは回送で15分ほどだ。


西ノ入住宅のバス停は、住宅地を通る道路に隣接する敷地にある。2台分バスが止められる駐車枠の引かれた待機場に、プレハブの休憩所。そしてその対角線上の反対側に、バス待合所と乗降場所がある。乗降場所は段差が少なくなるよう駅のホームみたいに嵩上げされており、”行灯(あんどん)”と呼ばれる中に電気が入っていて夜間光るタイプのバス停標識が設置されている。まだ薄暗いこの時間、バス停標識もまだ煌々と光っている。


由紀はバスをぐるっと転回させ、その乗降場所に寄せて停車。アナウンスをして中扉(なかとびら)を開けた。

『お待たせしました、折原駅(おりはらえき)経由寄居駅バスターミナル行きです』

バス停には既に5、6人の客が待っていて、彼女が扉を開けるなり急いでバスの座席に座った。よほど外は寒いのだろう。だがバスも先述のとおり暖まるのに時間がかかるため、車内も多少寒かった。客の一人は寒いことに不満だったのか、席に座るなりチッとわざとらしい舌打ちをした。


(しょうがねえだろ、暖房弱いんだからよ)

 マイクでそう言ってやりたかったが、由紀はぐっとこらえた。様々な人が利用する路線バスで、こういった理不尽なことは日常茶飯事だ。時に暴言を吐いたり、ものを投げつけるなど常識では考えられない行動をする乗客もいる。そういった客をなだめなければならないこともあるが、基本的に関北交通バスは"暴言や暴力を受けたら即時運行を停止し、運行管理と警察へ通報すること"と常日頃から厳しく指導されている。

 だが、実際にはその場でトラブルになることは少なく、ほとんどの客はバスを降りてから営業所や本社へ電話してくることが多い。そのような電話を受けたときは、運行管理者がドライブレコーダーを確認して当時の状況を調べることになる。関北交通バスの車両に搭載されているものはクラウド式で、映像はリアルタイムで録画されサーバーを介して保管される。そのため、運行管理者は連絡を受けたらすぐその場で映像を見ることができる仕組みになっている。

 こういう苦情には、運転士に非があるようなトラブルもあるが、何より多いのは"客が勘違い、または一方的に思い込んでいるが故に起きたトラブル"と"客が100%悪いトラブル"の2つだ。どちらもいわゆる"カスタマーハラスメント"に該当するもので、こういったトラブルに関しては会社も毅然と突っぱねる。

 このクラウド式ドライブレコーダーのおかげで、そういった客側に原因のあるトラブルが可視化されたことで、昔のように言われっぱなしで泣き寝入りするようなことも減った。そういう取り組みを会社が進めていることも、由紀がこの会社が好きだと思う要素の一つ。だからこそ、理不尽なことを言われても耐えられる。

 程なくして発車時間になったので、由紀はミラーを通して周囲に客がいないことを確認し、扉を閉めた。西ノ入住宅4時27分発、寄居駅バスターミナル行きの始発バスは定刻通りに発車した。

 西ノ入住宅のバス停を出て住宅地を進むと、T字路の交差点に突き当たる。目の前にはJR八高線(はちこうせん)の折原駅があり、ここが最初の停留所"折原駅前"だ。駅舎の前がそのT字路の交差点になっているため、交通の妨げにならないようバス停は交差点から少し離れた手前側に立っている。始発の西ノ入住宅バス停から歩いて10分にも満たない距離なので、ここで乗り降りする客もほとんどいない。

 だが、今日は1人だけ待っていた。由紀は暗い中でバス停の横に人影を見つけ、ウインカーを焚いてバス停に停車した。


「寄居駅バスターミナル行きです」

 スピーカーを通してアナウンスし扉を開け、客が座席に座ったことを確認して扉を閉める。

 そのあとも、変電所前、鉢形城(はちがたじょう)歴史館前と何箇所かのバス停を通り、そのたびに客がバス停にいないことを確認して通過する。そのときに必ず行わなければならないのは、"車内案内の操作"である。

 バスの車内には次のバス停とそこまでの運賃を表示する”運賃表示器”と呼ばれるディスプレイが設置されている。この運賃表示器と車内で流れる自動放送、”方向幕(ほうこうまく)”と呼ばれる行先を表示する機械はすべて"音声合成"と呼ばれる機械によって動作しており、運転士はこの音声合成を設定してお客様への案内を行う。音声合成と運賃表示器、そして自動で流れる”車内放送”は、すべてタイヤの回転とドアの開閉に連動している。バス停で停車した場合は、扉を閉めてから一定の距離を走ることにより自動で次の停留所に切り替わるが、通過する場合は運転席横にある”送りボタン”と呼ばれるボタンを押して手動で切り替えなければならない。運転士はバス停の少し手前から客が待っているかどうかを確認し、バス停を過ぎた時点でボタンを押す。当然、この間に客が建物の影やバスの後ろから追いかけてくる可能性もあるのだが、関北交通の場合は"バス停を目視した時点で客がいなければ通過してもよい"というように指導している。そのため、バス停にさしかかった時点でバスを追いかけても運転士が気づいてなければ乗ることはできないし、運転士も基本的にバス停を過ぎてから乗せることはない。


 鉢形城入口バス停を過ぎると道路沿いに再び建物が増え、道路にも車が増えてくる。その次の上の町(うえのまち)バス停を過ぎて、突き当たりのT字路を左折するので、由紀はウインカーを上げる。しかし既に歩行者信号は点滅しており、数十秒もすれば赤信号だ。彼女はアクセルを踏まず、ギアを落としてゆっくりと止まった。ちょうどバスが停止線に止まったぐらいのところで、信号は赤に変わった。乗用車なら、大抵のドライバーはアクセルを踏んで勢いよく曲がっていくところだろう。しかしバスは大型で小回りも利かないし、機動性もあまり高くはない。それに交差点も狭いので、無理に曲がろうとすればガードレールや信号機、電柱にミラーや車体をぶつけてしまう。そういった状況判断による運転も、バス運転士に求められる技術のひとつだ。

 由紀がバスを停車させてサイドブレーキのレバーを落としたとき、後ろからわざとらしいため息が聞こえた。ふとルームミラーを見ると、スーツ姿の中年男性が明らかに不機嫌そうな顔をしながら、何やらもぞもぞ言っている。『さっきの信号、行けただろ』とでも言っているのだろう。そういえば、始発の西ノ入住宅で乗ってきて車内が寒いことに舌打ちしていたのも、スーツ姿の男だった。由紀も顔まではよく見ていなかったが、他に同じような姿の乗客はいないので、おそらく同じ人物だろう。


(こりゃ降りる時に何かしらありそうだな)

 由紀はちょっと身構えた。だいたい降りる間際に悪態をついてくるとか、クレームを入れてくる乗客は、パターンが決まっているものだ。運行中にため息だとか舌打ちだとか、運転席の方をジロジロ見てくるとか。大抵、こういう乗客は物を投げてくるなどの危害をくわえてくることは無いが、そういったものを嫌がる運転士も多い。長い時間気を張って運転しているから、まるで嫌がらせをしているようにも感じると言う。


 荒川(あらかわ)をまたぐ橋を渡り終えると、栄町(さかえちょう)バス停だ。駅のすぐ手前ということもあって、ここではほとんど乗降扱いは無い。由紀はバス停を目視して待っている客がいないことを確認し、そのまま通り過ぎた。バス停を通り越したところで、”送り”ボタンに乗せていた右手のひらを押し込み、放送を次のバス停へ送った。

『おまたせいたしました、次は終点寄居駅南口、寄居駅南口でございます。お忘れ物のないよう、ご注意願います』

 運賃表示器の液晶画面が切り替わり、終点の放送が流れる。この放送を合図に、車内の客は支払いの準備を始める。定期券を手元に用意する者、ICカードを用意する者、小銭入れを取り出してひとつひとつ丁寧に数える者…残り1、2分のわずかな間ではあるが、ここできちんと用意しておかないと支払いに手間取って後の乗客を待たせてしまうことになる。このバスは中扉から乗車し前扉から降りる、運賃を降りる際に支払う後払い方式だ。なので、到着前に支払いの準備をしておくのがスムーズでよいとされている。

 駅前の交差点を直進し、そびえ立つ駅ビルの1階に整備されたロータリーに進入する。2つの降車バス停が左側に並んでいる。由紀は奥のバス停にバスを合わせ、左に寄せて停車した。

「おまたせしました、終点寄居駅バスターミナルです」

 放送すると同時に前扉のスイッチを弾き、扉を開く。既に運転席すぐ後の通路に列を作っていた乗客たちが、次々と定期券の日付と区間を見せて降りていく。その中に、例のボソボソ文句を言っていたサラリーマンもいた。由紀は何を言われるかと身構えたが、彼は何も言わずにごく普通に定期券を見せ、無言で降りていった。あれだけの態度を見せておいて何事もなく降りていくもんだから、由紀は思わず拍子抜けしてしまった。

 ほかの乗客が降りていったあと、由紀はふと運転席のバインダーに挟んでいた行路表を見た。到着時間は4時57分。今の時間は4時55分。そう、さっきのサラリーマンは予定到着時刻よりも早くバスが着いたので、何も言わずに降りていったのだった。

 路線バスの時刻設定は、早発を防ぐために通常の運行速度よりも速いペースで組まれている。彼女がいま乗務している西ノ入住宅線は、途中の各バス停で1人も乗降が無く信号機も止まらなければ7〜8分ぐらいで到着してしまう。今回も途中バス停で乗車があったのは折原駅前1箇所、降車は一切無かった。実際にかかったのは10分もないぐらいだ。

 しかし、いつもそのペースで走れる訳ではない。このあと6時を過ぎれば通勤ラッシュで道路も混み始める。そうでなくても、途中バス停で車いすなど乗り降りに時間を要する客が乗ってくることも考えられる。そういったことも考慮して、関北交通バスでは終点の一つ手前のバス停から終点までの一区間で、かなり多めの時間を取っている。これをいわゆる"捨て時間"と言う。この捨て時間のおかげで、さっきのサラリーマンは「予定よりも早く着いた」と思って、何も言わずに降りていったのだった。


 この後は折り返し5時06分発の西ノ入住宅行きになり、来た道を再び戻る。その前に由紀はハザードランプを焚いて一度バスを降り、駅ビルにあるコンビニへ向かった。飲み物を調達するためだ。

 この会社では、運転中でも信号待ちやバス停での時間調整などの停車している状態に限り、運転士の水分補給を認めている。運転席にはドリンクホルダーを設置しており、わざわざ席を離れなくても飲むことができるようになっている。

 これから朝ラッシュに突入すると飲み物を買うタイミングが無くなるので、余裕のある今のうちに買っておくのが得策だと由紀は考えた。

 降車場所のホームから入って目の前にあるコンビニに入り、ペットボトルのカフェオレを2本買う。カフェインの入った飲み物は、眠気覚ましにはうってつけだ。運転席に戻り、1本をドリンクホルダーに。もう1本は運転席の後ろに隠してある鞄に突っ込んだ。次のバスが来る前に、由紀はドアを閉めてバスターミナルの角を曲がった先にある乗り場の方へとバスを移動させた。寄居駅南口のバスターミナルには何箇所かのバス乗り場が設置されているが、ここには1番乗り場と2番乗り場の二か所が縦列で設置されている。西ノ入住宅行きが1番乗り場、2番乗り場は外資系自動車部品メーカーの工場へ向かうバスと、町の南西のはずれ、山の上にある集落である坂本へ向かうバスが発着する。発着する本数は圧倒的に1番乗り場の方が多いが、混雑は2番乗り場の方が激しい。朝の通勤時間帯には、工場へ向かう従業員が皆ここからバスに乗っていくからだ。実際、まだ5時だというのに既に2番乗り場のバス停には社員と思しき男性がベンチに座って待っている。由紀のバスが1番乗り場へ向かうため2番乗り場の前を通ると、彼は一瞬だけ顔を上げたが行先を確認してまたスマホに視線を戻した。

1番乗り場のバス停標識に前扉を合わせるようにバスを寄せて、中扉を開く。待つ人はおらず、静かだ。バスの車外に設置されているスピーカーを通じて、自動の『西ノ入住宅行きです。ここでは整理券はいりません。運賃は10円単位の現金運賃と、1円単位のIC運賃がございます…』という、扉を開けている限りループする放送が流れるだけだ。

結局、誰も来ることはなく定刻の5時06分になった。しかし、由紀は腕時計でその時間を確認しても、すぐには動かない。5時06分になってから、秒針が1周したのを確認してから、中扉のスイッチをはじいてドアを閉めた。

路線バスは先ほども書いたとおり、遅れは許されても早発は絶対に許されない。出庫前の点呼で時計が合っていることを確認しているとはいえ、それでも客は自分の時計が正しいと信じているので「早発していた」と言われてしまうと、それを覆す証拠を出すのは簡単ではない。だからこそ由紀は独自の対策として、発車時刻になってから秒針が1周してから発車するようにしている。すると、実際に動き出すのは発車時刻の1分後なので仮に数秒程度のズレがあっても問題ない。


西ノ入住宅と寄居駅南口の間を3往復して、6時30分に最初の休憩に入る。本来であれば6時35分から休憩に入るところだが、駅に向かう方と違って西ノ入住宅に向かう時は車の往来も非常に少ない。その結果、かなり早く着いてしまった。次の発車時刻は7時15分。30分ぐらいは寝られるか、と思った由紀は、バスを敷地の奥にある駐車枠に止め、一番後ろの座席へ向かった。通常の路線バスは、一番後ろの座席が仕切の無い長椅子のようになっている。休憩所に入りたくないとか、折り返しの時間が少ないけど横になりたいときなどは、こうして座席に横になることもある。由紀は仮眠用にいつもフェイスタオルを持ち歩いており、これをたたんで枕代わりにする。

スマホのアラームを発車時刻の5分前に設定し、バス停のある方向へ足を向けて、彼女はたたんだタオルを枕代わりに眠り始めた。それなりに走って車内も暖まっていたので、かなり心地よい。


一度眠ってしまうとあっという間だ。気がつくともうスマホのアラームが鳴りひびいている。由紀はアラームを止めて、タオルをもって運転席に戻る。”送り”ボタンを押下すると、方向幕と車内の運賃表示器が寄居駅南口行きの表示に変わる。メインスイッチを入れてエンジンをかけ、暖房を全開にする。30分でもかなり冷えてしまっており、再び暖まるには時間がかかりそうだ。由紀はハンドルをきりながらゆっくりと駐車枠からバス停に向かい、バス停標識に前扉を合わせるようにバスを寄せて、中扉を開く。既に7時をまわり、バス停には20人ほどが待っている。中扉が開くやいなや、暖を求めて足早に車内へと入ってくる。特に普段利用していて分かっている人は、足元にヒーターがついている座席を把握しているので、その席めがけてやってくる。

7時15分になって秒針が一周したところで、車外スピーカーを通じて「寄居駅南口行きです。発車いたします」と手短にアナウンス。中扉のスイッチをはじいて扉を閉め、シフトレバーを2速に入れてクラッチをつなぐ。バスは急な上り坂などでもなければ、1速を使うことはあまり無い。ガソリンエンジンと違ってディーゼルエンジンはパワーがあるため、うまく回転を合わせることで2速どころか3速での発進も可能だ。由紀はこういった運転のテクニックも、仕事を通じて知ることのできるものの一つだと思っている。彼女はバスに関することであればなんでも知りたいし、なんでも経験したかった。ただ、かといって経営役職者にはなりたくない。デスクワークばかりしているよりは、こうやって実際にバスの運転をしているほうが楽しい。主任運転士という役職をもっているものの、助役や副所長にならないかという誘いは断り続けている。


次の休憩までは2往復。もうすでにラッシュアワー真っ只中で、交通量も増えている。上の町バス停を過ぎて突きあたりにあるT字路を左折して荒川を渡る橋にさしかかると、もう既に駅前通りへ渋滞が発生中。普段は1分もかからずわたりきれる、たった200mの橋は、全然動かない。由紀はドリンクホルダーに入れたカフェオレを飲みながら動くのを待ち、前が動くと2速でアクセルを入れることなく惰性でゆっくりと前に進む。その繰り返し。進行方向左側には荒川の河口と、その周りにある寄居港の建物が見える。埠頭には貨物船やタンカー、フェリーなどが停泊しているのが見える。これらは武蔵野湾と呼ばれていて、その港町として機能している寄居は、開発も進んでいて駅の周りは非常ににぎわっている。だからこそ、これだけの渋滞も毎日のように発生している。

200mの橋を10分かけて渡りきり、寄居駅バスターミナルには7時35分に到着。乗客を降ろしたあとにふと行路表を見ると、次の発車は7時38分。あと1、2分しか無い。車内を一番後ろまで駆け足で確認し、忘れ物や乗り過ごした人などがいないことを確認してから、再び1番乗り場へとバスを移動させた。


2回目の休憩に入るころには、忙しい運転操作と接客対応でかなり疲れていた。だが、由紀はそれ以上に腹が減っていた。出勤前に何も食べてこなかったので、このタイミングで朝食を食べたいと思った。西ノ入住宅のバス停から少しバス通りを戻ったところ、県道との交差点にコンビニがある。そこで軽く朝食を買って食べることにした。

バス停で乗客を降ろし、バックで駐車枠に入れる。隣に既に別のバスが止まっているため、何度か切りかえしつつ衝突しないよう慎重に枠へ入れる。隣のバスの運転士は同じ寄居営業所の運転士。ショートカットの茶髪に、派手すぎないちょっとギャル系のメイク。だが、誰だかわからない。最近入った者か、それともシフトの関係であまり会わない人か。どちらにしても、彼女が窓越しに由紀に気づいて会釈してきたので、由紀も会釈を返す。言葉を交わすことはなくとも、この挨拶ひとつで相手が”普通の運転士”であることがわかり、少し由紀はほっとした。こういうタイミングでも、クセのある運転士は挨拶を返さないとか、嫌そうな顔だけしてくるといったこともザラにある。どうしてもワンマンで仕事をするという環境から、そういった変わった人間も多い業界だ。だからこそ、普通に挨拶ができるというだけでも、この仕事では人間関係をスムーズに進めることができるのである。


コンビニでパンと飲み物を買って西ノ入住宅のバス停に戻ると、さっきのギャルっぽい運転士が喫煙所にいた。

由紀は食べ物を運転席に置き、一服するために喫煙所へ行った。


「隣、いいですか?」

「はい、大丈夫ですよ」


簡単な会話。その直後、由紀の方から口を開いた。

「最近入ったんです?」

「ええ。遅くなってすみません。私、中谷恵里(なかたにえり)といいます」

中谷はその印象からは意外なほど、丁寧できちんとしていた。30代後半だという彼女はもともと九州で西鉄バスの運転士として働いていたそうで、結婚を機に旦那の地元である埼玉へ越してきたという。


「このあたりはのんびりしていていいですね」

「そうですか?」

「ええ。西鉄のときは砂津(すなつ)にいたんですけど、交通量も多いし忙しくて」

砂津というのは西鉄バス北九州の小倉(こくら)自動車営業所のこと。小倉駅の近くにあり、北九州市の中心部だ。乗務員からはその所在地から「砂津車庫」とか「砂津」と呼ばれていたらしい。彼女はそこで路線バスの運転士として働いていたのだ。

由紀はアルバイトを除けばこの関北交通バス一筋ではあるが、そういった他社の仕事の話は大好きだ。気が付けば、買った朝食そっちのけで休憩中ずっと中谷と話をしていた。


一足先に中谷の方が9時15分発の寄居駅バスターミナル行きで出発していった。彼女は”通し番(とおしばん)”というダイヤで、8時35分出勤、18時59分退勤という長丁場(ながちょうば)。入社してまだ半年も経っていないようだが、経験者故にもう独り立ちして普通に長い勤務のダイヤをこなしている。由紀はそんな彼女と話をして、さすがだな、と思う反面、西鉄のやり方に慣れすぎてこの会社でのやり方になじめなかったら大変だろうな、とも思った。経験者も少なからずこの関北交通バスには入ってくるが、だいたい自分がいた会社のやり方を持ち出そうとして先輩たちとぶつかり、結果的に退職するというケースが後を絶たない。彼女がそういうタイプには見えなかったが、どうしても人間はレッテル貼りをしたがるものだ。仮にそんなことがあったとしても、それにくじけず長く勤めてくれるといいな。主任運転士として私が守ってやらなきゃな、と由紀は思った。


約1時間の休憩を終えると、いよいよ今日のラストスパートだ。このあとは1往復して終了だが、この休憩明けからはこれまで走ってきた経路とすこし変わる。寄居駅から来て、鉢形城入口のバス停に向かう前に、手前の交差点を左折してある施設に立ち寄る。かつて戦国時代ここに存在した鉢形城についての資料などを展示している”鉢形城歴史館”。その開館時間である9時30分から16時30分までの間とその前後数本のバスは、この鉢形城歴史館の敷地内にあるバス停まで直接乗り入れるのだ。行路表にも、鉢形城歴史館まで乗り入れる便にはオレンジ色の丸印とともに「歴史館」という文字が記されており、間違って交差点を直進して通り過ぎないような工夫がされている。


西ノ入住宅を9時15分に発車し、一路寄居駅へ向かう。ラッシュアワーも終わり、交通量は多少落ち着いた。しかしそれでも日中なので車の数はそれなりにある。幹線道路でもない道なので、道幅も狭い。由紀はこまめにミラーにも気を配りながら、左右に寄りすぎないようハンドルで微調整しつつ運転する。

変電所前のバス停を過ぎて、交差点を左折。すぐに右手に”鉢形城歴史館 P→”と書かれた看板が見えた。対向車線に注意しながら、ハンドルを切って右折。約3mほどかと思われるそこそこ狭い道を、ゆっくりと鉢形城歴史館の方向へ進んでいく。道路の幅のほぼいっぱいを使って走っているため、対向車が来たら広いところで待っててもらわなければならない。とはいっても、まだ開館直前なので車が来ることも無いのだが。

開館準備真っ最中の鉢形城歴史館の前に立つ、裏と表に掲示できる板のついた、背の高い”新二面(しんにめん)”と呼ばれるタイプのバス停標識の前にバスを止め、ドアを開ける。当然、開館前なので乗降はゼロ。時間を確認して、再び来た道を戻って寄居駅方向へ向かう。


駅では、数人の高齢者が乗ってきた。いかにも外向きの恰好で、なにやら楽しそうに会話しながら座席に座った。どうやら目的地は、鉢形城歴史館のようだ。


「鉢形城歴史館経由西ノ入住宅行き発車となります」

車外スピーカーを通じてアナウンスを行い、中扉を閉める。10時04分発、鉢形城歴史館経由西ノ入住宅行き。今日、由紀が運転する最後のバスだ。これが終われば、仕事はおしまい。

来た道を戻るだけなので、難しいことは無い。道も空いているし、途中での乗り降りもほとんどない。そして鉢形城入口のバス停を過ぎて”送り”ボタンを押下し、右ウインカーをつける。行きも立ち寄ったが、当然帰りも同じように鉢形城歴史館へ立ち寄る。

右折してまた看板の見えるあたりまで来たが、ここで由紀は歴史館へ通じる道からバスの屋根が見えるのに気づいた。曲がる交差点に近づいても、右ウインカーを出すだけでそこから先には進まず、ブレーキをかけて停車した。車内の高齢者たちが、バス停でもないのになぜか止まったことに不思議そうな顔をする。しばらくすると、その道から同じ関北交通バスの色をした別のバスが出てきた。同じクリーム色に、濃淡2色の緑の帯。その下に紺色の帯。しかし車体の形は由紀の乗っている社2638号車とは違い、出っ張った行先表示につり目のようなヘッドライト、そして角張った車体に曲線の多い前面。個性的な形をしているバスだ。由紀の乗っているバスと同じ日野自動車製のバスだが、これは”ブルーリボンシティ”と呼ばれる一世代前の古いタイプのバスで、関北交通バスでは数少ないレアなバスだ。前面と側面に記された車両の番号は”2601”。年式の数字が社2638号車と同じだが、こちらは平成16年式。番号が近いように見えても、かなり古いバスだ。

社2601号車がゆっくりと歴史館の方向から出てきて、交差点を左折してくる。後輪が縁石に乗り上げないよう、由紀のいる車線まで大きく先頭部を振ってくる。そう、彼女が歴史館へ入らずここで待っていたのは、先にいたこのバスを行かせるためだった。奥に進んだバス停のあたりであれば、すれ違うことも当然可能なのだが、先ほどのとおり歴史館へ向かう道は幅3mほどでバス1台しか通れない幅。先ほどバスの屋根が見えたときに、そのまま後先考えずに突っ込んでしまうと、この狭い部分で鉢合わせしてしまったときに大変だ。仮にその状況で由紀の方がバックすれば、後が道路にはみ出してしまい交通の妨げになる。そうならないよう、気づいた時点で先手を打って入る前に減速(げんそく)し、先に来るバスを行かせてから入線することを考えたのだ。ただ運転するだけではなく、こうやって大きな車体で走る以上先の交通状況も考えて運転することが、バス運転士にとって大事なことなのだ。

社2601号車の男性運転士が、すれ違いざまに挙手(きょしゅ)で由紀にあいさつをする。「待っててくれてありがとう」の意味だ。由紀もまた挙手であいさつを返し、再びバスを出発させた。右折してすぐ、鉢形城歴史館のバス停だ。


鉢形城歴史館で高齢者グループが降りていき、車内は再びがらんどう。由紀はこの先も人が乗ってくることはないだろうと考え、先に忘れ物などの車内の点検を済ませてから発車した。この真っ昼間の時間帯、駅へ向かう便ならまだしも、西ノ入住宅へ向かう便に乗るような人はほぼいないだろうと踏んだ。


変電所前、折原駅前と停まり、結局乗ってくる客はゼロ。西ノ入住宅の敷地に入ってもバス乗降場所には止めず、アスファルトが敷かれた広いスペースの中心に番長止め。車内の確認と行先表示を”回送”に設定したあとは、すぐに車庫へ向けて出発だ。

これで、今日の仕事は終了。あとは車庫に戻って給油し、次に使う人のためにバスを指定された場所へ格納すれば、点呼を受けて帰ることができる。


寄居営業所は、先ほどの外資系メーカーが保有している工場の近くにある。敷地面積は約5,000㎡。野球場のフィールドよりも広い敷地に、ずらりとバスが並ぶ。そしてその出入口のあたりに、給油用のスタンドと立派な3階建ての事務所、整備工場が建っている。

正門から入ると、由紀は社2638号車を正面のスタンドへ止めた。スタンドは島のようになっており、両側でバスを止めて給油できるようになっている。ただ、大抵のバスは左側に給油口があるので反対側のスタンドを使いたいときは、一度車庫内で転回してバスを車庫の出入口に向けるような形で止めないと使用できない。そのため、どうしても給油しやすい1箇所のスタンドに集中しがちだ。昼間や夜の入庫が続く時間には、面している道路にまでバス渋滞が発生することも度々ある。

由紀は今日一番早い出庫時間のダイヤだったので、当然帰りも早い。まだ入庫の続く時間でもなく、むしろこれから出勤する人の方が多い時間だ。広い出入口から車庫の敷地に進入して給油スタンドにバスを止めると、朝点呼を受けたばかりの野本がやってきた。


「お、のもっちゃん。終わり?」

「終わりましたよ。ようやく帰れます。…下里さんの顔を見る前に帰ろうと思ってたんですがねー」

「ちょっと、どういうことよ。それー」

くだらない冗談を交わしながら、由紀は左手で乗客が運賃を支払う”運賃箱(うんちんばこ)”という機械についているディスプレイを操作し、赤い枠で囲まれた”解錠(かいじょう)”のボタンをタップ。『乗務員IDカードをタッチしてください』という音声が流れ、社員証をタッチ。すると、運賃箱の中がガチャガチャ、ジャラジャラと音を立て始めた。この操作で、運賃箱にセットされた金庫に、現金が収納される。両替機能もついているため、すべてが金庫に入るのではなく種銭(たねせん)として運賃箱の種銭ボックスへ入るものもあるが、そうでない現金はこの解錠処理によって金庫へ収納される。すべての収納が終わり、ICカードの売り上げデータが仮締めされ、インターネットを介して営業所の集計用パソコンへ送信される。すべての処理が完了すると金庫の蓋が閉まり、ようやく運賃箱とのロックが解除される。これで取り外した金庫を営業所にある大型の”精算機(せいさんき)”と呼ばれる機械へ差し込むことで、売上金をまとめて納金するのだ。

しかし、この解錠処理はそれなりに時間がかかる。由紀は運賃箱が動作している間に、運転席の足元から1枚のカードを取った。そして前扉を開けてバスを降り、車体側面にある給油口へ向かう。給油口の蓋を開け、静電気の除去を済ませてからカードを通す。すると給油機のロックが外れ、軽油の給油が可能になった。ノズルを給油口へ差し込み、給油を始める。その間にも、開けっ放しの前扉からは運賃箱が解錠処理をしている機械の音が聞こえる。野本がそれを見て、由紀に声をかける。


「金庫、持っていきましょうか?どうせ帰り際なんで」

「いやいや、いいよ。早く()がんな。眠いでしょ?」

気を遣ってくれるのはありがたいことだが、野本は昨日の午後から仕事をしている。20時間ぐらいの勤務だ。こういった少しの気遣いで事務所に戻ると、彼の性格上また何かしら頼られるに違いない。それでズルズルと帰るタイミングを逃してしまうことを、由紀はよく知っていた。だからこそ、気を遣うな、早く帰りなと言った。

給油を済ませ、給油口の蓋を閉める。そして給油機から印字されたレシートを受け取ると再びバスに戻る。ちょうど解錠処理が終わったようで、『金庫を抜いてください』という機械音声が流れた。由紀は運賃箱の足元部分にある金庫を引き抜き、さっきのレシートとともに事務所へと持って行った。


事務所では、運行管理者のデスクで若い女性が仕事をしている。由紀よりも若く、まだ20代前半というところか。紫色のくせっ毛のあるショートヘアに、色白で少し童顔気味。そして由紀よりも太い縁の眼鏡をかけている。彼女は高見原真貴(たかみはらまき)。由紀の妹であり、同居人だ。妹と言っても血がつながっている訳ではない。事情があって家出して逃げていたところを、由紀の運転する名古屋行き高速バスに乗って命拾いしたという経歴を持っている。


由紀がドアを開けて事務所に入ると、真貴は顔を上げて「おつかれさまです!」と声をかける。


「おつかれー。今日真貴が昼当務(ひるとうむ)なんだ。はい、異常なしね」

そう言って由紀は運転日報と行路表を渡す。真貴がそれを受け取って確認している間、金庫を精算機の開口部(かいこうぶ)に突っ込む。金庫がガチャリとロックされると、横のディスプレイの画面が変わる。ここでタッチパネルでこの金庫を使用したときのダイヤ番号を入力することで、そのデータと同時に精算機に金庫の中の現金が納金され、10円、100円などの金種毎(きんしゅごと)に仕分けられて保管される仕組みだ。

タッチパネルで”51”を入力すると、精算機がゴウンゴウンと大きな音を立てて動きはじめ、中の現金が落ちていく音がし始めた。精算作業が始まった。

由紀がその間にバスを戻すため事務所から出ようとすると、「下里さん」と誰かが呼び止めた。見ると、体格の大きい50代ぐらいの運転士が由紀のもとへへ近づいて来る。先輩のベテラン運転士、進藤知也(しんどうともや)だ。


「今日使ってるの、2638だろ?俺がこの後乗るからよ、そのままでいいよ」

「え、掃除間に合います?大丈夫ですか?」

「大丈夫。真貴ちゃんが掃除と格納してくれっから」

「掃除も格納もしません!下里さん、16番線の一番前に止めてください!」

いきなり話を振られた真貴が、思わず立ち上がって言い返した。進藤はそれを見て面白がるように笑い、「じゃ、そういうことだから。格納と金庫だけよろしくな」と言って再び喫煙所へ戻っていった。由紀はこれで仕事が終わるが、バス車両はそのまま別の運転士が引き継いで乗務することがある。その場合は、金庫を一度精算したうえで再び運賃箱へセットし、次に使う運転士の仕事が少なくなるようにセッティングをする暗黙のルールがある。本来であれば清掃もしなければならないのだが、この寄居営業所には元運転士だった嘱託の高齢社員や学生アルバイトなどの清掃スタッフが在籍しており、彼らが車内の掃除をするようになっている。由紀が精算の終わった金庫を戻すためバスに戻ると、すでに車内で女子大生のアルバイトスタッフがモップ片手に床の掃除をしていた。


「おつかれさま。ありがとね。ちょっと動かすよ」

「おつかれさまです、承知しました!」

由紀は金庫を再度運賃箱へセットし、運転席へ戻って社2638号車を動かす。真貴から指示された16番線は縦列駐車のスペースである。縦に2台分の縦列駐車ができる駐車枠があり、14番線から21番線まで7列ある。コンクリートに”16-1”と書かれた駐車枠を見つけ、そこへゆっくりとバックさせる。一つ後ろの16-2には、しばらく使っていない社1403号車が止まっていた。いすゞのノンステップバスだが、車体が角張っていて四角いヘッドライトがバンパーに左右対称に設置されている、少し古めかしいデザインだ。これは富士重工業(ふじじゅうこうぎょう)製の”新7E”と呼ばれている車体で、かつてはこのように車体のメーカーとシャーシやエンジンのメーカーが別であることもよくあった。そして、この車は由紀のお気に入りの1台でもある。大好きな社1403号車にぶつけないよう、慎重にバックモニターやミラーを見ながら下がり、社2638号車を駐車枠に収める。

日が出ているとはいえまだまだ寒いので、由紀はエンジンをかけたままにして前扉を開けた。


「掃除終わったら、エンジン切っておいてね。鍵は差しっぱなしでいいよ」

「はい、おつかれさまでした!」

「おつかれー」

掃除を続けている女子大生に声をかけ、由紀は私物をもって外に出る。帰り際、彼女は事務所に立ち寄り、ドアを開けて真貴に声をかける。

「車、16-1に格納しておいたから。おつかれー」

「はい、おつかれさまでしたー」

真貴は忙しいのか、半ば生返事だ。それも致し方ない。ちょうど今は出庫と入庫の点呼が入り乱れる時間。忙しいところでしつこく声をかけるのもかわいそうだ。事務所の入り口横にあるカードリーダーに社員証をタッチして、由紀は事務所を出た。


これですべての業務が終了し、由紀の仕事は終わり。入庫の点呼は形式ばったものではなく、必要なものだけ揃えて提出すればそれで終了だ。

明日は今日より少し長い、早朝から夜までのダイヤ。早めに帰ってゆっくりしようと、由紀は歩いて営業所を出て帰路についた。


今日の乗合(のりあい)乗務日報

乗務日:2026年1月14日(水) 天候:はれ

ダイヤ番号:51

社番:2638

運転士氏名:下里 由紀

乗務開始時刻:4時27分

乗務終了時刻:10時35分

乗務開始メーター:568,445km

乗務終了メーター:568,493km

当日乗務距離:48km

報告事項

事故や運行に関する内容:異常なし

車両に関する内容:異常なし

その他報告事項:異常なし

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