63話 逃亡者
傷付いた体を冷たい床に横たえると、両手両足を拘束する鎖が厭な音を立てる。
毎日拷問紛いの取り調べを受けながら、Mは一言も発さなかった。
物理的に言葉を話せないことに対する嫌がらせ、女のように細い体躯への舐めた態度にも慣れている。
強いて厄介だったのは、平井と名乗ったあの男――鎖を解き、紙とペンを差し出して英語で質問してきたあの男にだけは、心が折れそうになった。
しかし彼らはMの真実を何も知らない。
奥歯の義歯――これを強く噛めば、全てを闇に葬ることが可能だと云うのに、敢えてそれをしない理由。
彼はまだ、諦めていなかった。
失敗しない暗殺者M――成功するまで絶対に諦めないのだ。
今回逮捕されたのも、彼の成功への途上であり、失敗では無い。大人しく取り調べを受けていたのも、警察の緊張が緩んだ頃合いを見計らっていただけのこと。
――M専用の極秘特別房、深夜。
気絶したまま寝入ったと思わせ、監視の目を油断させる。朝までピクリとも動かない対象を夜通し見張ることが何日も続けば、誰だって油断する。
この夜、専属の看守二人はいつも通りMを見張っていたが、鉄格子を鳴らしても卑猥な言葉を投げ付けても反応しない彼に飽きたのか、少し離れた事務机で花札をやりだした。
Mは聞き耳を立てる。そして、二人が勝負に熱中しているのを確かめて行動を起こした。
――関節を外す。手足の枷を抜くのは造作もない。それから音を立てないよう慎重に移動し、隠し持っていた針金で解錠。
鉄扉が開く音に二人が振り向いた時には既に遅かった。
一人は頚を圧し折られ、一人は奪われた拳銃を喉に押し込まれて脳幹を叩き潰され、声も出せぬまま絶命した。
ふたつの骸を見下ろすMは思い出す。
――あの黒い被り物をした化け物。
人を殺す為だけに生きてきた彼が太刀打ち出来なかったあの少年は、一体何者なのか。
しかし、のんびりしている猶予は無い。
Mは看守の制服を脱がせそれに着替えると、闇に紛れるようにその場を去った。
☩◆◆──⋯──◆◆☩
「――Mが脱獄!?」
その一報に、中村は声を上げた。
すると部下の一人が不思議そうな顔を向けた。
「室長、Mとは何でしょうか?」
「あ……いや、此方の話だ」
Mの存在は、東京を恐慌に陥れる可能性がある為、極秘扱いとなっている。
迂闊にそれを口走ってしまった己と、大勢の捜査員がいる東京特務警察の本部で報告してきた野呂への憤りを込めて、中村は彼のすっとぼけたような顔を睨んだ。
「状況を詳しく……別室でだ」
その後、明智邸へ報告に向かった彼らは、此処に滞在中のエルロック捜査官にも事態を告げた。
ホテルで誘拐された為に、最も信頼できる滞在場所をと、明智香子の申し出もありそう決まった。それに伴い、警官を配備し警戒をと申し出たが、
「不審者が警官に紛れ込む可能性がある」
と、彼女は断った。
中村の話を訊いた香子は、エルロック捜査官に気遣う視線を向けてから、テーブルに置かれたティーカップを睨んだ。
「大変な事態になったわね」
「明智探偵には判りませんかね、Mが身を隠しそうな場所……」
野呂の期待する視線に、香子は首を横に振った。
「今回ばかりは、流石にちょっと……」
「おまえの方はどうなんだ? お梅……いや、母君の情報網の方は?」
「流石にそこまでは……」
すると、エルロックが顔を上げた。
「奴の狙いはショルメです。彼を見張れば、必ずMは来ます」
「すると、貴方は弟君の所在をご存知なのですね?」
彼はしばらく中村を見ていたが、やがて静かに答えた。
「手掛かりなら。ただし、彼の身の安全の為、絶対に他言しないとお約束ください……それから、彼の同居人の身の自由の保証も」
☩◆◆──⋯──◆◆☩
透也は漸く気付いた。
外出に透明怪人を伴うのが最も安全な方法だと。
彼女の魔能『明鏡止水』は、彼女を見る者の認識から、彼女自身と彼女の所有物であると認識したものを消し去る。
つまり、「彼女の連れ」という認識を見る者に与えれば、透也も見えなくなるのだ。
そして、もうひとつの発見。
この状態になると、透也にも彼女が見えるようになる。
……とは云え、妙な仮面を被ったピエロみたいにド派手な女と手を繋いで歩くのは、ちょっと避けたいところだが。
一方、透明怪人も同じ気持ちのようで、
「どうせなら彼とデートしたかったのに」
とブツブツ云っていた。
ショルメに惚れているのだが、自分の容姿に自信がない為、積極的にアプローチ出来ないのだ。
「恥ずかしくて顔も見られないのよ。ねぇ、どうしたら彼の心を掴めるのかしら?」
「うーん、あいつ、何考えてるかさっぱり解らねえしなぁ」
と向かったのは、神保町の本屋。
外国語の本ばかりを集めたのこの書店に寄るのは、ショルメからの頼まれ物以外に無い。
「しかし、同じ本をまた買って来いっておかしな奴だよな……」
不審に思いながらも、透也は『アクロイド殺し』を手に取る。そして、善良な市民から盗みはしない主義の為、代金を店主の前にそっと置いて店を出た。
……その店の客に紛れ、二人の男が立ち読みのフリをしていたのだが。
ふと顔を上げた瞬間、見張っていた本が消えており、中村は野呂の腕を引っ張った。
「おい……」
野呂も目を丸くする。
「あ、あれ……」
二人は顔を見合わせた。
エルロック捜査官に、ショルメとの連絡方法を訊いた二人は本の監視をしていたのだが、煙のように消えた本の行方に溜息を吐いた。
「ショルメという人物の所在を追うの、難易度高過ぎません?」
☩◆◆──⋯──◆◆☩
「また本を買ってきてやったぞ!」
透也に差し出され、ショルメは
「ご苦労さま」
と受け取った。
「しっかし、ミステリーなんて一回読みゃいいだろうに。失くしたからって、また買う必要はあるのか?」
渋い顔をする透也に、ショルメは宣った。
「君はミステリーの愉しみ方を知らないと見える。一回目はスリリングな展開に心踊らせる。二回目は伏線やトリックに驚嘆する。三回目は文学としてのレトリックに酔う。ミステリーとはこうして完成するのだ」
「……嘘臭いな」
透也が去った後で、ショルメはページを捲る……すると案の定、カードが出てきた。
――Mが逃亡した。十二分に用心せよ――
その文言に目を通し、彼は静かに本を閉じた。
今度こそ奴は、難攻不落のこの城の攻略に出る可能性が高い。
Mの怖さは、殺人行為への実力もだが、己の実力を認識して対策出来るところにある。
大西洋結社の幹部だった当時、Mと手合わせしたことがあった。攻撃一辺倒の彼に対し、ショルメはいなし続けて体力を温存し、相手の疲れを見計らって反撃した。その時、何度やっても勝てなかった為に、今回は罠という手段に出たのだ。
……しかし、あれだけの睨み合いが出来るだけの精神力を得た彼が冷静に対峙してきたら、果たして……。
ショルメは無意識に首を竦める。
遠藤透也。あの化け物じみた俊敏さと膂力を持つ彼の存在が無ければ、「深慮遠謀」は成せず、今頃こうしているのは不可能だった。
一瞬であのMをやり込めるとは、一体、彼は何者なのか? 本人は気付いていないようだが、何か秘密があるのではないか。
人間の体であれ程の動きは困難……いや、本当に人間だろうか?
とは云え、あの少年はきっと役に立つ……俺の目的にとって。
☩◆◆──⋯──◆◆☩
その頃、Mは横浜港に繋留されている父の船にいた。呼び出されたのだ。
船長室に通された彼は、忍びの動きで膝を床につく。
気の短い父が、逮捕されたという失策を糾弾してくるのだろうと考え覚悟して来た。己の未熟さが招いた失態である。殺されても仕方ない、そう考えていた。
しかし父――エドガーは穏やかにワイングラスを眺めていた。
「甲州という処のワインらしい。少々酸味が強いが悪くない。一帯を買い取って周辺住人を奴隷にして働かせ量産し、安く仏蘭西にでも売れば受けそうだ」
ほろ酔いに語る父の前で、Mはじっと顔を伏せている。
するとエドガーは彼に顔を向けた。
「ショルメの件は後回しだ……状況によっては、捨て置いて構わん」
「…………?」
エドガーが命令を覆すのは珍しいことだった。Mは小さく顔を上げ、父の表情を窺う。すると、彼に似た灰色の目がスッと細まった。
「近々、黒い魔女と会う」
「…………」
「念の為、此方としても警備体制は万全にしておきたい。おまえは私について来い」
Mは深々と頭を下げた。そんな彼を見下ろしエドガーは嗤った。
「何、たかが商談。気構える必要は無い――この国を買うだけのことだ」
☩◆◆── <陸>──電撃の暗殺者【END】──◆◆☩




