47話 密談
内務省近くの呑み屋。
男やもめの倣いで、食事はいつも此処だ。安い、早い、味はともかく店主のおやじが無闇に話し掛けてこないので、中村にとって都合のいい店である。
この日も、仕事上がりに鯵の干物を肴に一杯やっていると、声を掛けられた。
「下戸じゃなかったのか」
同郷の平井だ。中村は向かいの席を示し、
「男やもめなんざ、呑まなきゃやってられねえよ」
と、お銚子もう一本と店主を呼ぶ。
向かいに座った平井は中村より若い。締まった細面を見るに、四十そこそこだろう。それでいて内務省保警局の局長である……要するに、警視庁から左遷されそうになった中村を拾ってくれた恩人だ。
昔から頭の切れる奴だったが、霞ヶ関に於いてもその才覚は遺憾無く発揮されているようだ。
店主からお猪口を受け取り、平井は中村の酌を受けた。
「警視庁とは勝手が違うから大変だろう。警視庁は警察官の集まりだが、保警局は役人ばかりだからな。現場から遠い」
「確かにそれはあるが、俺が勝手に飛び出しといて、文句を言える立場じゃない。居場所を貰えただけで十分に有り難い」
平井はお猪口を一息に空けると、不意に声を低めた。
「実は今、公安に関わる案件があってな。怪盗同盟とも関わりが出てきそうだったから、例の件が無くともおまえをこちらに呼ぼうと考えていた」
中村は鬼瓦のような眉間を筋立てる。
「どういうことだ?」
「『大西洋結社』は知ってるだろう?」
思いもしない名が出てきて、中村は更に眉を寄せる。
「世界各地で好き放題やってる海賊紛いの連中だろう」
「そうだ。だが最大の問題は、奴らの背後に欧州諸国という国家が付いていることだ。そいつらが人身売買や阿片の取引を本邦でもやりだしたと情報があってな――しかも先日、大西洋結社の社長が品川で目撃された」
中村は無精髭を撫でる。何か企んでいるに違いない。
「それと怪盗同盟とどう関わりが?」
中村が再び平井のお猪口を満たす。その波紋を眺めながら平井は答えた。
「奴らは魔能を狙っているらしい」
中村は、お猪口から酒が溢れるまで気付かない程度に愕然とした。
「魔能を……!」
「これがどういう意味か解るか?」
「魔能を金に替えるのか」
「それだけの話ならば苦はない――問題はそうじゃない」
満たされたお猪口に口も付けず、平井は云った。
「魔能の軍事利用」
「…………」
「亜細亜諸国を蹂躙した奴らが本邦を狙わない理由は、一説に魔能があるからだと云われている。魔能は得体の知れない異能力だ。過去の魔能事件のやり口を使えば、艦隊をまるごと撃沈させることも可能だろう。魔能があるから手が出せないんだ」
平井は、えも言われぬ影を浮かべた目でお猪口の波紋を睨む。
「だが万一、魔能が奴らに渡ったらどうなる?」
中村は絶句した。
そして、動揺を落ち着けようと自分のお猪口に酒を注ぐが、その手は覚束無いほど震えている。
何とかお猪口を満たし一気に呷ると、中村は漸く顔を平井に向けた。
「怪盗同盟と大西洋結社が接触した形跡は?」
「実は、過去に一度ある。その時の取引は失敗に終わったようだが」
「…………」
「今や、怪盗同盟の動向は国家の存亡に関わっているのだ。そこで、怪盗同盟の情報――魔能の情報を少しでも多く得たいと、おまえを呼んだ。これからおまえの部署に人員を増やす予定だ。これ迄以上に励んでくれ」
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いつものように店に入ると、見慣れない男がカウンターに突っ伏していて、野呂はおや? と足を止めた。
「こんな時間まで客がいるとは珍しいじゃないか、ママ」
すると、カウンターの奥からお梅がギロリと目を向けた。
「おまえの目は節穴かい。保警局に移ったとは云え、やってることは刑事なんだろ」
野呂は目を細めて、男の癖の強い頭髪を観察してから、漸く声を上げた。
「こいつ……怪人ジューク!」
そして慌てふためきお梅に訊く。
「け、警察呼ぶ? 賞金首だよね。確か、十万……」
すると、お梅は心底呆れた様子で大きく溜息を吐いた。
「うちの店は治外法権なんだよ! 騒ぎを起こしたら叩き出すぞこの莫迦息子」
――白梅軒。
千駄木の急坂の途中にある、お梅が経営する喫茶店だ。
そのカウンターで突っ伏す遠藤透也は、騒がしい声に顔を上げた……額の大きなタンコブに、濡れ布巾が当てられている。
恐る恐る彼を覗き込み、野呂は訊いた。
「どしたの、それ」
「ッたく、酷え目に遭ったぜ。幽霊塔どころか化け物屋敷だ」
「…………え?」
事情を知らない野呂は青い顔で、お梅に促されるまま透也の横に座った。
そして、夕飯の茶漬けと目刺しに箸を付けたところ、横目で眺める透也の腹が鳴る。
しかしお梅は平然と紫煙を燻らした。
「何度も云うけど、うちは医者でも宿屋でもないンだからね。珈琲を出す店。解ってンのかい」
「でも、あいつ、寝ちまったし」
透也は店の奥に目を向ける。畳敷きのそこでは、ニコラという赤毛の子供と飼い猫のタマと……緑色のヤモリと鉄の手毬が重なり合って寝ている。
「な、一晩だけ。此処が東京で一番安全な場所なんだ。だから……」
手を合わせ、仏像でも拝む調子で、遠藤透也はお梅に頭を下げる。すると彼女は諦めたように煙を吐き出し、透也の前にも茶漬けを置いた。
「で、どうすんだい? そんなんじゃ幽霊塔に住めないじゃないか」
「そこなんだよな……あの拗らせ女を何とかしねえと」
「拗らせ女?」
そう反応し、野呂は思い出した。
「そう云えば昨日、明智探偵に会って……」
それを訊いて透也はむせ返った……何かおかしな事を言っただろうか?
咳き込む透也の背中を擦りながら野呂は続ける。
「警視庁を追い出されてから、霧生男爵事件の情報が入らなくて困ってたら、彼女が独自の調査であることを発見してね。霧生男爵が惨殺体で発見されたのは新聞にも出てたよね。で、その遺体の様子が……」
野呂の視線が熱を帯びる。そんな彼に、透也は別人を見るような目を向けた。
彼は云った。
「――十年前の篠崎壮二殺害事件と状況が酷似していると」
熱っぽく語る息子に、お梅は暗い陽炎を宿した目を向けた。
「で?」
「恐らく、霧生男爵は怪盗同盟に消されたんだろうって」
「…………」
お梅は長煙管をポンと叩いて灰を棄てる。そして誰にともなく呟いた。
「琵琶の音に気を付けな。盲目の琵琶法師――奴にだけは、近寄っちゃならない」
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【平井】
年齢・四十二
役職・内務省保警局局長
故郷・愛知縣碧海郡依佐美村
好きなもの・甘味
嫌いなもの・酒、責任
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