【第3話】 ──変調──
家路についた陽一は、玄関の扉を開けた瞬間に、異常なほどの静けさを感じた。
「……ただいま」
声が壁に吸い込まれていくように響き、返事がないことに気づいて、胸の内がざわめいた。
「沙織?」
足早にリビングへ向かうと、そこに彼女はいた。窓辺のソファに腰を下ろし、無言でスマートフォンを見つめていた。
「……ようちゃん」
彼女の声は細く、かすれていた。スマホの画面には、都内各所の“穴”に関する映像が流れており、背景では警報音が繰り返し鳴り響いていた。
「今、ニュースで……中野区でも穴が見つかったって。しかも、周囲が“光ってる”って」
「光ってる……?」
その言葉に陽一は首を傾げた。 公園で見た黒い煙といい、“光る穴”といい、今起きていることの整合性が取れない。
彼は自分の手を見つめた。 微かに震えている。 だが、それは恐怖からではないと気づいた。
──内側から何かが動き出している。
その予感が、言葉にできない圧力となって胸の内で渦巻いていた。
「俺、公園で……変な男に会った。いや、“男”だったのかも怪しい。……黒い何かが出て、そいつが倒れたんだ」
沙織は驚いたように目を見開いた。
「大丈夫なの? 怪我は? 何か吸い込んだとか……!」
「……わからない。でも、何かが“入ってきた”気がする。頭の中に声が響いたんだ。“選ばれし者──触れたか”って」
陽一は手を強く握りしめた。 掌の中に、言いようのない熱を感じた。 だが、実際には温度はなかった。ただ、“何かがそこにある”という実感だけが、やけに鮮明だった。
沙織は言葉を失い、ただ彼を見つめていた。その視線の奥に、恐れと、それでも信じようとする気持ちが揺れていた。
「……ようちゃん。何が起きても、私たちは一緒だよ。ミルもいるし、ね」
呼ばれた名前に反応して、奥の部屋から小さな足音が聞こえた。ミルが駆けてきて、陽一の足元に身体をこすりつける。
そのぬくもりに、陽一は少しだけ肩の力を抜いた。
──しかし、安堵の時は短かった。
突然、窓の外から割れるような悲鳴が響いた。
「……! 外だ!」
陽一と沙織は顔を見合わせ、急いで窓際に駆け寄る。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
向かいの家の前。主婦らしき女性が地面に膝をつき、何かを抱きしめるようにしていた。 その前方には、明らかに“人ではない”ものが立っていた。
四つ足で歩く細長いシルエット。 背中からは黒い管のようなものが幾本も伸び、呼吸のたびにうねうねと動いている。 それは、まるで異世界からやってきた生物──否、“異形”だった。
「なんだ、あれは……!」
次の瞬間、その“異形”は吠えた。 窓ガラス越しでも鼓膜が震えるほどの轟音だった。
陽一は、とっさに沙織とミルを庇い、カーテンを引き閉めた。
「もう、普通の世界じゃないんだな……」
彼の心の中に、ある覚悟が芽生えはじめていた。
──自分が、ただの観測者でいられない世界が、始まってしまった。
そのとき、彼の掌が、再び熱を帯び始めていた。