80話 妖怪と死神
空腹のまま迎えた朝。
研究室の片隅のベッドで目を覚ますと、隣の部屋からコーヒーの香りが漂ってきた。
透也は身を起こし、全身の痛みに顔を歪めた。体じゅうの痣を眺めても、昨日の自分が他人のように思える。
何とか体を動かして隣の部屋へ行く。そこで妖怪博士は、コーヒー片手にノートに向き合っていた。
そのテーブルには、乱雑に切られたパン。
「どうしたの、このパン?」
透也は驚いた。スラムには夜開いている店などないし、この研究所にパンの材料があるとも思えなかった。それ以上に、妖怪博士がパン粉を練っている姿を想像できない。
博士は軽く顔を上げ、パンに手を伸ばした。
「科学は万能なんだよ」
とても信じられる話ではないが、空腹には勝てない。透也は博士の向かいに座り、パンに齧り付いた。
そのパンは、これまで食べたどのパンよりも美味しかった。
パンを二切れほど腹に入れたところで、透也は博士が何をしているのかが気になった。
手作りと思われる不格好な鉛筆で、ページに細かく記号を記している。
「何を書いてるの?」
「プラズマを圧縮した限界値の計算」
やはり、さっぱり分からない。
ようやく人心地ついて、透也は周囲を見渡した。よく分からない機械の隙間に、わずかに生活感のある部屋。ここが妖怪博士の研究所だというのは理解しているが、一体何を研究しているのだろうか?
「荷電粒子を効率よく利用する方法、とでも言うのかな」
透也の問い掛けに、博士はそう答えた。
「そのカデン……何とかって、何の役に立つの?」
「さあな」
面倒臭そうな返答を聞いて、透也は首を傾げた。
「何の役に立つのか分からないものを研究するの?」
「科学とはそういうものだ。今は使い道が分からなくても、遠い将来、何かの役に立つかもしれない。言っただろ? 科学とは英知の蓄積だ。積み上げることが重要で、役立たせるのは二の次でいい」
そんなものなのか……と思いながら、博士の手元をよく見ようと目を細める。すると、右目の義眼がグリッと動いて、透也は「うわっ!」と声を上げた。
「な、なんだ? 急によく見えるようになった」
「ズーム機能だ」
博士は事もなげに答えた。
「義眼の機能だよ。人間の目には、様々な機能があらかじめ付いている。それを人工的に再現しようとしても、人間のように滑らかに切り替えるのは至難の業だ。だからモードで変換するようにした。そのついでに、それぞれのモードの機能は人間では不可能な値にしておいた」
「な、何のために?」
博士は鉛筆を止め、顔を上げた。
「人間の機能の再現をするだけじゃ、科学として面白くないから」
「そうじゃなくて……」
透也はもどかしいような気持ちで身を乗り出す。
「どうしてこんな俺に、そこまでしてくれたの?」
すると博士は小首を傾げた。
「高性能の義眼を開発した時に、都合よく目を失った子供に出会った。被検体としてちょうどいいじゃないか」
なるほど……と、透也は納得した。
この博士の行動原理は、決して同情や哀れみではなく、科学の研究にあるのだ。
つまり、透也が何者であるのかすら、全く興味がない。
やっぱりおかしな人だ……透也はそう思った。
「じゃあ、俺、ここに居ていいの?」
「経過観察をしたい。各機能の動作が想定内であるか、確認をしなきゃならないからな」
「……迷惑、じゃない?」
「迷惑?」
妖怪博士は眉を寄せる。
「被検体を手元に置くのがなぜ迷惑なんだ?」
「俺……死神だから」
そう言うと、妖怪博士は笑った。
「死神……フフフ……妖怪と死神か。随分とおあつらえ向きの組み合わせじゃないか」
どこか会話が噛み合わないし、人としての何かに欠けている。でも、だからこそ、透也にもフラットに接してくれる。
妙な居心地の良さを覚えて、透也は決めた――もう少し、ここで生きてみよう。
☩◆◆──⋯──◆◆☩
けれど、妖怪博士との生活は楽なものではなかった。
彼は研究にのめり込むあまり、生活に関しては全く駄目で、自分のコーヒーを淹れる以外に家事らしいことは一切やらない。
炊事、洗濯、掃除、全ての家事が透也の仕事になった。
しかし、透也も幼くて、両親のやっていたことを記憶を頼りに真似するだけだから、研究所はいつもひっちゃかめっちゃかだ。
「おい、ここに置いておいたビーカーをどこにやった?」
「さっき牛乳飲んだ」
「青酸ソーダの溶液を入れていたんだがな」
「……吐いてくる」
そんなのは、日常茶飯事だった。
妖怪博士との生活が大変なのは、それだけではない。
目を離すと、時折彼は倒れている。カフェインの過剰摂取と栄養失調と寝不足で、動いているのが不思議なほどの人だった。
その度に透也は、研究所の丘に自生しているサルナシや山ブドウを集めてきて、すり潰して飲ませるのだ。
けれど不思議と、透也はここに来て以来、空腹で困ることはなかった。博士が科学の力で何とかしているのだろう……その頃、彼はそう考えていた。
だが透也が、最も困難を感じるのはそこではなかった。
妖怪博士の研究所は、掘っ建て小屋を連ねたような形になっている。
だから、トタンで覆っただけの薄い壁に石がぶつかると、建物の中に大きく響く。
なぜ石がぶつかったのか……と、傾いた扉から外を見れば……
「妖怪が出てきた!」
「おい、あれは死神の方だぞ」
「に、逃げろ――!」
スラム街の悪ガキ共が、よくこうしてやって来た。その度に透也は、二度と『街』というコミュニティに戻ることはできないと、思い知らされるのだ。
何度かそんなことがあったある日。
「新たに開発した装置を市場に売りに行く。ついて来い」
博士にそう言われれば、断る訳にいかない。
白衣の背中に隠れるように、透也は懐かしい街に足を踏み入れた。するとやはり、彼に向けられたのは刃のような悪意だった。
「あんた、その小僧を匿ってるんだって?」
路地で野菜を売るおばさんが、博士に刺々しい言葉を投げる。
「こいつは死神だよ。生かしておけばまた大勢人が死ぬ。その責任を、あんたは取れるのかい?」
体が強ばり、透也は動けなくなった。取り囲む視線のひとつひとつが槍となって彼の体を串刺しにして、処刑台に晒されている気分だった。
けれど、妖怪博士は彼を見捨てるでも庇うでもなく、前のめりにおばさんに応じた。
「彼が生きていることと、この先大勢が死ぬ可能性とに因果関係があるというのは、非常に興味深い学説だ。是非科学的論拠を、私に示してもらえないか?」
おばさんは答えなかった。
さらに博士は、周囲の人々にこう言った。
「AMTを開発したのはこの私だ――君たちの依頼でね。その事実と彼の行った行為との関連性を考慮すると、責任者として名を上げるべきは、ここにいる大人全員と、私には思えるのだが」
散り散りに去っていく人々を興味なさげに見送ってから、博士が向かったのは工具屋。
頑固親父を絵に描いたような店主は、博士の顔を見るなり嫌な顔をした。
「また妙なモンを売り付けに来たのか」
「今度のはかなり実用性が高い。ライターだ。オイルがなくても火が灯る。そもそも、炎というのはプラズマの一種で、オイルや蝋を気化させ……」
「ゴタクはいいから、ちゃんと使えるモンか見せてくれ」
店主に急かされて、博士は白衣のポケットから金属の棒を取り出した。店主に棒の先を向け、その側面にあるスイッチを押すと――
強烈な火炎放射が店主の少ない髪をチリチリにしたから、彼は顔を真っ赤にした。
「馬鹿野郎! そんなモン使えるか! 命が幾つあっても足りねえわ!」
「……自信作だったんだけどな」
研究所に戻った博士は、テーブルにライターを置いて腕組みをした。
「このサイズであれだけの火力を出すのに苦労したんだ」
「苦労の方向性が間違ってると思う……」
そう言いつつも、透也はこれまでにない温かい気持ちになっていた。
それを言葉にしないのが苦しくて、透也は博士に顔を向けた。
「ありがとう」
すると博士は不思議そうに瞬きをした。
「私は君に対して何か良いことをしたのか?」
「したよ……俺、科学が大好きになった」
「そうか」
博士は興味なさそうにそう答えると、コーヒーを淹れにキッチンに向かった。
その背中に、透也は叫んだ。
「科学を勉強したい。博士、教えてくれないか?」
妖怪博士はコーヒーミルを回す手を止め、彼を振り返った。
「人に教えたことはないんだが……本ならたくさんある。勝手に見て覚えればいい」




