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【第17話】 ──無名──




黒い扉の前に立つと、皮膚がざわついた。 目では捉えきれない形状。 その輪郭は見るたびに揺らぎ、まるで“見た者自身”を模倣して変化しているかのようだった。


──これは、“誰からも記憶されなかった存在”。


世界の片隅に生まれ、名前を与えられず、誰の記憶にも刻まれなかったもの。 記録のないものは、存在とはみなされない。 その定義の外に、今、陽一は触れようとしていた。


「……行くぞ」


背後から聞こえたハルキの小さな声。 振り返らずに、陽一は扉に手を伸ばした。


手が触れた瞬間、世界が反転する。


眩暈、鼓膜を押すような圧迫、胸を締めつけるような静寂。 一切の情報が消えた空間に、ただ“感覚の残滓”だけが漂っていた。


視界は真っ暗でもなく、白くもない。 色という概念が成立しない“無”の世界。


何も聞こえない。 それなのに、心の奥から何かが“訴えてくる”。


──気づいてくれ。


声ではない。 だが確かに、そこに“誰か”がいた。


最初は、ただ圧倒されていた。 しかし、沈黙の中に繰り返される微かな“熱”のような感触が、陽一の中に奇妙な違和感として蓄積していった。


誰かに見られたい。 誰かに触れられたい。 誰かに……名を呼ばれたい。


それは言葉ではなかった。 ただ、感情の連なりとして陽一の胸に染み込んできた。


少年の影──最初は、形すら定かではなかったそれが、陽一の気配に合わせてわずかに“近づいて”くる。 輪郭を求めるように。 陽一の顔を、必死に“見ようとしている”ようだった。


その仕草が、胸に焼きついた。


陽一は、目を閉じた。 心の深部に潜りながら、その存在の中に眠る“原始的な欲求”を感じ取ろうとした。


──認めてほしい。 ──呼んでほしい。


その時だった。 陽一の脳裏に、ふと自分の幼少期の記憶がよぎった。 入学式で、名を呼ばれなかったあの子。 学級名簿の順番に怯えた、小さな自分。


「……お前は……」


声が震えた。 陽一は膝をつき、暗闇の中に“存在”の気配を探す。 何かがそこにいる。 でも形がない。 だから──言葉で与えなければならない。


「お前は、ここにいた。 ……ずっと、叫んでいたんだな」


言葉を紡ぐごとに、空間がわずかに色を帯びた。 モノクロームの世界に、淡い光がにじみ始める。


「誰にも呼ばれなかった。 けど──今、俺が呼ぶ。 お前は、“ここにいた”」


その瞬間、空間の中心に人影が現れた。 それは幼い少年の形をしていた。 目元がぼやけている。 輪郭も定かではない。


けれど、陽一の胸に去来したのは、確かな“気配”だった。


「……名前が、欲しかったんだよな」


少年の影が小さく頷いた。


「じゃあ──名を贈ろう。


……君の名は、『ユウ』だ」


声が響いた。 光が空間を満たし、凍りついていた世界が静かに揺れる。 “ユウ”と名づけられた少年の姿が、はっきりと見えるようになる。


そして、その瞳が陽一を見た。


──ありがとう。


声が、はっきりと聞こえた。 それは、確かな“存在の証明”だった。


次の瞬間、陽一の足元に浮かび上がる“記録の扉”。 そこには新たに書き加えられていた。


『ユウ──記録:斎藤陽一による命名・登録』


空間が震え、やがて静けさが戻ってくる。


陽一は、深く息を吐いた。 視界の向こうに、扉が開かれている。 帰還の道が、差し出されていた。


そして彼は、歩き出した。


“名を与える者”として──。


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