70話 対話
――その夜。
透也とベッドを並べる機械室をそっと抜け出したニコラは、すぐに透明怪人に見つかった。
「ワタシの部屋に来ない? 女同士お喋りするのも、たまには悪くないわよ」
寝静まった時計塔。
一応仲間になったつもりの影男は、この暗闇の奥の異空間で眠っているのだろう。
透明怪人に導かれた、時計の裏の彼女の部屋。文字盤に空いた小窓に、丸い月が浮かんでいる。
居心地悪そうに床に座ったニコラに、透明怪人は瓶コーラを差し出した。
「男どもには内緒よ。実は隠し部屋に、甘いものをたっぷり隠してあるの」
そう云いながら、彼女はキャラメルやチョコレート、ビスケットの山を二人の間に置いた。
瓶を開け、強烈な爽快感をもたらす刺激を口に含む。すると何故か涙が出てきた。
そんなニコラに優しい目を向けながら、透明怪人は黙って板チョコを齧った。
瓶の中身が半分減ったところで、透明怪人は口を開いた。
「辛いわよね、ずっと一緒にいる人が、もしかしたら他の誰かのものになるかも知れないっていうのは」
ニコラは俯く。
「解ってるんだ……ボクは、透也の恋人になんかなれない。でも、透也が遠くに行っちゃうようで……怖い」
透明怪人は二枚目の板チョコの包みを破る。
「ワタシからすると、ニコラはいい子過ぎるのよね。見てて心配になっちゃう」
ニコラはラムネ瓶のように澄んだ目で彼女を見返した。
「いい子? ボクが?」
「そう。自分よりも他人の都合に合わせちゃうとこ、あるじゃない?」
「うーん、そうかなぁ」
「そうじゃなかったら、自分の本当の気持ちが解らない、とか?」
それは自覚があった。
霧生男爵の罠で幻影城に居た時に、透也にも云われた。
これまでの人生で、自分の気持ちの通りになったことなんか無いし、自分の気持ちなんて訊かれたこともない。
ただふわふわと、自分の居場所を探して漂ってる……そうして生きてきた。
機械弄りが好きなのだって、ヒルダや透也がそうすると喜ぶからだし、逆に機械弄りを取り上げられたら、自分の存在価値は無くなってしまうだろう……そう思ってる。
胡座の足先を閉じたり開いたりするのを眺めていると、透明怪人が板チョコをパリッと割って渡してきた。
「ワタシが魔能を欲しかった理由、教えてあげようか」
「他の人に不細工だって莫迦にされたから」
チョコを受け取りながら即答すると、透明怪人はおどけるように指を立てた。
「正解……って、まあまあ失礼よ」
「ボクもよく云われたから。透明人間になれたらいいなと、何時も思ってた」
ニコラはチョコを一口齧る。甘い塊も、今は苦味の方が強く感じる。
一方、透明怪人は残りのチョコを口に入れ、キャラメルの包みを剥く。
「で、どうだった? 今も透明人間になりたい?」
キャラメルが仮面の下の口に放り込まれるのを見ながら、ニコラは首を横に振った。
「じゃあさ、何で透明人間になりたくなくなったの?」
「…………」
ニコラは不思議な仮面をポカンと眺める。透明人間になりたいと考えなくなったのは、何時からだろうか?
仮面の下の薄い唇がニコリと嗤った。
「――ずっと、ニコラのことを見てくれてる人がいるから、じゃない?」
そう云われて、思い浮かぶのは透也の顔だ。
ヒルダも神父様も大好きだけど、ずっと見ていてはくれなかった。居場所を与えられて、居場所に相応しい子供であろうとしていた。
けれど透也は、ニコラが何をしても見ていてくれる。
……居なくなったときは、助けてくれる。
透明怪人は首を傾げて、柔らかい視線をニコラに向けた。
「透明になりたくないってことは、ニコラが彼に見ていて欲しいから。そうでしょ?」
「うん……そうかも知れない」
すると、ニコラは不意に気になった。
「透明怪人もそうなのか? ショルメに見ていて欲しいのか?」
「勿論! だから、お洒落したり、お料理したり、お掃除するのが楽しいの……つっても、ワタシを見える男なんて、ショルメくらいしかいないけど」
「影男は?」
「あいつは駄目! ……いい? 大人になっても、ああいうタイプを好きになっちゃダメよ、いいわね」
「う、うん、解った……」
ニコラは膝を抱えてコーラを飲み干した。
「うん、なんかスッキリした気がするぞ。つまり、ボクがもっと目立つことをすれば、透也はもっとボクを見てくれるんだな?」
「合ってるようで、ちょっと違うわね……目立つというより、本当の気持ちを伝えるのよ」
「ほ、本当の、気持ち……⁉」
ニコラは頬を紅潮させる。
「そそそんな、無理だよ! ボクなんて子供だし、そんな……」
透明怪人はフフフと嗤ってニコラに顔を寄せた。
「『好き』って気持ちを素直に伝えられて、しかも、他に恋人が出来ようが、ずっと一緒にいていい魔法の言葉を教えてあげる」
と、彼女はニコラの鼻先に指を置く。そしてゆっくりと口を動かした。
「――おにいちゃん」
「おにいちゃん……」
「そう。どんなに甘えても赦されちゃう最高の言葉よ」
その言葉が、年上の兄弟を指すものだと云うのはニコラにも解った。けれど……と、彼女は首を傾げた。
「ボクと透也は家族じゃないぞ」
「家族よ」
「…………?」
「血は繋がってなくても家族にはなれるのよ」
ニコラは家族と云うものを知らない。幼い頃に故郷から連れ出されたから、父や母の存在すら記憶に無い。
家族とは何なのかを知らなかったニコラは、そういう繋がり方もあるのか……と目を丸くして透明怪人を見た。
仮面の奥で彼女は微笑んだ。
「『好き』っていうのにも、色々な種類があるのよ。本当の意味の『好き』が解るようになれば、どんなに距離が遠く離れたって心で繋がっていられるのは、覚えておくといいわ」
「じゃあさ、透明怪人は『おねえちゃん』だな!」
ニコラが云うと、透明怪人は少し驚いたようだが、直ぐにフフフと嗤った。
「じゃ、今からワタシがニコラのおねえちゃん。ニコラはワタシの可愛い妹よ」
そう云って、彼女はニコラを抱き寄せ、骨張った頬を上気した頬に擦り付ける……ちょっと痛い。
それから透明怪人は頬を離すと、
「じゃ、そろそろ部屋に戻って寝なさい。朝起きてニコラがいなかったら、透也、心配するから」
と彼女を解放した。
「うん、そうする」
ニコラは立ち上がり部屋を出かけて、不意に振り向く。
「ボクが一番好きなお菓子はマシュマロだ。チョコを浸したクッキーで挟んであると尚良い。また来るから、そん時までに用意しといて――おねえちゃん」
……ニコラが出て行った扉を眺めて、透明怪人はハァと溜息を吐いた。
「不器用かと思えば、要領いいトコあるのよね、あの子」
そしてキャラメルを口に入れて、「おねえちゃん」という言葉を噛み締める。
彼女自身、家族にすら「化け物」と云われ家出した経験がある。
「おねえちゃん、ね……」
まあ、我儘な妹の世話を焼くのも悪くないかと、透明怪人はお菓子を片付けベッドに入った。




