89話 痕跡
研究所に戻った透也は頭を抱えた。
「分からねえ……博士はどこに行ったんだよ……何で俺を置いて行ったんだよ……」
テーブルの上からそんな透也を見上げていたリュウが、青く縁取られた目を細めた。
「あくまでワガハイの想像てアリマスが、可能性は三つかと」
「博士の居場所が分かるのか!」
「いや、博士が消えた理由でアリマス」
一つ目は、自ら失踪した。
二つ目は、博士が自らの生命の危機を感じて、男に自首を促した後、殺された。
三つ目は、あの男の話が全て嘘である。
「よく分からねえな」
透也は腕組みする。
「一つ目は、博士はどこかに身を隠してる、って訳だろ。なら、研究所を滅茶苦茶にして血痕を残していったのには、どんな意味があるんだ?」
「それは……分からないでアリマス」
「なら、二つ目はどういうことだ?」
「博士は警察に命を狙われているのを察していたでアリマス。しかし、ただ殺されては透也の身も危ないでアリマス。だからあの男に自首を促して、捜査を混乱させたでアリマス」
「じゃあ博士は……」
「うまく逃げていると思いたいでアリマスが……」
リュウは鼻先を研究室へ向けた。やはり、引っ掛かるのは血痕だ。博士が警察に殺された後に男が自首した。無実の博士を殺した警察が、怪盗十九号の存在ごと隠蔽したと考えれば、今の状況と辻褄が合う気がする。
「三つ目は……俺の勘だけど、あの人は、嘘を言ってない気がする」
幼い頃の記憶にあるあのおじさんは、父の友人で、優しい人だった。そんな記憶がふと思い出されたのだ。
掃討戦があの人の人生を変えてしまった……そう考えると、恨みを持つのは違う気がした。
「じゃあ、二択でアリマスな……」
リュウがそう言い、透也は再び頭を抱えた。状況的に、二つ目の説が濃厚なのだ。
博士が死んだなんて、考えたくない。
☩◆◆──⋯──◆◆☩
翌日のニュースは、怪盗十九号を名乗る《《模倣犯》》が現れた、というものだった。停電は偽怪盗の出現とは関係なく、システムトラブルとされた。
一方透也は、一つ目の可能性を探るべく、研究所じゅうから博士の思考の痕跡を探し出すことにした。
どこかに身を隠しているとすれば、博士と関係のある場所に違いない。日記や手紙から、ヒントは出てこないだろうか? 研究所の惨状や血痕の理由は分からないが、本人を見つけさえすれば、いくらでも聞き出せる。
しかし、博士は論文しか書かない人で、手紙や日記は出てこなかった。
ならばと、片っ端から本棚の本をめくる。ページの端に書き込まれたメモ書きを注視し、気になる文言をメモしていく。
本だけではない。博士自筆の論文が大量にあった。発表できないまま、博士は人類の英智をこうして積み上げていたのだ。
難しい内容ばかりで、透也にはよく分からない。でも博士が科学に――人類の進歩に向けた情熱は、溢れるほどに伝わった。
そんな論文の中に、ひとつ酷く古いものがあった。
「時空干渉理論……」
それは、博士の研究にしては珍しいものだった。論文の傾向から、博士は電気工学が専門分野な気がしたのだが、この内容は物理学だった。
横からリュウが覗き込む。
「これは相対性理論を発展させたものであり、一定空間内の質量の落差を人工的に発生させることで、過去へも時空転移が可能であることを証明するための理論である――ふむ、タイムマシンに使えそうな理論でアリマスな」
「タイムマシン?」
「かつて、アインシュタインという人は、光よりも早く移動することで、未来へ行けるという理論を発表したでアリマス」
「相対性理論だよな?」
「まぁ、その一部でアリマスな。この論文は、それの逆の理論を研究したものでアリマス」
「つまり、過去へ遡れると?」
リュウは透也を見上げた。
「そういうことでアリマス」
透也はパラパラとページをめくる。複雑な公式や専門用語がビッシリと書かれていて、とても彼には理解できそうになかった。
それでも、博士が身を隠しそうな場所の痕跡はないかと隅々まで目を通す。すると、最後のページに書かれた一文に目が止まった。
――もっと良い未来にする為に、この論文を使います。ごめんなさい――丸山明子
明らかに博士の筆跡ではない。
「誰だ?」
透也は眉を寄せた。
「さぁ……ワガハイのデータにはない名前でアリマス。戸籍のデータベースに忍び込んでみるでアリマスか?」
「うん……確かに気になるな」
しかし、リュウが二時間かけて検索しても、「丸山明子」という名はヒットしなかった。
分からないことにいつまでもこだわつていては仕方ない。透也は気持ちを切り替えることにした。
本棚の次に手を付けたのは、工房に転がったままの潰れた機械。もしかしたら、何かの記録が残っているかもしれないと考えたのだ。だが損傷が激しくて、修復するには時間がかかりそうだ。
それと同時に、工具屋や、博士が義手や義足を作ったと記録の残っている人など、博士に関わった人を訪ね歩いた。けれど、博士がいなくなったことに驚くばかりで、行先は何も知らないようだった。
結局、ひと月費やしても、博士が身を隠しそうな場所の手掛かりは、何ひとつ掴めなかった。
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透也の焦りは募っていく。
奇跡的に無事だった博士のサイフォンでコーヒーを淹れる。痺れるような苦味で、脳の奥底にある記憶を引き出そうとしても、くだらないことしか思い出せない。
こうして座る工房がどんな風だったのかすら、確かな記憶として残っていないのだ。
「なあ、リュウ。ここって、こんなに広かったのか?」
「さぁ。透也が成長したから、そう見えるだけではアリマせんか?」
人の記憶とは恐ろしく曖昧で、だからそれを記録に残すことは、とてつもなく重要である。
それができた人類だけが、科学を発展させ、積み上げられたのだ。文字、そして紙こそが、人類最大の発明である。
――かつて、博士はそんなことも言っていた。
今さらながら、その言葉がズシリと響く。
「身近なものほど見落としがちなんだ。だから、しっかりと記録を残すことが何よりも大事だ――科学の基本だぞ」
あまり教えてもらったことはなかったけれど、たまに自分の考えを饒舌に語ることはあった。
「それはミステリーに於ける推理にも似ている。よく観察し、論拠を積み上げなければ、トリックは見破れない。全ては観察から始まるんだ」
……まだ何かを見落としているのだろうか?
それとも、そもそも見るべき場所を間違えているのだろうか?
工具や部品、作り掛けの機械やよく分からない装置が散乱していたこの工房から、ひとつやふたつ、何かがなくなっていても気付かないだろう。
警察が何か重要なものを持ち出し、それを誤魔化すために破壊していったとしたら……。
「あー、分からねえ! 何が足りないんだよ。何を見落としてるんだよ……」
「透也、考え過ぎは良くないでアリマス」
くしゃくしゃと癖髪を掻きむしる彼に、リュウは丸い目を向けた。
「しっかり寝るでアリマス。それから何が一番大切か、もう一度見直すでアリマス」
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睡眠とは不思議なもので、一晩ぐっすりと眠ったら、脳内が整理されたような気がした。
朝のコーヒーを淹れながら、リュウの前に金平糖を転がす。サイフォンからカップにコーヒーを注ぎ、パンをかじる。
それから透也は、小さな相棒にこう言った。
「俺がやるべきことを、ようやく思い出したよ」
「それは良かったでアリマス」
金平糖を飲み込んで、リュウは顔を上げた。
「透也のやるべきこととは、何でアリマシタか?」
「人類の未来を、守ること」
彼の返答に、リュウは目をぱちくりさせた。
「博士との約束でアリマスな」
「そうだ。でも今の俺には、百年後、魔素がなくなった時のために、何かを残すのは無理だと思う」
「透也……」
「だから……」
透也はじっと、相棒の黒い目を見た。
「俺と一緒に、二十世紀へ行ってくれないか?」
リュウは数瞬、彼の言葉の意図を探っているようだったが、すぐに答えを出した。
「魔素を、消しに行くでアリマスね?」
「そうだ……魔素さえなければ、科学で人類の未来は支えられたはずなんだ。それが今、俺のやるべきことだと思う」
透也はテーブルに『時空干渉理論』を置いた。
「博士が残していったこれが、俺の見つけなきゃならないものだったんだ……博士がどこに居ようが、時間は止まらない。俺は、俺のやるべきことをやらなきゃ、後悔する」
古びた表紙に、博士の顔が重なる。
「過去の幸せを追ったところで、マイナスにしかならない。存在しない未来に期待を寄せても、不確定な数値はゼロでしかない。今ある小さな幸せを集めることで、幸せの全体値が最も大きくなる」
透也が失敗したり、過去に囚われたりした時に、博士はそんなことを言った。博士らしく数学っぽい言い方だけれど、その言葉は、迷った時の透也の指針となった。
今やれる最善のことをする――それが、博士の公式への透也の答えだ。
リュウは目をクリッとさせて透也を見上げた。
「それでいいでアリマス」
軽く傾げた小さな頭が、満足気に笑ったように見えた。
「ワガハイは透也の相棒でアリマス。どこまでも一緒でアリマス」




