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【第26話】 ──囁き──



静まり返った校庭に、ただ風の音だけが響いていた。


陽一は全身に痛みを感じながら、霧の中心に佇む小さな影を見据えていた。 それは、確かに "生まれかけた存在" だった。 しかし、影は今にも霧へと溶け、再び無へと還ろうとしているように見えた。


(消えるな……)


陽一は心の中で叫んだ。 声には出さなかった。 この世界では、無理に声を張り上げることが、かえって拒絶を深めてしまうと何故かそう思えたからだ。


彼はただ、静かに、存在を受け入れる意志を送り続けた。 そこにいることを、否定しないという祈りにも似た想いを。


だが次の瞬間、影を取り巻く霧が激しく渦を巻いた。


空気がうねり、地面が微かに振動する。 立っているだけで骨に響くような不穏な圧力が、陽一の全身に押し寄せた。 耳鳴りが響き、視界がちらつく。 呼吸するたびに肺が焼けるような痛みが走った。 空の色までもが濁り、世界そのものが軋みを上げているようだった。


──受け入れるな。 ──拒絶しろ。


無数のささやき声が、霧の中から湧き上がった。 それは影の意志ではない。 周囲を取り巻く、なおも名を持たぬ存在たちの断末魔だった。


陽一の耳元で、幻聴のように響き渡るその声は、意識を引き裂こうとするかのように鋭かった。 脇腹の傷が熱を持ち、眩暈がする。 目の前の影の輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。


(負けるな……)


陽一は、震える膝を必死に踏みとどめた。 心が、軋んでいた。 無意識のうちに後ずさろうとする自分を必死に押しとどめる。


避難していた人々のざわめきが聞こえる。 悲鳴、泣き声、走り去る足音──すべてが遠く、濁ったノイズのようだった。


ふと、過去の自分が脳裏をよぎった。


学生時代、交代要員にも呼ばれず、誰にも存在を気に留められなかった無力感。 社会人になって、理不尽な業務の失敗を押し付けられ、何も言い返せずにただ笑ってやり過ごすしかなかった屈辱。


──存在を無かったことにされる恐怖。 ──自分すら自分を見捨てそうになった過去。


あのときの自分は、ただ目を背けることしかできなかった。


(でも……今は、違う)


背中に感じる、沙織やミル、そしてこの場にいるすべての避難者たちの存在。 誰かを守りたい、誰かと共に生きたいという願いが、陽一の胸の奥で静かに燃えていた。 過去に無力だった自分とは違う。今、守りたいものがあり、踏みとどまる理由がある。 たとえ結果がどうなろうとも、自らの意志で立ち、選び取ろうとする力が、確かに彼の中に芽生えていた。


陽一は奥歯を噛み締めた。


──俺はここに立っている。 ──誰のせいにもせず、自分の意志で。


そのときだった。


「(……きこえる?)」


微かな、震える声が、陽一の意識の深層に触れた。


驚きに目を見開きかけたが、陽一は必死に動揺を抑えた。 焦れば、このか細い接触はたちまち断たれてしまうだろう。


(……聞こえる)


陽一は心の中で静かに答えた。


影は、揺れた。 恐れるように、戸惑うように、その輪郭をさらに曖昧にしながら、それでも陽一から逃げはしなかった。


──こわい、いたくなる、きえる、また……きえるの?


その声には、怯えと悲しみが滲んでいた。 陽一の胸が締め付けられる。 どれほどの絶望を、この存在は味わってきたのだろう。


陽一はそっと目を閉じ、深く呼吸を整えた。 脇腹の傷はずきずきと疼き、立っているだけでも意識が途切れそうになる。 それでも、今ここで、この存在と向き合うことこそが、課された使命なんだと陽一には思えた。


(消えない。俺がここにいる限り、お前も消えない)


言葉は届くか分からない。 それでも、祈るように、陽一は心の中で叫び続けた。 祈りは単なる希望ではない。 覚悟だった。


その祈りに応えるかのように、霧のざわめきがわずかに鎮まった。 影の中から、小さな、ほとんど形を成さない手が、ゆっくりと陽一のほうへと伸びてきた。


だが次の瞬間、周囲を取り巻いていた名を持たぬ存在たちが猛然と渦を巻いた。


──消せ、消せ、消せ。


暴力的な拒絶の波動が校庭を駆け巡り、瓦礫が舞い上がり、避難していた人々の悲鳴が遠くに響いた。 校舎の窓ガラスが次々に砕け、空気そのものが裂けるような音を立てた。 遠くでは、校舎の一部が崩れ落ちる鈍い音が聞こえた。


陽一は耐えた。 顔をしかめ、膝をつきかけながらも、倒れはしなかった。 血の味が口の中に広がる。


(ここで負けたら──すべてが、無に還る)


決して触れようとはしなかった。 ただ、そこに在ることを、認めるために、手を伸ばし続けた。


影の手と陽一の手が、空気の中でほんのわずかに重なった瞬間──


世界が、震えた。


轟音とともに地面が割れ、地割れが走る。 吹き上がる土煙の中で、陽一の意識は一瞬遠のきそうになった。 それでも彼は、手を離さなかった。


異様な光とともに、陽一の心に何かが流れ込んできた。 それは、影が今まで感じてきた孤独、絶望、そして微かな希望のすべてだった。


何千、何万もの"名も持たなかった声"が、陽一の胸の内で叫び、泣き、震えていた。 重い。 苦しい。 体が千々に引き裂かれるようだった。


それでも、陽一はそれを抱きしめる覚悟を決めた。


(お前たちを、否定しない)


血のように濃い痛みとともに、陽一の内側に、静かだが確かな火種が灯った。 それはただの衝動ではなかった。 名もなき絶望を抱えた存在たちの痛みを、分かち合おうとする意志だった。 陽一は理解した。 ──自分は今、孤独を、拒絶を、恐怖を、すべて引き受けようとしているのだと。 誰にも見捨てられない世界を、この手で築くために。 その覚悟が、陽一の中でひとつの新たな力へと変わり始めていた。


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