45話 新たなる道へ
「――怪人ジュークに、逃げられたと」
中村警部の顔を見られず、明智香子は項垂れた。
「何と申し開きしていいのやら……」
しかし彼は彼女を責めようとはしなかった。
「ハッハッハ、やられましたな。しかし、私も貴女に謝らなければならぬことがありましてな」
「はぁ……」
上目遣いに中村を見ると、彼は気まずそうに無精髭を撫でた。
「実は、上と喧嘩をしまして、警視庁を追い出されました」
「エッ……!」
「なに、公務員ですから、クビという訳ではありません……ただ、内務省に籍が移りました」
中村の話によると、『霧生男爵事件』の捜査の継続を上から止められ、それに大いに反発したところ、僻地に飛ばされそうになった為、旧知を頼り内務省に泣き付いた、という流れらしい。
「警視庁は日下部伯爵にベッタリですが、内務省は帝国評議会の首席であられる大鳥公爵の直轄ですからな。日下部伯爵と云えど迂闊に手は出せません」
「なるほど……でも、本当にそれで宜しかったので?」
すると中村は豪快に腹を揺らした。
「スッキリしましたよ。上の顔色ばかり窺い続ける刑事人生でしたので。内務省からは『好きにやれ』と云われましてな……その代わり、部下は野呂だけになりました」
中村の横で、野呂が首を竦めた。
「刑事じゃなくなっちゃいましたけど、中村警部について行くと決めましたから」
「俺も警部でなくなったけどな」
嗤い合う二人を、香子は清々しい気持ちで眺めた。
野呂は独り者であるし、あの女傑の母なら大丈夫だろう。心配なのは中村の妻子だ。その辺りを訊いてみるが、彼はあっけらかんと答えた。
「故郷に帰しました。元々、給料を入れる以外、父親らしい、夫らしいことは何ひとつしておりませんので……しかし、仕事が終わったら迎えに来いと云われました」
「良い奥様ですね」
「過ぎた女房です」
照れ臭そうに首筋を撫でた中村は、「さて」と姿勢を改めた。
「大鳥公爵より、『東京特務警察』の名は引き続き使って良いとのお達しでしたので、我々は今後も特警を名乗ることとします――そこで改めて、明智探偵にお伺いしたいのです」
中村は迫力のある顔に置かれた目を光らせた。
「我々へのご協力をお願いしたい」
香子は凛とした笑みで答えた。
「勿論――こちらこそ、宜しく」
☩◆◆──⋯──◆◆☩
透也が白梅軒へ戻ると、お梅が呆れたような目を向けた。
「勝手にガキを置いてかないでくれる? うちは託児所じゃないんだよ」
と、店の奥を顎でしゃくる。そこでは、毛布に包まったニコラがスヤスヤと昼寝していた。
「悪ィ……ちょっと長屋に用があって」
と、彼はカウンターに冊子を置き、背の高い丸椅子に腰を落ち着ける。
「何だい? そりゃ」
「思い出してな……こっちの世界に持って来たのを」
――『時空干渉理論』。
博士の直筆の論文だ。
瓶の中の幻影世界で思い出した。確かに透也は、これを持ってタイムマシンに乗ったのだ。
怪人ジュークのアジトだとバレた長屋は、案の定、酷い有り様だった。だが、こんな紙の束に価値は無いと思われたのだろう。侵入者もこれだけは放置していた。
透也は手に取りページを捲る。そして最後のところで手を止めた。
――もっと良い未来にする為に、この論文を使います。ごめんなさい。 丸山明子
すっかり忘れていたが、確か初めてこの論文を見た時も、この走り書きには気付いていた。
一体どういう意味だ? 「丸山明子」という女は誰なんだ?
考え込んでいると、お梅が紫煙を透也の鼻先に吹き掛けた。
「ちょっと、勝手に自分の世界に入んじゃないよ……あの子からだいたいの事情は訊いたよ。アンタ、人様が世話してやった長屋を何だと……って、そこはいいや。でも折角、元子爵のお屋敷にご厄介になれそうだってンのに、勝手に飛び出して来るこたァ無いだろ」
「彼女には関係ねぇ……これ以上俺に関わると、彼女を傷付ける」
「ふうん。そう云っときながら、あの子には幸せにするだの何だの……」
「あー煩え! 珈琲!」
「ッたく、しょうがないね――あいよ」
乱暴に置かれたカップを手に取り、透也は口を付けた……やっぱり、此処の珈琲が一番美味い。
「で、これからどうすんだい? いつまでもうちに居られちゃ迷惑だ」
「それだよ、一番相談したいのは……何処かいい物件を知らねぇか?」
「希望は?」
「うーん、静かな立地で、機械いじりをしても近所迷惑にならなくて、何となくアジトっぽいとこ」
「贅沢だねぇ……そう云えば」
お梅は長煙管を吹かして透也を見下ろした。
「客から相談を受けたことがあるよ」
「どんな?」
「雑司ヶ谷の時計塔の妙な噂」
……その時計塔は、ある富豪が道楽で建てたのだが、当人が亡くなり、手入れされぬまま放置されていた。
ところがある時から、奇妙な噂が立ちはじめる。
夜、雑司ヶ谷の墓地に行くと、廃墟となった時計塔から女の叫び声が聞こえると。
近隣の者はその時計塔を『幽霊塔』と呼び、今は近寄る者もない……。
「でさ、最近、それが売りに出されたらしいんだ」
「ふうん……」
「そこを買った不動産屋ってのがうちの客でね。転売する前に下見に行くじゃないか。すると……」
お梅は声を低めた。
「物音や声が確かにする。何ならすぐ傍で足音まで聞こえるのに、姿が見えない」
「…………」
「何かあるっつって、その不動産屋、謂れは無いかと訊きに来てね」
「透明人間だな」
いつの間にか、ニコラが起きて店に下りてきた。
「お化けや幽霊は科学的じゃない。透明人間なら居てもおかしくない」
「いや、もっとおかしいだろ」
ピョンと隣に座るニコラに透也が突っ込むが、彼女はお梅に牛乳を貰ってご満悦だ。
「でさ、気味悪いから、欲しい奴がいたらタダでやると、その不動産屋が云ってんだよ」
「タダで!?」
途端に透也は目を輝かせる。
「確かに、墓地の外れなら静かだし、多少の物音じゃ近所迷惑にゃアならないだろうし、そんな気味悪い処なんか誰も近寄りゃしないから、アジトとしちゃあおあつらえ向きだろうね」
「よし、決めた。そこをアジトとする」
透也は珈琲を一気に呑み干して立ち上がった。
「ご馳走さま――行こうぜ、ニコラ」
ニコラも牛乳を飲み干して、
「ごちそうさま!」
と頭を下げると、透也に続いて店を出て行った。
「……お代を払うっていう考えは無いのかねぇ」
お梅は溜息を吐いた。
☩◆◆──⋯──◆◆☩
――横浜港に係留された高速船。小柄な船体に不釣り合いな複数の煙突は、この船が尋常でない推進力を持つことを示している。
そこから降りた男は、横浜の倉庫街を一望して呟いた。
「古臭い街だ」
そして彼は船を振り返る。
黒い舳先に記された紋章――向き合った二頭の獅子と、その間に置かれた盾に記された七つの王冠。
これの意味を知る者は、蛮族共の住むこの国に存在するのか……と、彼は鼻で嗤った。
彼の名は、エドガー。
『大西洋結社』の社長である。
紋章にある獅子は王位、即ちその土地を支配する正当なる権利の所在を表し、七つの王冠は、七つの海の覇権を示す。
欧州の盟主たる英国王より与えられた、世界最強と謳われる『七海艦隊』の指揮権の所有者のみが掲げられる紋章なのだ。
だが彼は、いきなり七海艦隊を横浜港へぶつける気もなければ、優雅に横浜見物をするつもりでも無かった。
「どうぞこちらへ」
と赤絨毯で導かれたのは、最新鋭のフォード。座席に腰を落ち着けた彼は、室内鏡でボウタイを確認し、櫛で金髪を整える。
それからハンドルを握り、彼は横浜港を後にした。
向かうは、東京。
『魔能』とやらが跋扈する魔都だ。
早速、無線が入る。
「社長、お早いお着きで」
「あぁ、新造のあの船は快適だったよ。ところで、首尾はどうだ?」
「申し訳ございません。社長のご到着が余りにも早かったもので、手土産が未だご用意出来ておりません」
すると、彫りの深い顔立ちに配された眉が吊り上がる。
「私は遅れるのが嫌いなのを知っているだろう」
「は、はい、勿論」
「ならば、私が東京に到着するまでに、奴を捕まえることだ。でなければ代わりに、君の首を歓迎パーティーの会場に飾ることになる」
エドガーは無線を切り、ハンドルに意識を戻した。
――昨日今日の話ではない。
奴が裏切り、逃亡したのは半年も前。何時まで待てば首を持って来るのか、無能共め。
そもそもの発端は、日本の植民地化の話が出た時。
この国には魔能なる異能力を使う者が存在し、それを放置しておけば統治は困難な為、対抗策として『魔能を無効化する兵器』を送り込もうと決まった時だ。
奴はその兵器を「有能な天才児」と偽り怪盗同盟の首領に売り込みに行った――そして、魔能と引き換えに裏切った。
挙句、兵器は行方不明、本人は失踪。
惨憺たる尻拭いに何人の有望な部下が消えたか。
だが、彼が直々にその尻拭いに来た訳でもない。
彼がはるばる日本へ来たのは、商談の為だ。
フォードは川崎を抜け品川に入る。すると道端に寝転がる浮浪者が目に入った。破れた手拭いを頬被りして藁を被る様子を見て、エドガーは忌々しく舌打ちした。
「蛮族め。魔能さえ無ければ、我が七海艦隊でひと捻りにしてやるものを」
……フォードのエンジン音に起こされた浮浪者は、忌々しげに目を開いた。そして、フォードの運転者を見て慌てて寝返りを打った。
「…………危ない危ない」
そして、完全にエンジン音が消えるのを待ってから身を起こす。
ボロボロに破れた着物を羽織っているものの、その体格は日本人のものではない。華奢な長身に透き通るように白い肌。そして手拭いの下から覗くのは、白髪ではなくプラチナブロンドの長髪だ。
彼は鮮やかな碧眼を細め、丸眼鏡を通してフォードが消えた方を見遣る。
――大西洋結社の社長のお出ましとは。
まさか、わざわざ俺を捕まえに来た訳でもあるまい。考えられる可能性は……
それからボリボリと頭を搔いた。
「やめたやめた。やっと自由になったんだ。もう少し寝る……」
彼はそう呟くと、再びゴロンと藁を被った。
☩◆◆── <肆>──幻影ラビリンス【END】──◆◆☩