【第14話】 ──深層──
階段を下りるたび、空気が変わっていく。 それは温度でも匂いでもない。重力そのものが変質し、時間の流れすら不規則になるような、根源的な違和感だった。
陽一の足音が、規則正しく響かない。 一歩ごとに音の大きさも反響も異なり、自分がどこにいて、何を踏んでいるのかも曖昧になっていく。 まるで、存在そのものが“ここに在る”ことを許されていないかのようだった。
(この先に、何がある……?)
階段の最下層── そこは、音楽室の“裏側”だった。
しかし、視界に広がったのは無数の扉だった。 天井も壁も床もなく、ただ終わりのない闇に浮かぶように、無数の扉が宙に点在している。
それぞれの扉には、人の名前が刻まれていた。 斎藤陽一──という名前も、どこかにあった。 だが、その扉は“割れていた”。
「……これは……人の存在の“記録”?」
背後から声がした。 ハルキだった。
「ここは“観測の狭間”。存在という現象が確定する前の、揺らぎの領域」
「どうして君がここに……!」
「僕も“試練”を受けた。けどまだ終わっていない。君と同じように、失ったものを探している」
陽一は言葉を失う。 少年の目は、どこまでも深く、年齢を超えた痛みをたたえていた。
「扉を開けるのは自由。でも、選んだ扉の“記録”に従う。過去を追体験することも、忘れていた真実に出会うこともある」
陽一は、自分の名前の扉を前に立った。 ヒビ割れたその扉は、今にも崩れそうだった。 だが、彼の掌が近づくにつれて、割れ目はわずかに修復を始めた。
──触れることで、思い出す。
「……俺は、自分の全部を知りたい」
陽一は扉に手をかけた。
光が弾け、世界が転じる。
気づけば、そこは彼がかつて暮らしていた家のリビングだった。 ソファも、照明も、香りすら──あの“日常”そのものだった。
だが、どこかが違う。
テーブルの上のマグカップが、ひとつしかない。 ミルの吠える声が、どこからも聞こえない。 時計の針の音だけが、やけに耳に刺さる。
ソファの向こうに、誰かの背中があった。
それは、陽一自身だった。
「……これは、俺?」
沙織も、ミルもいない。 ただひとり、仕事に追われ、疲れた目でパソコンを睨み続けるもう一人の“自分”。
──これは、選ばなかった未来。
「おい、聞こえるか」 陽一は叫ぶが、もう一人の自分は気づかない。
焦りが喉を締めつける。 声は出ているはずなのに、届かない。 この世界の自分は、すでに“観測されなかった存在”として確定しているのか──。
次の瞬間、周囲の景色が波打ち、崩れ始めた。
背中越しに、自分の顔が振り返る。
──沙織はいなかった。ミルもいなかった。君はそれでも、今のままでいいのか?
言葉でない、“世界からの問い”が陽一に突き刺さる。 胸の奥が冷たくなり、足元の床が抜けるような感覚。
本当に“誰かと生きる”ことが幸せなのか。 それとも、ひとりで何かを成し遂げることこそが正解なのか──。
選べ、と突きつけられている。
陽一は震える拳を握りしめた。 沙織の笑顔が、頭の中に浮かんだ。 ミルの、くるんと跳ねる尻尾。
「あの時間が……俺をつくったんだ」
「俺は、あの家に帰る。沙織と、ミルと──俺たちの場所に!」
再び光が走る。
崩れた世界が巻き戻されるように再構築され、陽一は宙に浮いたような感覚の中で、現実の“存在”へと還っていった。
試練は、まだ続いている。
だが、今の陽一には、揺るがない“帰る場所”があった。




