【第36話】 ──ひずみの兆し──
その日、空はひどく静かだった。 “それ”が去った後の空間には、明確な欠落が残されていた。 それは穴でも裂け目でもない。 ただ、そこに存在していた何かが抜け落ちたという、輪郭の見えない違和感。
風が戻ってきた。 けれど、それはどこか慎重で、恐る恐る触れるような空気だった。 草が揺れ、校庭のテントの布が擦れ、あたりには人の気配が戻り始めていた。 だが、人々の表情は一様に強張ったまま、誰も言葉を発しなかった。
沈黙が降り積もる中で、誰かがしゃくり上げる声が遠くに響いた。 それは小さな子どもだったのかもしれないし、大人の堪えきれなかった声だったかもしれない。 声の正体がはっきりしないまま響き、この場に漂う現実感の乏しさと、出来事の異様さがいっそう浮き彫りになる。
陽一は、肩越しに振り返った。 沙織がそこにいた。 彼女の手のひらが、まだ自分の腕に触れている。 そのぬくもりは確かで、あまりにも人間的で、だからこそ痛いほど切実だった。
(俺は……間違えなかったか?)
その問いが、心のどこかで浮かんでは沈んだ。 “それ”に名を与えなかったこと。 あの存在を、明確に世界に迎え入れることを避けた決断。 だが、あれは本当に最善だったのか。 あるいは、別の道があったのか。
沙織がそっと陽一の手を握り返した。 言葉はない。 だが、それで充分だった。 その手から感じる圧は、「ここにいる」という宣言であり、陽一の迷いに楔を打つような力があった。
ミルが小さく鳴き、ユリが陽一の足元に駆け寄ってくる。 顔を上げたユリの頬には、乾きかけた涙の跡が残っていた。
「お兄ちゃん……大丈夫?」
その問いに、陽一はわずかに微笑んだ。
「……ああ。なんとか」
自分でも驚くほどかすれた声だった。 気力だけで押し上げたようなその声に、ユリが安心したように頷いた。
避難所の人々が、徐々に歩みを再開していた。 その足取りは不安定で、誰もが周囲を警戒するように視線を泳がせている。 あの存在が完全に去ったという確信は、まだ誰にもなかった。
校庭の端に、神原の姿が見えた。 彼は腕を組んでじっと空を見上げている。 その姿は、もはや一司令塔としての余裕ではなく、危機の本質に触れてしまった者の沈黙だった。
「……終わったわけじゃない、か」
誰にともなく呟いた声が、風に流れた。
陽一はゆっくりと歩き出した。 ひとつの試練が終わり、また次へと進まねばならない。 その足取りには疲弊と裏腹に覚悟とが入り混じっていた。
──だが、その前に。
彼には、確認しなければならないことがあった。
校庭の片隅、かつて少年の影──ユウ──が現れたあの場所へと、陽一は向かう。 足元の土は踏みならされ、何の痕跡も残っていない。 けれど、そこに立つだけで、あのときの感覚が蘇る。 重く湿った空気。 沈黙の中にあった、問いかけるような気配。
「……お前も、感じてたのか」
誰に言うでもなく呟いた言葉。 名を与えることで、存在は輪郭を得る。 ユウに名を与えたとき、確かに彼は“そこにいた”。 だが今、目の前には何もない。 けれど、完全に消え去ったという確信もなかった。 どこか別の場所で、あるいは別のかたちで、ユウの存在が今もこの世界のどこかに“在る”ような気がしてならなかった。 それが正しいことなのかどうかも、陽一にはまだ分からなかった。
「お兄ちゃん……それ、なあに?」
ユリが、陽一の横に並んで地面を見つめる。
「……何でもないよ。ただの土」
そう言いながら、陽一は膝をつき、土を指先で掘ってみた。 そこには何もなかった。
ただ、深い静けさだけが残っていた。 目を閉じれば、かすかに声にならない声が残響のように頭の奥で揺れる気がした。 それは記憶ではなく、今もどこかに残っている“何か”の痕跡だった。
立ち上がると、再び校庭を見渡した。 空はまだどんよりと重く、裂け目の名残のような淡い筋が雲の奥に走っている。
そのときだった。
風向きが変わった。 遠くから、奇妙な音が聞こえる。
ざわ……ざわ……
誰かが囁くような音。 けれど、明確な言葉ではない。 耳を澄ませても、意味を掴めない。
陽一は、反射的にユリを庇った。
音は風に乗って、あらゆる方向から届いてくる。 それは“声”と呼ぶにはあまりに形を持たず、ただ周囲の空気に染み込むような圧そのものだった。
不協和音のような気配。 皮膚の下を這うような、じわりと広がる違和感。 校庭にいた人々も気づき始めたのか、再びざわめきが広がり始めた。
「なに……今の音……?」 「また来るのか……?」
誰ともなく交わされる声の奥には、確信と恐れが混ざっていた。
陽一は空を仰いだ。 雲の切れ間から、一瞬だけ、何かが見えた気がした。
細く、長く、空を這う影。 それは目の錯覚か、あるいは──
ユリがふと、陽一の袖を引いた。 「お兄ちゃん、あそこ……なんか、ゆれてる」
彼女が指さしたのは、校舎の向こう側。 ちょうど、旧音楽室のある棟の屋根の上だった。
確かに、そこには揺らめく何かが見えた。 熱気のようにも見えるそれは、ひとつの形を取りかけて、また崩れる。 繰り返し形を変えながら、そこに“留まろう”としていた。
陽一の背筋に、冷たいものが走った。 体の奥に沈んでいた直感が、再び頭をもたげる。
(まだ、終わっていない……)
言葉にせずとも、分かっていた。 さっきまでの静けさは、嵐の前の“間”だったのだ。 次に現れるものは、もしかすると……
陽一は、改めて空を見上げた。 空の色は、すでに“何か”を孕んでいた。 あの時と同じ、けれど、どこかが違う──
次の“ひずみ”が、確かに始まっていた。




