79話 博士の公式
かつて透也が住んでいたのは、スラムの一丁目。市場を抜けた先にある。
けれどそこは、集中爆撃で何もなくなったのを彼は知っていた……その最中、両親が死んだのも。
市場も当然、酷い有様になっていた。店は焼け、瓦礫がそこかしこで山になっている。
――そんな中でも、生き残った人々は、生きていかなければならないのだ。
辛うじて焼け残った品を寄せ集めて物々交換をする。所々で物資を巡った諍いがあり、中には強引に奪っていく人もいて、治安は最悪だ。
そんな市場に足を踏み入れた透也は、見知った顔を見つけた。何度か両親と共に、街に行ったことがある人。
もしかしたら、僕を引き取ってくれるのではないか。妖怪博士と名乗るあの変なおじさんのところにいるよりは、マシな生活ができるかもしれない――何しろ、僕はこの街のヒーローなのだから。
透也は彼に駆け寄り声を掛けた。ところが、彼は透也を見るなりこう言ったのだ。
「生きていたのか……この疫病神め!」
その言葉の意味が、透也には分からなかった。けれど、次第に集まってきた人たちが彼に投げつける言葉で、ようやく彼が置かれた立場を理解した。
「おまえがメガロポリスタワーを焼いたから、東京掃討戦が起きたんだ」
「メガロポリスで何十万人を殺して、自治区の人もまた十万人殺した」
「死神だ……おまえは、死神だ!」
殴られ、倒され、蹴られ、踏み付けられる。けれど、不思議と痛くはなかった。
何も感じなかった。
この街のために正しいことをしてきたのに、守ろうとした人々から向けられたのは悪意……けれど同時に、心の中で、彼らの感情が正しいものだと理解した。
僕は、大量殺人者なんだ。
突然、数十トンにも及ぶ鋼鉄の重荷を背負った感覚。罪悪感に押し潰された心が激痛を発するから、体が受ける痛みなど些細なものだった。
動かなくなった透也を置いて、人々は去っていった。
そのまましばらく微動だにできなかった。やがて、近くの商店の主が、死体ならば裏手の沼に捨てようと考えたのだろう、長柄の箒でつっつこうとしてきた。そこでようやく彼は身を起こし、足を引き摺って歩きだした。
生きていてはいけないのだろうと思った。背負った罪が、容赦なく透也を押し潰そうとしてくるから、死しか救いは無いと思った。
フラフラと市場を抜けた先の沼。掃討戦で焼かれた身元不明の屍たちが、そこで朽ちるのを待っていた。
ここが僕にとっての唯一の居場所なのだろう。
透也は脂で濁った水面に身を横たえた。手足に触れる腐りかけの肉の感触も、酷い悪臭も、蝿の羽音も、どこか遠くのものに感じた。
そうやって、空の色が移ろうのをただ眺めていた。
闇が世界を包み、このまま朝が来ないことを祈った。
……けれど、しばらくして、足音が近付いてきた。人工的な光が目に飛び込んで、透也は細めた目で光の主を見た。
その人物は、ボサボサ頭に懐中電灯を巻いていた。そして隈の濃い目を丸くした。
「おまえ、こんなところで何をしてるんだ?」
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死体漁りと言うと聞こえは悪いが、生きている人間から奪うよりはマシなはずだ――妖怪博士はそう言った。
「機械の部品に、死体から使えそうなものを拝借するんだ。医療用のボルトや義歯は、金属資源として貴重だからな」
妖怪博士の研究所に戻された透也は、収穫品を洗う彼をぼんやりと眺めていた。薄暗い部屋でボルトを骨から引き抜く様子は、文字通り妖怪のようだ。
しばらくして博士は、ふと顔を上げた。
「何か臭いな」
そこでようやく、透也が酷い様相なのに気付いたようだ。
「裏に風呂がある。井戸から水を汲んで薪を炊けば風呂が沸く」
満身創痍の体を引き摺り、汚水を垂らしながら、井戸から水を汲みドラム缶を満たす。その下に薪を焚べ、湯気が立つのを待って、そっとドラム缶に足を入れる。
冷えきった体にじんわりと沁みる温度が、強烈に『生』を感じさせるから、透也は堪らなくなった。
「…………」
髪の先まで湯に浸かり、無音で慟哭する。
どうして俺は、生き残ってしまったのだろう。
散々泣いてフラフラになりながら研究所に戻ると、妖怪博士は収獲品を炉で溶かしているところだった。
「なぁ博士……俺、どうして生きてるんだろう?」
透也が訊くと、博士は不思議そうな顔で見返した。
「生命が存在するのに理由などない」
「けれど……生きてちゃいけないんだよ、俺は……許されていいはずがないんだ!」
炉にかけた坩堝を静かに混ぜながら、博士は興味なさげに答えた。
「『死』という選択肢を自らに課すことは、生物学的に全く意味がない。たかが数十年待てば必ず死ねるのに、なぜわざわざ死を早めようとするのか理解に苦しむ。それよりも……」
坩堝の中身を何かの装置に注ぎ込む。赤く光る液体が、無精髭の生えた顔を照らした。
「そのたった数十年の繰り返しで、劇的な進化を遂げてきた人類という種族に、私は興味を持っている。その進化の根源――科学こそ、人類が存在する意義じゃないかな」
何を言っているんだ……と、呆気にとられたのは透也の方だった。
けれど、博士の言葉を聞いていると、自分の悩みなど些細なものだと、そんな風に思えてくる。
しばらく呆然と博士の手元を眺める。溶けた金属を入れた装置に蓋をし、スイッチを入れる。ブーンというモーター音がして、振動がテーブルを揺らした。
それを見ながら、透也は言った。
「科学って……面白いの?」
「面白いさ」
博士は即答した。
「魔能より凄いのか?」
「魔能だって科学の一部だ。エネルギー源に使うものが違うだけで、科学で説明できる」
「なら……」
縋るような思いで、透也は博士を見つめた。
「科学なら、東京を救えるのか?」
博士はしょぼくれた目を透也に向けた。
「理論上、死者を蘇生すること以外、科学に不可能は無い。科学は人類の英智の蓄積だ。凄まじい執念と失敗の結晶だ。一度失敗を知ったからには、より正しい方向へ進めるはずだ……進まなければならない」
魔能が台頭する理由となった環境破壊を言っているのだろう。それでも人類の進化を信じているからこそ、彼はこうして研究を続けているのだ。
ヨレヨレの白衣に包まれた貧弱な体が、この時の透也にはとてつもなく大きなものに見えた。
透也はここでようやく、猛烈に空腹なのを思い出した。
「科学に不可能はないのなら、何か食べ物を出せないの? ……市場でパン、買えなかったから」
すると妖怪博士は目を丸くした。
「それはとてつもない難題だ……無からパンを生み出す公式を、私は知らない」




