【第32話】 ──静寂の中──
静寂が、世界を包んだ。 まるで長い夜が明ける寸前の、あの張り詰めた一瞬のように。
暗黒の奔流が砕け散ったあと、校庭は静まり返っていた。 空には依然として灰色の雲が垂れ込め、陽光ひとつ差し込まない。 それでも、空気の中には、わずかながら違う "色" が混じっていた。
──希望、と呼ぶにはまだ早い。 ──しかし、絶望一色でもない。
陽一はその場に立ち尽くしていた。 両足はふらつき、足元に血のしずくがぽたぽたと落ちていた。 両腕は感覚を失い、全身は焼けるような痛みを抱えていた。 だが、彼の背筋はまだ折れていなかった。
風が吹いた。 破れたテントの布切れが、かさりと音を立てて揺れた。 遠くでミルが、か細く吠えた。 その声を聞いて、陽一の意識がゆっくりと現実に引き戻されていく。
背中に感じていたユリのぬくもりが、ふと揺れた。 振り返ると、ユリはまだそこにいた。 か細い体で、しかししっかりと陽一の服の裾を掴み、俯いたまま震えていた。
「……ユリ、大丈夫か?」
声はかすれていた。 それでも、ユリはわずかに頷いた。 その頷きに、陽一はようやく、ほんのわずかに息を吐くことができた。
人々の気配が、徐々に戻ってきていた。 倒壊した校舎の影から、避難していた者たちが顔を覗かせる。 誰もが、恐る恐るといった様子だった。
その中に、沙織の姿があった。 彼女はミルを抱きかかえたまま、涙ぐんだ目で陽一を見つめていた。
「陽一……っ!」
彼女が駆け寄ろうとしたその瞬間、再び空が唸った。
皆がその場で凍りついた。 だが、それは暗黒の波ではなかった。
空の一角に、亀裂のようなものが浮かび上がっていた。 紫がかった光がそこからじわりと漏れ出し、まるで何かが "向こう側" からこちらを覗いているかのようだった。
空は沈黙していた。 しかし、その静けさには深い "意図" が感じられた。 まるで、誰かがこちらの世界の様子を観察しているような、冷たい視線のような何か。
陽一は、その光に視線を奪われた。 心臓が、嫌なリズムで跳ねた。 何かが、また始まる。 そう告げていた。
「……まだ終わってない、ってことか」
言葉を発した後、陽一はわずかに自分を恥じた。 あまりにも無力で、傷ついた体が、軽々しいセリフに似つかわしくないことをよく知っていた。 だが、それでも言葉にせずにはいられなかった。
(俺は……終わりだと思いたかっただけだ)
ユリが、不安げに陽一の袖を掴む力を少しだけ強くした。 その感触に、陽一は再び前を向く決意を得る。 そして、すぐ後ろから駆け寄る足音に気づいた。
──沙織だった。
彼女はミルを腕に抱えたまま、乱れた髪を風に揺らしながら陽一の元へと駆けてきた。 その目は潤んでいたが、怒りとも安堵ともとれる複雑な感情が宿っていた。
「バカ……あんなの相手に……どうして……」
沙織は陽一の胸に飛び込むと、絞り出すようにそう言った。 陽一は反射的に彼女を抱きとめたが、その腕に、罪悪感がじわりと広がった。
(置いてきぼりにした……あの瞬間、俺はこの人の悲鳴より、霧の叫びを優先した)
その思いが、喉元まで込み上げた。 言葉にできなかった。 代わりに、沙織の髪にそっと頬を寄せる。
「……ごめん」
本当に、それしか言えなかった。 安易な励ましの言葉や、強がりは嘘になると思った。 沙織の身体が少し震えた気がした。 それでも彼女は何も言わず、ただ黙って陽一に寄り添っていた。
遠くで、誰かが叫ぶ声が聞こえた。 「……空、見て!裂け目が広がってる!」
陽一が顔を上げると、空に走った裂け目がさらに拡大していた。 そこから漏れ出す光は、まるで目の奥に直接刺さるような不快な煌めきを放っていた。
空の“向こう側”から、何かがこちらを窺っている。 それは確信だった。
「……見て、あれ……なんか降りてくる……?」
誰かの声に導かれるように、陽一は上を見た。
裂け目の奥に、何かの影がゆらりと動いていた。 それは霧ではなかった。 もっと輪郭がはっきりとしていて、人のようで、人ではない。 だが明確な "意志" を持って、こちらの世界に入り込もうとしていた。
陽一は一歩、前に出た。 足元がぐらついたが、踏みとどまる。 背後のユリがその服の裾を掴み直す音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
(違う。今度のは……もっと根本的に異なる)
霧のような衝動ではない。 この存在は、明確な“目的”を持っている。
空間が唸った。 裂け目の縁が、まるで意志を持った生物のように呼吸し、広がっていく。 それに呼応するように、風が唸りを上げた。 砂と灰が渦を巻き、校庭の人々がまたしても動きを止めた。
陽一はただ、見上げていた。
──それは、名前を持たないものだった。 ──それは、明確な姿を持たない。 ──それは、陽一の中でこれまで感じたどの恐怖とも異なる、説明のつかない不安だった。。恐怖というよりも、存在そのものが拒まれているような、肌の裏側から這い上がってくるような感覚──名付けることもできない、本能が発する警鐘に近かった。
あの日から全てが変わってしまったこの世界で、陽一は懸命に生き、周りを守ってきた。
だが、世界は再び音を立て、さらに崩れていく。そんな予感を陽一は抱かざるを得なかった。




