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【第24話】 ──声なき問い──



陽一は、荒れ狂う黒い霧を前に、一歩も動けずにいた。


体は震えていた。 恐怖、とはまた異なる。心の奥底からくる、圧倒的な“理解不能”への畏怖だった。


これまでの異形たち──“穴”から現れた存在たち──は、たとえ歪であっても、どこかで『誰かに気づかれたい』『生き延びたい』という本能を垣間見せていた。


だが、目の前の霧は違った。


陽一が一歩踏み出そうとした瞬間、胸の中心に強烈な圧迫感が生まれた。 まるで見えない壁に押し戻されるような感覚。 次いで、耳鳴りのような高い音が脳を突き抜け、視界がぐらりと揺れた。


──触れるな。 ──近づくな。 ──名付けるな。


声なき叫びが、陽一の胸に直接叩きつけられる。 それは言葉という形をとらないまま、陽一の心に鋭く焼き付いた。


感情ではない。 理屈でもない。 存在そのものが発している、純粋な拒絶だった。


「陽一さん……」


沙織の小さな声が背中から聞こえた。 彼女も、ただならぬ気配を敏感に感じ取っている。 ミルが腕の中で震え、低く唸る。


陽一は唇を噛んだ。


この存在に、名を与えるべきか。 それとも、近づくべきではないのか。


彼は、胸の奥で問うた。


(お前は、どうしたいんだ)


黒い霧に問いかけるように、心で呟く。 だが返答はなかった。 ただ、より強く、より鋭く拒絶の波が押し寄せるばかりだった。


名を与えることは、救いだけではない。 それは、相手の存在を規定する行為でもある。


もしこの存在が、それすらも拒むのなら── 無理に名を押し付ければ、かえって深く傷つけることになるのではないか。


陽一は、歯を食いしばりながら、慎重に一歩踏み出した。


足を進めるたびに、胸を押し潰されるような圧力が強まる。 視界が歪み、耳元では何かが軋むような不快な音が鳴り続けた。 まるで、この空間そのものが彼の接近を全力で拒んでいるかのようだった。


沙織が小さく息を呑む音が聞こえた。 だが陽一は振り返らない。 額に冷たい汗を滲ませながら、なおも一歩、また一歩と、手を伸ばしていった。 それは、意志の力だけで抗う行為だった。


その瞬間、黒い霧が激しく蠢いた。 空気が爆ぜ、衝撃波のような圧力が陽一を打った。 視界が白く弾け、呼吸が止まりそうになる。 それでも陽一は、ふらつく足を踏みとどめ、手を伸ばし続けた。


「無理に名は与えない。 お前が望まないなら……俺は、ただここにいる」


声は震えず、空気を切り裂くようにまっすぐ響いた。


黒い霧が、一瞬揺れた。


まるで、わずかに迷ったかのように。


だがすぐに、さらに強い拒絶の波動が周囲を満たした。 地面が悲鳴のような音を立て、空気がびりびりと震える。


陽一は踏みとどまった。 それでも手を引っ込めなかった。


──この存在が何者であれ。 ──どうあれ。


陽一は、存在そのものを否定しない。 名を与えるか与えないかではない。 まず、存在を認めること。 それが、彼にできる最初の選択だった。


黒い霧は、しばらく震え続け、やがて音もなくその場に沈んでいった。


まるで、深い深い眠りに落ちるように。


陽一は、ただその場に立ち尽くしながら、微かに拳を握りしめた。 胸の奥には、今までとは違う、鈍い痛みのような感情が広がっていた。 それは、恐怖にも似ていたが、違った。 圧倒的な孤独だった。 理解されないものに向き合うということは、誰にも頼れず、誰にも助けを求められない孤独の中に身を投じることなのだと、陽一は初めて実感していた。 それでも、自らの選択を後悔はしていなかった。


──これは、始まりだ。


世界の深奥に潜む、理解を拒む存在たちとの、本当の闘いが。


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