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【第16話】 ──反射──



(ハルキの視点)


僕の“存在”が曖昧になり始めたのは、あの“穴”が出現した日からだった。


それは、いつもと変わらないはずだった通学路の帰り道。 夕方の空は鉛色に染まり、風は止まり、耳鳴りが消えないまま足だけが勝手に動いていた。


近所の小さな公園──そこに、あった。


地面に開いた黒い裂け目。形容しがたい違和感を伴い、ただ“そこにある”という存在感を放っていた。


僕は惹かれるように近づいていった。 まるで、それが僕に語りかけているようだった。


──おまえは、誰だ?


声ではない。音ですらない。 でも、頭の内側で“その問い”だけが何度も繰り返された。


そして、答えられなかった。


あの日からだ。


学校の友達が僕に話しかけなくなった。 家族が僕の存在を認識できていないように感じた。 クラスでの出席名簿に、僕の名前が書かれていないのを見たとき、はじめて本気で怖くなった。


“消えていく”。 その感覚が、確かに僕の中にあった。


そしてある夜、目が覚めると、そこにいた。


名も記録も意味も持たない──“観測の狭間”。


そこには無数の扉が浮かんでいた。 どれも誰かの記録であり、存在の証だった。


でも、僕の名前の扉はなかった。 どれを探しても、どこにも“ハルキ”という扉はなかった。


そうして、僕はこの空間の中で彷徨い続けた。 時間も方向も曖昧な中、“誰でもない者”として漂いながら。


だが、長くここにいて気づいたことがある。


この空間は、記録されなかった者たちが行き着く“深層”であり、誰かが新たに穴と接触したとき、記録が更新される。 つまり……この空間は、無意識下に広がる“共有された記憶の場所”のようなものなのだ。


旧音楽室に現れた異常が、なぜあの空間とつながっていたか。 僕はそれを、長い時間をかけて知識として理解した。 自分を保つために、空間の観測の法則を読み取ってきた。 その一環で、“震源”としての音楽室の役割にも気づいた。 あそこは、最初にこの学校で“穴”が開いた場所であり、もっとも強い記憶の交差点でもあった。


ある日、僕は再び“観測の狭間”から、誰かが“近づいてくる”気配を感じた。


それが陽一だった。


旧音楽室に向かう途中の彼らの姿は、僕の意識にも自然に届いてきた。 不思議なことに、彼の動きだけははっきりと“映って”いた。


彼が妻と犬を守るように立ち、誰よりも怯えながら、それでも進もうとする姿に、胸がざわついた。


(なぜ、この人だけが、こんなにも鮮やかなんだろう)


自分がかつて失ってしまった“記憶の彩度”が、陽一の周囲には確かに存在していた。


誰かを守る意思。 誰かと生きるという選択。 そして、自らの存在を受け止める覚悟。


僕にはなかったもの。 でも──だからこそ惹かれた。


そして、彼は旧音楽室の扉を開いた。


あの瞬間、彼が“観測の狭間”に接続された。


僕は、そこにいた。


彼は、はじめてこの空間に自ら踏み込み、扉を開けた“名を持つ存在”だった。


そして、僕に気づいた。


──「お前の“居場所”を一緒に探そう」


その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。 ずっと無感覚だった心が、突然目を覚ましたかのようだった。


“誰かに必要とされる”という事実。 “名前を持って呼ばれる”という喜び。


あの人は、僕の中に最初の“記録”を刻んだ。


そして今、彼は危険な扉の前に立っている。


名を持たない扉。 誰にも呼ばれなかった存在。 否定の深淵。


そこに踏み込もうとしているのは、僕のためではない。 あの空間に捕らわれたすべての存在のために──彼は、自らの意志で歩いている。


僕にはまだ、自分の扉は見つけられない。 でも、彼がそこから戻ってきたとき……僕は今度こそ、はっきり言えるかもしれない。


──僕は“ここにいる”と。


その時まで、僕は彼を見届ける。 名もなき存在に飲み込まれないように。 “名を持つ者”として、彼が帰ってこられるように──。

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