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【第13話】 ──試練──



世界の感触が、変わっていた。


扉を越えた瞬間、まるで誰かの記憶の中に足を踏み入れたような、不確かで軋むような現実が広がっていた。 床はあってないようなもの。足をつけているはずなのに、どこか浮いているような錯覚がする。 色も音も匂いも、どれもが曖昧だった。


──ここは、現実じゃない。


直感的にそう理解した。


だが、それ以上に感じたのは、自分の“存在”そのものが、音もなく崩れていくような感覚だった。 呼吸はしている。でも、それが“自分の呼吸”なのかも分からない。 視界の端がぼやけ、指先の輪郭が失われ、声を出そうとした口の動きすら、自分のものではないように感じる。


(俺は、誰だ)


その問いすら、頭の中で形を成さない。


記憶が剥がれ落ちていく。 名前、職業、家、家族──それらが“かつて知っていた言葉”のように遠のいていく。


だがそのとき、不意に浮かんだ。


白いマグカップ。 朝の光が差し込むキッチン。 テーブルの向かいで、寝癖のままの髪を結い、笑っている沙織。


「コーヒー、ちょっと薄かったかも」


そんな、何でもない言葉。


その光景と沙織の言葉がかろうじて陽一の記憶を引き留める。


さらに思い出す。ミルの柔らかな毛並み。家の床のきしむ音。ソファに並んで観た映画のこと。


(俺は……)


──俺は、斎藤陽一。


──沙織の夫で、ミルの飼い主で……


──あの朝のコーヒーの味を覚えている人間だ。


その瞬間、胸の奥に小さな光が灯った。


それは以前異形を撃退したときのような外的な力ではない。 もっと原始的で、生存の根拠を内側から支えるような、本能に近い“灯り”だった。


霧が薄れ、足元に“床”の感触が戻ってくる。 自分の重みが、世界に引き留められている。


だが、その先に──再び異形が立ちはだかった。


今度のそれは、ただの番人ではなかった。


より深い闇をまとい、陽一の目を真正面から見つめていた。 その瞳には、明らかに“感情”があった。


悲しみ、怒り、苦しみ──そして、渇望。


異形の存在に触れた瞬間、陽一の中に激流のような“記憶”が流れ込んできた。


薄暗い小学校の教室。 木造の床がきしむ音。 班の発表で、いつも最後まで指名されずに座っている少年。 運動会の徒競走。転んだ時、誰も手を差し伸べなかった。


名前を呼ばれない。 手紙をもらえない。 卒業アルバムの写真に、自分の名前が印刷されていない。


──誰かにとって「いなかった」ことにされた記憶。


その痛みが、形を持って陽一の胸に流れ込んでくる。


(この子は……ここで忘れられたまま、残響になったんだ)


「……君は、確かに、ここにいた」


言葉とともに、陽一の掌が再び光を放った。


だが今度の光は、拒絶でも、破壊でもない。


“存在を証明する”光だった。


照らされた異形の目に、微かに揺らぎが生まれる。 その姿が、薄れ、滲み、やがて静かに霧の中へと溶けていく。


──ありがとう。


声ではない、思念のような響きが、風のように陽一の耳元を通り過ぎた。


陽一は、深く息を吐いた。


まだ始まったばかりだが、試練のひとつは、乗り越えた。


そして、階下へと続く“階段”が、目の前に現れた。


試練の旅路は、まだ終わっていない。


だが今、陽一は確かに──“自分”を取り戻しつつあった。

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