【第12話】 ──静観──
(沙織の視点)
私は子どものころから、自分は強いほうだと思っていた。 人前で泣いたことは数えるほどしかないし、物事を悲観的に考える癖もなかった。
高校時代は演劇部で照明係をしていた。 人を支える役割が好きだった。裏方でも、確かに舞台を形作っているという実感があった。
大学で陽一と出会った。 サークルの新歓コンパ、彼は最初から静かで、人の話に耳を傾けるタイプだった。 けれど、話し始めると驚くほど話が面白かった。知識も豊富で、会話の節々に人柄がにじみ出ていた。
その晩の帰り道、雨の中で相合い傘をしたとき、彼が濡れながらも「あなたが濡れないように」と言ったあの一言が、今でも忘れられない。
結婚してからも、私たちは穏やかだった。 陽一は不器用なくらいまっすぐで、家ではたまにコーヒーを淹れてくれるだけで喜ぶ人だった。 ミルを迎えてから、彼は少し父親みたいになった。 私は、そんな日常に心から満たされていた。
だからこそ、“穴”の出現は、すべてを壊した。
最初は非現実だった。テレビの中の災害。 でも、次第に現実がにじんできた。
あの朝の警報。 近所の公園で倒れた男。 黒い煙。
それを目にした陽一が、何かに“触れられた”瞬間を、私は確かに見た。
あれ以来、彼の目の奥には別の光が灯っていた。 優しさは変わらない。声も手のぬくもりも変わらない。 それでも、彼はもう“私の知っている陽一”ではなかった。
世界が壊れていく中、彼だけが落ち着いていた。 異能に怯えず、むしろ引き寄せられるように進んでいく。
私は、怖かった。 彼が変わってしまうことが。 そして、置いて行かれることが。
避難所への道で見た、空が割れるような光景。 あのとき、私の中の“現実”が音を立てて崩れた。
けれど、陽一は一度も私の手を離さなかった。 ハルキという不思議な少年に出会い、ミルを連れて歩きながら、彼は常に私の方を見ていた。
──「一緒にいるから、大丈夫」
言葉ではなく、その視線がそう語っていた。
旧音楽室の前に立ったとき。 私は、それでも止めたかった。
この人が帰ってこないかもしれない。 “陽一”という存在が、向こう側に連れて行かれてしまう気がした。
「……行かないで」
唇は動いた。 けれど、声にはならなかった。
彼は振り返り、私を見た。
目が合った瞬間──それだけで、全てが伝わってきた。
──信じてくれ。
私は、頷いた。
そうするしかなかった。
私は、舞台の照明係のように、彼の背中をただ照らし続ける。 彼が戻ってくる場所を、この現実に残しておくために。
ミルが、不安げに小さく鳴いた。 私は彼を抱きしめて、胸の中で願った。
どうか、帰ってきて。
どんな形でもいい。 この世界に、あなたがまだ“いる”と、私に分かるように──。




