83話 正体
その夜、透也は初めてコーヒーを飲んだ。一口目は苦くて渋くて顔を顰めたけれど、甘みの強いパンと食べた二口目は、すんなりと胃に入った。
美味しい……そう思った。
妖怪博士は、まるで悪戯を見つかった子供のように目を泳がせていたけど、コーヒーを何口か飲んだところで、大人であるのを思い出したのか、ぽつぽつと語りだした。
「人類を、救いたいんだ」
「人類を?」
「このままでは、魔素がそのうち枯渇する。そうなった時、科学の力が絶対に必要になる」
あまりにスケールの大きな話で、透也は目をパチクリさせた。
「魔素って?」
「魔能の素となる物質だ。174番目の元素という解釈もできる。理論上存在し得ない『神の元素』とも呼ばれる」
やっぱり、透也にはよく分からない。けれど博士は、珍しく饒舌に続けた。
「発見されたのは二十世紀初頭とされているが、有り得ないんだ。元素の存在自体は、錬金術がもてはやされた時代から認識されている。元素を成す原子と原子核に至っては、紀元前500年頃にはその構造が知られていたとされているが、確認されたのはずっと後の時代、走査型トンネル顕微鏡が開発されてからで……」
博士はそこまでまくし立ててから、ふと我に返った。
「分かるか?」
「分かんないけど、聞きたい」
透也がそう返すと、博士は気まずそうにボサボサ頭を搔いた。
「要するに、電子を保持するエネルギーを理論上越える物質なんだ、魔素というのは。173番目のウンセプトトリウムですら未発見なのに、二十世紀に魔素なんてものがあるのはおかしい」
「それで?」
「そんなものに文明の根幹を明け渡してきたんだ、人類は。魔素とは何なのかすらも知らずに」
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博士の話を要約するとこうだ。
魔素とは、希少な鉱物に特殊な電気エネルギーを照射して、原子構造を作り替えることで得られる物質。ごくわずかな量で莫大なエネルギーを得られることから、二十一世紀半ばまで産業文明を支えてきた化石燃料に代わり、使われるようになった。
また、魔素には大きな特徴がある。
生体内に取り込むと、DNAの構造を書き換えて、特殊能力を発揮するようになるのだ。
――それが、魔能と呼ばれる。
その効果を危険視され、発見後も長い間、その存在すら伏せられてきた。
ところが、環境破壊が極まった二十一世紀半ばに、エネルギー源として利用され始めた。
魔素の利用は厳しく制限され、貧しい者はその利益を享受できない。貧富の差が極まり、世界はユートピアとディストピアに二分された。
魔素の管理を行う世界政府は、ディストピアの住人を弾圧した。百億人の人口を維持できるほど、魔素の生産量がなかったためだ。
弾圧は、魔能を得た兵士により行われた。異能を持つ彼らに、持たざる人々が敵うはずもなかった。
弾圧を受けた人々は世界中を彷徨った後、魔素発祥の地である東京に集まった。そこで彼らは自治区を形成、ささやかな抵抗を続けてきた。
ところがそんな彼らにも、魔素を至上とする価値観が浸透していた。科学の恩恵を享受しながらも、環境破壊を引き起こした科学は野蛮なものであり、魔素を手に入れることでしか救われないという思想に囚われていたのだ。
けれど、博士は魔素の限界を察していた。魔素の素となる鉱物が非常に希少であるからだ。資源はいつか底を突き、必ず科学の時代に戻る。その時のために、科学の英智を引き継いでいかなければならない。
そこで博士は、自治区の片隅に研究所を構えて、細々と研究を続けていたのだ。
妖怪博士と揶揄されようとも。
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「何より、魔素を使うようになってから、人類の進化が止まっているのが気に入らない。魔素は万能であり、研究や研鑽など必要ないと考えるようになったからだ。このままでは、魔素を喰い尽くして人類は滅びる」
「…………」
「だからせめて、スラムの人々には、魔素などなくても困らないと、科学の素晴らしさを伝えたかったんだけどな。彼らの科学は三世紀も昔のものだ。やり方次第で、もっと楽な生活ができるはずなのに、私の作る道具は、彼らには合わないらしい」
「う、うん……そうだね」
そこでようやく、博士はボディスーツのファスナーに手を掛けた。首元を緩めて大きく息を吐く。
「けれど、研究を続けるには、スラムの物資だけでは足りなくてね」
「だから、メガロポリスで怪盗をしてたんだ」
「そう。このスーツはただのボディスーツじゃない。筋力を強化して、動きをサポートする機能がある。だからこんな私でも、あんな芸当ができるんだ」
「ワイヤーガンはどれなの?」
透也が聞くと、博士は左手を軽く挙げた。その手首に、大きな腕時計のような装置が巻かれている。
「ゴム人間みたいに、腕がビョーンと伸びたら便利だなと、作ってみたんだ」
博士は軽く手を振る。すると鈎のようなものが発射され、ワイヤーを引っ張って飛んでいく。手を動かしてその軌道を調節すると、鈎は部屋の片隅の配管に巻き付いた。
「特殊なワイヤーでね、絶縁性が高く摩擦に強い。1tの荷重に耐えられる」
博士はそう言って、ピンと張ったワイヤーを引っ張って見せた。
「凄いや……ねぇ、俺にも使わせて!」
「使い勝手に癖があるからな……」
また今度な、とはぐらかした博士に、透也はなおも食い下がった。
「じゃあ、光学迷彩マントは? 本当に見えなくなるの?」
「視覚は誤魔化せる。ソナーやレーダー、サーモグラフィーや犬の嗅覚には効果がないが」
博士は首に巻いたモスグリーンのスカーフを外して、顔の前で広げて見せた。すると透也の視界から、博士の姿だけがすっぽりと消えた。
「皺を伸ばすと効果を発揮する。頭から被れば追手を撒ける」
「なら、その布でボディスーツを作ればいいのに」
「通気性がないんだ。ずっと肌に貼り付けていたら、汗だくになってしまう」
そんな話をする博士は、とても楽しそうに見えた。やっぱり博士も怪盗に憧れているのだろうと、透也は思った。
「どうして怪人二十面相を名乗らなかったの?」
すると、博士は少年のような笑みを見せた。
「二十面相を名乗るなんて、烏滸がましいにも程がある。だから、一を引いて十九にしたんだ」
怪盗とはいえ、予告状を出すほどの実力はない。かと言って、名乗らずにおいて他の誰かが疑われては申し訳ない。だから博士は、盗みに入った場所に必ず『怪盗十九号』を示すカードを置いてくるのだそうだ。
テーブルに置かれたカード。
黒地に赤インクのレタリングで書かれている。『怪盗十九号 参上』の一行だけのシンプルなものだ。
それを見ながら、透也は先程からずっと考えていたことを口にしてみた。
「――俺も怪盗をやりたい」
博士は即答した。
「駄目だ」
「どうして?」
「未来への責任を、おまえみたいな子供に負わせたくない」
けれど、そこで引き下がる透也ではない。彼はニッと歯を見せた。
「なら、これを持って警察に行く」
と、目の前のカードを掴んだ。流石の博士も、それには「参ったな……」と頭を搔いた。
少し考えた後、博士は顔を上げた。
「分かった。ただし、約束がある」
そう透也を見た博士の目は、見たことがないほど鋭いものだった。
「絶対に人を殺してはいけない――たとえ自らの身が死に瀕してもだ」
透也は答えた。
「約束する――俺の見ているところで、誰も死なせない。この命に替えても」




