【第1話】 ──小さな揺らぎ──
東京・杉並。
朝6時。 目覚ましの音が鳴る前に、斎藤陽一は目を覚ました。 まだ薄暗い寝室。遮光カーテンの隙間からわずかに漏れる光が、部屋に微かな陰影を作っている。
寝返りを打ち、隣に寝ている妻・沙織の寝顔を見つめた。長いまつげ、規則正しく上下する胸、少し開いた唇。その姿に、不思議なほど深い安心を覚えた。
「……まだ寝てていいよ、ミル」
足元に丸くなっていたミニチュアシュナウザーのミルが、主人の気配に反応して顔を上げた。黒い瞳が陽一を見つめ、くるん、と尻尾を振ると、またゆっくりと目を閉じた。
斎藤陽一、31歳。都内の中堅IT企業に勤めるシステムエンジニア。柔らかな黒髪を無造作に撫でつけ、ベッドから体を起こす。
家族構成は、妻の沙織と、愛犬のミル。学生時代はサッカー部に所属しており、体力にはそれなりに自信がある。だが社会人になってからというもの、運動の習慣はなくなり、最近では少しだけ腹周りが気になっていた。
平日は都心のオフィスに通勤し、週末は夫婦で買い物をしたり、ドッグランに行ったりする──そんな、ごく普通の、しかし幸福な生活だった。
陽一の胸の奥には、日々の繰り返しに対するうっすらとした焦燥感もあった。 ふとした瞬間に、自分がただ時間に流されているような錯覚に囚われることがあった。
けれど、こんな風に思えることだって沙織やミルがいてくれるからだと、即座に思い直す。
7時24分。 朝食を済ませ、ネクタイを締め終えた陽一は、キッチンのカウンターに腰掛け、スマートフォンでニュースアプリを眺めていた。コーヒーの湯気がゆらゆらと立ち昇り、窓の外ではスズメが軽やかに囀っていた。
「今朝も平和そうだな……」
だが、その油断は、音によって破られた。
警報音──それは地震速報とも、津波警報とも異なる、不快なノイズを伴う新しい種類の警報だった。
陽一のスマホに表示された通知:
“注意:都内各所にて、地盤変動による未確認構造物の出現が確認されています。”
「……未確認構造物?」
眉をひそめたその瞬間、テレビの速報が画面を塗り替えた。
《速報:東京都渋谷区にて、地下から黒い『穴』のようなものが出現。現場は一時封鎖、警察と自衛隊が対応に当たっています》
画面には、渋谷駅前の映像が映し出された。 交差点の中央に、直径数メートルの黒い空洞が口を開けていた。アスファルトがねじ切られ、周囲のビルが不気味に傾いている。穴の中からは、まるで瘴気のような黒い煙が立ち上り、辺りの空気が歪んで見えた。
「……なんだよ、これ」
言葉を失う陽一の背後で、沙織が小さくあくびをしながら起き上がった。
「ようちゃん、テレビ……どうしたの?」 「渋谷で……変な穴が出たらしい」
沙織は無言で画面を見つめた。 そしてぽつりと、呟いた。
「……これ、夢じゃないよね?」
陽一は答えられなかった。
そのとき、また警報音が鳴った。
今度は窓の外からだった。 近所の防災スピーカーが、けたたましく警告を告げていた。
「杉並区内にて、地盤異常が確認されました。外出を控え、安全な場所に避難してください──」
陽一は表現し難い、日常に感じる焦燥感とは比べ物にならない大きな不安に襲われた。
例えば、現実が、音を立てて崩れていく感覚。 そして彼はまだ知らなかった。
この異変が、彼自身の運命をも大きく揺さぶることになることを──。