64話 対峙
エドガーは、無数の竜に囲まれたこの屋敷でも萎縮することは無かった。
――竜の巣。
そう呼ばれるこの場所に来る経路は、長髪で派手な着物姿の男に案内されたのだが、それが魔能による異空間であるのを知ったのは、唐突にこの部屋に放り出されてからだった。
八角形の部屋。東洋風の造りになっている。
幾何学模様を描く格子窓からの陽射しは柔らかい。だが、大小の雪洞が吊るされた天井では、巨大な竜が牙を剥いて睨み下ろしている。
壁や柱、床の絨毯に至るまでに施された、何十、いや何百の竜の意匠が、その白い目を一斉に彼に向けたように、エドガーには見えた。
その視線の中心。エドガーが立つ位置から見て、正面左手に立つチャイナドレスの女が、竜と同じ鋭さで金色の目を光らせている。エドガーが妙な動きを見せれば、彼女の命令で一斉に竜が飛び掛ってくるに違いない――直感的に、彼はそう思った。
そして、彼の正面。一段上がった玉座のような場所に、一人の女が座っていた。
黒いヴェールで目元を隠し、真っ赤な口紅に彩られた唇を覗かせている。体の線に合った黒いドレスから形良い脚が覗き、組まれた足先にはハイヒール。
世界を股に掛け、あらゆるいい女を抱いてきた彼から見ても、ゴクリと唾を呑むほどの美女だ。
彼女はレースの手袋に包まれた右手を軽く上げ、「座れ」と云うように指先を動かした。
その威圧感に、エドガーは素直に従うしか無かった。
黒いドレスの女――黒い魔女は、彼を見て声を発した。
「冗長な話は好かぬ。要件を申せ」
その甘くも凛とした声が流暢な英語であるのにエドガーは驚いた。通訳は必要ない、エドガー本人と護衛一人のみの立ち入りを赦すと云っていたが、なるほどと彼は得心した。
だが彼は、要件では無く条件を口にした。
「此方が二人と云うのに、其方が三人なのは納得がいかない。これは対等な商談だ。人数を合わせて貰いたい」
しかし黒い魔女は動かない。代わりに、ヴェール越しに冷ややかな視線を彼に投げた。
「対魔能兵器を送り込んでおきながら、対等を求めると?」
「あれは此方の手違いだった。心より謝罪する」
黒い魔女は暫く彼を見ていたが、やがて軽く頭を動かした。彼女が示した右手の男――この部屋にエドガーを案内した優男が、「はいはい」と苦笑いを浮かべた。
「仕方ないね……じゃ」
その瞬間、まるで電球が切れたように男の姿がプツリと消えて、流石のエドガーも息を呑む。
――これが、魔能なのか。
異空間から様子を伺うつもりだろうとは思いつつ、一応は此方の条件を呑んだのだから、納得せざるを得ない。
エドガーは椅子の肘掛けに腕を預けた。
大西洋結社と怪盗同盟。
二度目の接触は、互いの首領、そして互いの忠実な侍従であるMと幻竜、四人の対峙となった。
Mはエドガーの後方に跪いている。相変わらずの日本かぶれな格好が、妙にこの部屋に似合っている。
その向かいのチャイナドレスの女――幻竜は、黒い魔女の傍らに立っていた。その金色の目は、二人の一挙一動を見逃すまいと、鋭い光を湛えている。
張り詰めた空気の中、真紅の唇が再び動いた。
「商談とは?」
エドガーは答えた。
「魔能を買いたい」
黒い魔女は動じない。レース手袋の指先もハイヒールの爪先すら動かさず、唇だけを動かした。
「断る」
エドガーとしても、この返答は想定済みだった。だが、この程度で折れる彼では無い。エドガーはニヤリと頬を上げた。
「破格の条件を用意したのだがね。これを蹴れば、君は――この国は後悔することになる」
ヴェールの下で目が動いた。裳装のような黒いレースの向こうから、冷たい視線が彼を射る。
「条件とは?」
「主権は君たちの国王に委ねる。我々が欲しいのは港湾の使用権だ。これ以上の譲歩は出来ない」
黒い瞳は、エドガーの薄い色の光彩の奥に淀む欺瞞を見抜こうとするように見えた。
黒い魔女は云った。
「我らが擁するのは国王ではない。天皇だ。海賊如きの指図は受けぬ」
誇り高き民族、と云ったところか。
しかしエドガーは、そんな民族を幾つも葬って来た。今更躊躇など無い。彼は膝に肘を置き身を乗り出す。
「交渉決裂で、本当にいいのか?」
黒い魔女は答えなかった。代わりに彼女は質問を投げた。
「貴様は何がしたいのだ?」
エドガーは答えた。
「世界を手に入れる」
「何故?」
「血筋だけが物を云う世界など、ウンザリでね」
「…………」
「古い価値観を力で捻じ伏せたい。利権のぬるま湯に浸かっている愚か者共を、生存競争の真っ只中に引き摺り出してやりたいのさ」
黒い魔女は口を閉ざしている。フフッとエドガーは口角を上げた。
「しかし私も莫迦じゃない。力だけではうまく行かないこともあると知っている。だからこうして交渉に来た」
それから彼はスッと目を細めた。
「――我が七海艦隊を以てすれば、千代田の皇城に大砲を撃ち込むなど難しくないのは、君も理解しているだろう。それでも断ると?」
すると、今度は黒い魔女がクククと嗤った。
「ほう、面白いことを云う」
エドガーの顔から笑みが消える。そんな彼に、魔女は云った。
「貴様が無駄話をしている間に、バッキンガム宮殿が火の海になっているやも知れんな」
エドガーは息を呑んだ……先程消えたあの男。得体の知れない異空間を操る彼ならば、そんな荒唐無稽な行為も可能なのではないか。
全身から血の気が引く。何とか呼吸を整え、エドガーは立ち上がった。
言葉も無く黒い魔女を見つめる。彼女は余裕の表情で唇をニッと上げた。
「古い価値観を捻じ伏せる? その古い価値観に最も囚われておるのは貴様ではないか。妾は何時でも受けて立つ。大砲だろうと艦隊だろうと持って来るが良い。この国に手出しはさせぬ」