65話 対局
――幽霊塔の広間。
遠藤透也はチェス盤を睨んでいた。
それを挟んで座る男は、丸眼鏡の奥で眠そうな目を細めている。
「いい加減諦めたら? 日本の将棋の『投了』を、チェスでは『resign』と云う。それでいいんじゃないか?」
「ふざけんなよ……これで負けたら、小遣いを全部持ってかれる」
午後のひととき。
ニコラはリュウを従えて、隠し部屋探しをしている……ショルメ相手の対局では、リュウは役に立たない為、近頃は透也がチェスを始めるとコソコソと逃げていくのだ。
透明怪人は畑仕事に余念が無い。塔の裏側にある崖沿いの裏庭は、すっかり農園へと変貌を遂げていた。どうやら、以前彼女に仕掛けた兵糧攻めが堪えたようで、「絶対に自給自足を実現するんだから!」という目標に向け、着実に進んでいるようだ。
そんな中を歩き回る鶏夫婦に一昨日ヒヨコが生まれたようで、ステラは迷子にならないよう、親代わりに世話をしている。
……そして、男二人は暇を持て余して、生産性の無い遊戯に明け暮れていた。
大西洋結社のお尋ね者として下手に出歩けないショルメは兎も角、透也にとっては意地だ。
透也は二十分ほど考えた後、漸くナイトを動かした。だが直ぐに
「チェックメイト」
と返され、彼は癖の強い髪を掻きむしった。
「うがあああ! 畜生、これで何連敗だ?」
「六十四連敗かな」
ショルメはチェス盤の横に置かれた小銭を懐に納める。
そんな彼に恨めしい目を向けて、透也は云った。
「そろそろ、おまえの目的を教えろよ」
「目的? 何のことかな……」
「おまえが国際警察の諜報員で、大西洋結社に潜入していたのは知ってる」
「…………」
「けど、俺らと行動を共にする理由が解らねえ……何が目的だ?」
しかし、ショルメは欠伸をしつつ伸びをした。
「ここが俺にとって、東京で一番安全だから」
「誤魔化すな」
僅かに空気が揺れた。その途端、ショルメの首筋に日本刀が当てられていた。透也がMから奪ったものだが、少年心を擽るこのアイテムを気に入り、彼は常に手元に置いている。
透也は声を低めた。
「おまえ、俺たちの味方か、それとも敵か?」
鮮やかな碧眼はチェス盤を見ている。やがてそれがフッと細まると、ショルメはナイトの駒で刃を弾いた。
「そうだな、多分、君たちの目的とさほど違わない処を目指していると思うから、敵では無いと思う。具体的に言うと、この東京で何も起こらないようにしたい、かな」
「西洋人のおまえが、どうしてこの国に関わろうとする?」
透也は刀を鞘に納めつつショルメを睨む。その目を誤魔化せそうに無いと悟ったのか、ショルメは床に座り直した。
「話せば長くなるが……エドガーを殺したいから」
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――午後の明智邸。
チェス盤を眺めつつ、エルロックは云った。
「私と弟は、幼い頃に家族を失いました」
「えっ……」
対局する明智香子は、同情するような目を彼に向けた。
「ごめんなさい、辛いことを訊いてしまったわね……」
「いや、これだけお世話になっておきながら、我々の真の目的を話さないのはフェアではありません。いつかお伝えせねばと思っていました」
そう云って、エルロックはビショップを動かす。
「一応は、国際警察の捜査官を名乗っていますが、私の……いや、我ら兄弟の目的は、復讐です」
「と、仰ると?」
「エドガー……大西洋結社の社長です。あの男を、殺したい」
午後の陽射しの満ちた窓辺で小鳥が囀る。この穏やかなひとときも、彼の深い碧眼に澱む影を晴らすことは出来ないようだ。
香子は顎を引いて姿勢を正した。
「お教え願えない? 貴方がたご兄弟が、どうしてそこまで思い詰めていらっしゃるのか」
☩◆◆──⋯──◆◆☩
――十五年前。
地中海の小さな港町で、兄弟は暮らしていた。
父は漁師、母は市場で働く、この町ではごく普通の貧しい家庭だ。
そんな中でも苦心して、両親は二人の息子に学問を身に付けさせたいと、隣街の学校へ通わせていたのだが……。
ある日、教師が青ざめた顔で彼らに告げたのだ。
「大変だ。君たちの住む町が、海賊に襲われた」
引き留める教師や友人を振り切り、彼らは森を抜けて町へ戻った。
――そこで彼らが見たのは、地獄絵図だった。
町の家々は炎に包まれていた――その中に、彼らの住まいもあった。
広場に集められた町の人々は、老若男女問わず撃ち殺され、屍が無惨に積み重なっていた。若い女は服を剥ぎ取られ辱められ、抵抗する男には見るに堪えない拷問が行われている。
二人はその様子を、打ち壊された教会の残骸に身を隠して目撃した。
エルロックは吐き気と眩暈に耐えられず、その場に蹲った。
反対に立ち上がったのはショルメだった。自暴自棄に駆け出そうとする彼に、エルロックは焦った。
「僕たちが出て行ったところで、何の役にも立てない。それより、未だ何処かに生き残っている人が居る筈だ。その人たちと合流しよう」
そう引き留めた幼い弟の手は震えていた。
「赦せない……こんなの、赦せない――!」
弟の手を引き、無法者たちの目の届かない森の小道を走る。途中、港の傍の市場にも、大勢の亡骸が転がっているのが見えた。
その中に、今朝彼らを学校に見送った、エプロン姿の母の姿もあった。
半狂乱になりながら彼らが向かったのは、岬の影にある入り江。
案の定そこに、漁に出ており町の惨劇を逃れた漁師たちの船が退避していた。
その傍らにある、漁師が休憩所に使っている洞窟を覗くと、彼らの父が駆け寄った。
「何故……何故戻って来たんだ!!」
唸るような怒声はすぐさま嗚咽に変わり、父は兄弟を抱き締めた。
涙に暮れる父子の横で、漁師たちは相談していた。
「入り江に辿り着けなかった船は全部沈められた」
「偵察に行った者の話によると、町では女も子供も見境無く殺されたらしい」
「財産は全部奪われた」
「生き残りを探し回っているようだ。此処も直に見つかる」
――逃げるか、それとも戦うか。
究極の選択に答えが出る前に、だが事態は最悪の状況を迎えた。
「こんな処に隠れてやがる」
やって来た複数の海賊が、彼らに銃を向けたのだ。
洞窟の出口を塞がれた漁師たちは為す術が無い。それでも幾人かが、櫂や竿を手に立ち向かった。
それを眺め、エルロックは放心したように動けなくなった。「死」という、つい先程まで非現実だった事象が目の前にある――それを受け入れられるほど、彼は大人では無かった。
そんな彼と弟を洞窟の奥へと導いたのは父だった。
「この先は、大人が入れないほど細くなっている。おまえたちはそこに隠れろ」
そう云うと、父は彼に、一丁のピストルを渡した。
「逃げ切れなかったら、これを使え」
二連式のピストル。弾は二発装填されている。
幼いエルロックは、この銃があれば戦えるじゃないかと思った。しかし、彼を見返す父の悲しい目を見て悟った。
これは、万一の時に楽に死ねるようにという、父の愛情なんだ。
父は二人を突き飛ばし、洞窟の入口へと駆け出して行った。
次々と倒される漁師たち。海賊は抗った彼らを弄ぶように、踏み付け、手足を切断し、血の吹き出す其れを口に捻じ込んだ。
「…………」
エルロックは恐怖で頭を伏せる。無惨な音から逃れるよう耳を塞ぐ。そんな兄を、ショルメは洞窟の隙間に引き摺り込んだ。
彼は恐ろしく無表情だった。そして小さくこう云った。
「逃げよう。そして、復讐するんだ」
「…………」
「何時か必ず、あいつらを皆殺しにしてやる」
先程までの刹那的な衝動は、未来への決意に昇華したようだ……エルロックはそんな弟を眩しく感じた。
そこに悲鳴が轟いた。
父のものだと、直ぐに解った。
反射的にそちらを覗く。すると、海賊たちの前に一人、父が立ち塞がっていた。
子らを逃がす為の盾となっているのだ。
息も絶え絶えになりながら、海賊たちの凶行を一身に受ける姿を見て、エルロックは叫び出したくなった。
ショルメはそんな彼を押し退けてピストルを奪った。そして銃口を構え……
父の心臓を撃ち抜いた。




