【第18話】 ──帰還──
陽一は、歩みながら深く呼吸を整えた。 足元に確かに感じる床の感触。 指先に残るあたたかさ。 それは“ユウ”を名づけた瞬間に発された光の余韻であり、同時に陽一自身の覚醒の名残だった。
目の前に開かれていた扉の先は、どこか懐かしい“現実”の空間へと続いていた。
光を抜けた瞬間、足元がしっかりと地を踏んでいる感触に変わった。 見上げると、そこは再び旧音楽室の内部だった。
ただし、もう以前とは違っていた。
空気が澄んでいた。 黒い霧は晴れ、歪んでいた壁や床も静かにその形を取り戻しつつあった。 かつて異形の巣だったこの空間が、ようやく“人の記憶”の中に戻ってきたのだ。
「陽一……!」
声が聞こえた。 振り返ると、沙織が駆け寄ってきていた。 ミルを抱えたまま、瞳には涙が浮かんでいた。 その表情には、安堵と恐怖とが混ざり合い、言葉よりも強い感情が伝わってきた。
「大丈夫!? 怪我は……っ」
陽一は微笑んだ。 「大丈夫。……ただ、少し遠くに行ってきただけだ」
本当は、あの空間の重圧で心も身体も擦り切れそうだった。 けれど今、こうして沙織の声を聞き、彼女の目を見て、ようやく現実に還ってきたと実感できた。
沙織の手が、彼の腕を掴む。 それはまるで、もう二度と離さないという意思の表れのようだった。
彼女の指先はかすかに震えていた。
(ああ……本当に怖かったんだな)
沙織は、心の中で何度も陽一の名を呼び続けていた。 “戻ってきて”と願いながら、旧音楽室の外で立ち尽くすしかなかった。
彼が戻ってこなければ、自分の中の世界も壊れてしまう気がしていた。
だからこそ、今こうして目の前に現れた彼の姿を見て、胸の奥に張り詰めていた糸が切れた。 彼女は、泣かないように必死に唇を噛み締めた。
陽一はその手を静かに握り返した。 そのぬくもりが、彼女の震えを少しずつ鎮めていく。
その後ろには、ハルキの姿があった。 彼の瞳は、これまでになく穏やかで、どこか晴れやかだった。
「見えたよ、君が“名を与えた”瞬間……」
陽一は頷いた。 「彼の名前は“ユウ”だ。記録された。 もう、どこにも消えてはいかない」
ハルキは小さく、けれど確かに微笑んだ。 「……ありがとう。君を見て、少しだけわかった気がする。 自分がまだ“在る”ということを」
旧音楽室の奥、かつて“扉”があった場所には、今は柔らかな光の残滓だけが揺れていた。
それは、決して消えない傷跡ではなく、誰かが確かに“ここにいた”という痕跡だった。
陽一はその光に手をかざしながら、心の中で“ユウ”の名を繰り返した。
目を閉じれば、あの少年のかすかな微笑が浮かぶ。 何も言わず、ただ“ありがとう”と伝えるように見つめてきた瞳。
あの記憶は、もう彼の中から消えない。
そして、改めて思う。
名を呼ぶという行為。 それが、どれほど大きな意味を持つか。
名前は、存在を証明する。 誰かをこの世界に刻みつけること。
そして今、陽一自身も── ようやく“自分の名前”の意味を、理解し始めていた。




