90話 現実
――薄汚れた白衣の背中は、また痩せたように見える。ちゃんと食事はしているのだろうか?
ベッドに身を預けて蛭田博士の方へ顔を向けていると、走馬灯のように、二十二世紀の出来事が思い出された。
あれから苦労してタイムマシンを完成させて、リュウと共に、おっかなびっくり時空転移をしたのだ――博士が怪盗十九号の装備を隠していた、丘の上のドラム缶で。
あの日は底抜けに天気が良くて、崖下に広がる沼の水面が、キラキラと陽光を反射して美しかった。東京掃討戦の死者たちが捨てられ、かつての透也が朽ち果てようとしたあの沼だ。
そう云えば、あの沼はこの世界にあるのだろうか? もしあったとしても、地名も全く変わっているから、透也には探せないだろう。
しかし今、博士に訊きたいのはそんなことでは無い。二十世紀に抱えてきた謎は山ほどあるのだ。
痛む体をそっと動かし、透也は博士に訊ねた。
「博士は、どうやってこの世界に来たの?」
すると蛭田は顔を上げること無く答えた。
「工房にあったタイムマシンだ」
「タイムマシン……?」
あの無茶苦茶になった工房に、タイムマシンなんてあっただろうか?
しかし、用途の分からない機械は幾つもあった。そこからひとつ消えた処で、透也には解らなかっただろう。
「なるほど……」
気付くと、枕元にリュウがいた。先程の爆発でも、どうやら無事だったようだ。
「タイムマシンを起動した衝撃で、工房が無茶苦茶になったでアリマスな」
「そんな風になってたのか。まぁ、莫大な質量落差を生み出す訳だから、影響が残るのは無理もないだろうな」
蛭田は相変わらず興味無さそうに云った。
そうなると、気になるのはあの血痕だ。
その疑問を口にしかけて、だが透也は言葉を切った。この船に来る前、ショルメから聞いた話を思い出したのだ。
――多分、彼は肺の病気だ。長くはない。
その疑惑を蛭田の口から直接訊いて、確定させてしまいたくなかった。
微妙に空いた沈黙を埋めるように、透也はもうひとつ質問を投げた。
「博士が盗んだ魔素は、何処に隠したの?」
そこで漸く、蛭田は顔を軽く上げた。
「あの男に会ったのか?」
「うん……博士の身代わりに、拘置所の地下房にいた」
蛭田は少し考えるように壁を見ていたが、やがて透也に顔を向けた。
「結果的には、この世界に持ち込んだことになるな」
その言葉の意味が解らず、透也は隈の濃い目を見返した。
「どういうこと?」
蛭田は視線を手元に戻し、作業の続けながら独り言のように呟いた。
「魔素百年分と云っても、結晶化すれば手の内に収まる程度のものだ」
「…………」
「結晶化した魔素をエネルギーとして利用するには、特殊な装置が必要だ。しかも、空気に触れれば変質して価値が無くなる。だから外気と遮断する必要があるんだ。プラントでは水槽に沈められていた。そんな取り扱いの面倒なものだから、盗もうなんて奴は存在しなかった。盗んだところで、何のメリットも無いからな」
何が云いたいのだ? と、透也は蛭田の背中をじっと眺めた。その訝しい視線の先で、蛭田は淡々と続けた。
「一応は厳重な警備があったが、私にすり抜けられないものでは無かった。そこで私は、魔素の結晶を三つ盗んだ」
ゴクン……と喉が鳴った。小さく揺れる白衣の背中から、目が離せない。
「私はそれの利用の仕方を知っていた。そして、それを利用する目的もあった」
「…………」
「ひとつは、タイムマシンの動力とする為。二百年もの時を超えるだけの時空の歪みを生み出すには、それ相応のエネルギーが必要だからな。既存の燃料では、それが不可能だった」
透也は腹の底が凍えるような感覚に襲われた。残りふたつの利用法を聞いてはいけない気がしたのだ。
しかし、彼の言葉を止めるには至らなかった。干乾びた喉が、声を出すのを妨げた。
蛭田は続けた。
「ひとつは、おまえの相棒を動かす為」
透也の目がリュウを向く。その視界の中で、ヤモリ型ロボットは小さく首を傾げた。
「ワガハイ……」
「金平糖程度で、あれだけ高性能のAIを動かすことは出来ない。金平糖はヤモリの体を動かすもので、中身を動かしているのは、魔素の結晶だ」
納得した。
この小さな体の何処に、時空の歪みを自由自在に操れるエネルギーが存在するのか、疑問に思わなかった訳では無かった。
魔能を消し去る為にこの世界にやって来るのに、魔素を利用したとは思いたくなかったから、その疑問から目を背けていたのだ。
リュウは透也を振り返った。その目は驚きに満ちたものでも、恐怖に慄いたものでも無かった。恐らく彼自身、薄々気付いていたのだろう。
「透也、ワガハイ……」
リュウは気遣う様子で首を低くした。透也はそんな相棒を頭を軽く撫でた――そんな些細なことで、彼を手放す気など無い。
しかし、何時かは別れが来ると理解した。
「そして、もうひとつは……」
蛭田は手を止め、再び振り向いた。透也の目を見て、はっきり解る声で、彼は云った。
「――おまえだ」
言葉が出ない。
時が止まったかのように、瞬きすらも忘れて透也は博士を見つめた。
単調な機械音だけが部屋に満ちる。激しい眩暈が景色を歪める中、蛭田の声は無情に告げた。
「以前、『科学では死者の蘇生は出来ない』と云っただろう? だが、唯一例外があってな。脳幹に魔素の結晶を埋め込んだ場合だ」
「…………」
「勿論、人体が大きく損傷していては不可能だ。脳死状態で体の機能が残っていれば、魔素の力で、脳の機能は復元出来る」
ズキン――と脳の奥が痛んだ。初めて義眼で景色を見た時のように、刺すような痛みが透也を襲う。魔素を憎む心が、現実を拒絶しているのだと解った。止めてくれ……と叫びたいのに、呻き声しか出ない。
そんな彼に、蛭田は背を向けた。
「魔素の結晶は、神経とを繋ぐ装置に封じてある。だからおまえに魔能は無い筈だ。しかし、魔素を介するシグナル伝達は通常より強くなる。常人離れした体の動きになったのが、魔能と呼べなくは無いな。それに、義眼の機能も魔素の影響を受けている。リュウの発する瞬間移動信号に呼応出来るのも、魔素の影響のひとつだろう」
「どう……して……」
漸く絞り出した声には、呻きと嗚咽が混じっていた。
その疑問に返した蛭田の言葉は乾いていた。
「被験体としてちょうど良かったからな」
義眼のことを訊いた時にもそう云っていた。科学者として、己の研究の成果を確かめたい――それが彼の行動原理の全てなのだ。
脳死した子供が手に入ったから、魔素を埋め込みたくなった。それだけなのだ。
透也の気持ちになど、全く興味無いのだ。
ベッドに丸まり頭を抱える。震える体を持て余しながら、透也は云った。
「魔素の、結晶……外してくれよ」
「おまえの体は長年、魔素の働きに依存している。外せば脳は停止する。それでも外すか?」
「外せよ! こんなモノに生かされたく無い!」
透也の叫びに、やはり蛭田は無感情な顔を向けた。
「残念だな……世界で唯一の事例として、論文を完成させたかったのだが」
「外せえええ!!」
「解った」
蛭田は立ち上がった。
すると、透也の枕元にリュウが立ち塞がった。
「ダメでアリマス!」
リュウは小さな体を踏ん張って、威嚇の体勢で蛭田を睨んだ。
「透也は死んではいけないでアリマス! 透也を待つ人が居るから、透也は生きて、この船から出なければならないでアリマス! 透也が居なくなって悲しむ人から、逃げてはいけないでアリマスッ!!」
透也の脳裏に幾人かの顔が浮かんだ。
今まさに、この船を追っているだろうニコラ。その彼女を送り出したお梅。
そして、「必ず助けに戻る」と約束した明智香子――。
それらの血の通った鎖を断ち切るには、彼はこの世界に深く関わり過ぎていた。
全身から力が抜ける。ぐったりとベッドに身を預ける透也を、蛭田は無言で見下ろしていた。




