44話 約束
――深夜。
いきなり放電を喰らい、遠藤透也は飛び起きた。
「ななな何事だ!?」
するとパジャマの襟を引っ張りながら、リュウが訴えた。
「ニコラが……出て行ったでアリマス!」
慌てて窓から飛び出すものの、頭がクラクラする……銃で撃たれたような気がするけど、傷口が見当たらないから夢かも知れない。
とは云え、深刻な顔をしてニコラが飛び出して行ったと聞けば、追わない訳にはいかない。思ったことをすぐ行動に移すエキセントリックな彼女が、何をしでかすか解らない。ステラがついて行ったようだが、それはそれで心配だ……ニコラに万一のことがあれば、あの戦車の暴走を止められる気がしない。
……ところが、少し行った先の用水路の橋の下で、ニコラは水面を眺めていた。
初めて会った時に来た、あの場所だ。
穏やかな流れに浮かんだ三日月がキラキラと揺れる。そこに石を放り投げ、ニコラは膝に顔を埋めた。
彼女に寄り添うステラが透也を見付け、こちらに目を向ける。
透也はステラを挟んで座り、黙って月を眺めた。
静かな刻が流れていく。
やがて、ニコラはボソッと呟いた。
「生きてる資格ない……ボクは」
透也も月に石を投げて嗤った。
「生きてる資格の無さなら、俺に勝てる奴はいねえぜ」
波紋が流れる。しかし、月はそこに留まっている。
「自分のやったことは消えねえ、たとえ死んだって……なんて、解っちゃいるけど、向き合えねえよな……背負えねえよな」
透也はじっと、揺れる月影を目で追う。
「だから、他に理由を見つけて誤魔化すんだ。何かを成し遂げたいとか、誰かを護りたいとか。自分の生きるべき価値を、他の誰かに求めるんだ」
「…………」
「いいんじゃね? そんなんで。急がなくったって、死ぬときゃ死ぬんだし。今一番大事にしたいことをやる。それを続けていけば、自分に後悔はしない気がする」
「透也……」
リュウを頭に乗せ、ステラが二人の隙間を抜ける。少し離れた川岸で止まり、二匹もまた月を眺めた。
ニコラが透也にギュッと抱き付く。
「ごめんなさい……ボク、透也と離れたくない」
震える赤毛をクシャクシャと撫で、透也は微笑んだ。
「離れる気はねえよ……約束したからな」
「どんな?」
見上げる澄んだ瞳から、透也は慌てて目を逸らした。
「んー、何だっけな……」
「何だそれ」
「いいんだよ、そういうので……そうだ、おまえも俺に約束しろ」
透也は小指をニコラに差し出す。
「今の幸せを探すんだ」
「今の幸せ?」
「そうだ。昔の取り戻せない幸せを追っても、今の自分が不幸なだけ。ならば、今の小さな幸せをたくさん探した方が、幸せの全体量は多い――俺の大事な人が教えてくれた」
「ふうん……」
「辛いことの方が多いかも知れない。けれど、小さな幸せを集めていけば、いつか、幸せの方が勝つ。そう信じようぜ」
ニコラはしばらくキョトンと透也を見上げていたが、やがてニコリとして小指を絡めた。
「うん、面白そうだ。小さな幸せを集めるぞ」
「そうそう、それでいい」
「ならば、早速だが」
そう云って、ニコラはピョンと立ち上がる。
「待つのは好きじゃない。追っ掛けた方が効率的だ。という訳で、明日の朝イチでソーダ水にリベンジだ」
「…………」
「浅草に行くぞ。なんか色々あったけど、楽しかったし」
「……いや、浅草はしばらくいいかな……」
「なら、上野まで地下鉄で行こう。地面の下を電車が走るんだ。倫敦で一度乗ったが、グワーッとして面白かった――あ、それから、これを返す」
ニコラが透也に渡したのは、ステラの制御鍵。
「やっぱこれは、おまえが持っていた方がいい」
と、彼女は少し短くなった革紐に通したそれを、透也の首に掛けて結んだ。
「これをおまえが持っていれば、ボクが何処に行っても、おまえが助けに来てくれる」
☩◆◆──⋯──◆◆☩
竜の巣に呼び集められた三人は、黒檀の円テーブルを囲み向き合っていた。
相変わらず無口な一寸法師と、珍しく黙り込む影男を見比べて、透明怪人が口を出す。
「何か、人、減ってない?」
「…………」
「霧のオッサンは何処行ったのさ? まさか、あのオッサンがやられたとか無いでしょ。旅行にでも行ったの? 熱海? それともハワイ? それか、女でも作って……」
「耳寂しいなら琵琶を奏でようか」
一寸法師の一言で、透明怪人は口を噤んだ。
怪盗同盟幹部の紅一点である彼女は、だが影男などから見れば、女性としての魅力がこれっぽっちも無い。常に奇妙な仮面で顔を隠し、道化のように派手なコートドレスに身を包んでいる。
こんな特異な見た目でありながら、その姿を常人は認識できない――見る者の認識の内で、彼女は「透明人間」なのだ。
それが彼女の魔能である。
噂によると、仮面の下は見た者が正気を失う程の醜女らしい。
しかし魔能のおかげで、彼女の素顔を知る者はない。
そして、同盟内の勢力争いに全く興味がない点も特異だ。雑司ヶ谷の墓地の外れにある時計塔で一人、俗世間からも離れて暮らしている。
そんな彼女が幹部の一員である理由は、その能力の汎用さ。
「誰にも認知されない」というのは、怪盗にとって最大限に優位に立てる要素だからだ。
厭な沈黙が流れる。
しかしそれは、扉の開く音により破られた。
二頭の金竜が護る扉から、侍従の幻竜に続き、黒い魔女が現れる。
漆黒の細身のドレスに身を包んだ彼女は正面に座すと、立ち上がり一礼する一同に着席を促した。
そして、ヴェール越しの視線を透明怪人に向ける。
「先に伝えておく――霧生男爵を始末した」
「…………ぁあ?」
ひっくり返った声を上げ、透明怪人は身を乗り出した。
「あ、あの、始末と仰ると?」
「奴は妾を裏切った。その為、始末の機会を伺っておった」
「…………」
「知っての通り、帝国評議会は魔能の軍事利用を企んでおる。妾はそれを断固として拒否する。だが奴はそれに加担した」
「しかしながら……」
と、影男が軽く手を挙げた。
「魔能を使わずして、来るべき欧州諸国の侵略に我が国は勝てるとお考えでしょうか?」
ヴェール越しの目が影男に向けられる――氷の槍のような冷たい視線に、彼はゾクッと身を震わせた。
「解らぬ。だが妾は、過分な武力が引き起こした取り返しの付かぬ惨劇を見た。それを妾の手で起こすことは出来ぬ」
彼女は時折、奇妙なことを云う。
五十年後、原子爆弾と云うものが使用され、ふたつの街が消え去った。更に二百五十年後、核ミサイルと云うものが飛び交う四度目の世界戦争が起き、人類の八割が消滅した。
この東京も戦火に焼かれ、一時は虫すら住めぬ荒野と化した……と、彼女は予言めいたことを語るのだ。
影男はそれ以上反論せず、黒い魔女の深紅の唇の動きを見つめる。
「妾の方針に従えぬ者は去って構わぬ。妾に刃を向けぬ限り棄て置いてやる。だが、刃向かう者は……」
影男と透明怪人は、琵琶法師を見て首を竦めた。
「勿論、僕は何処までも首領のお供を致しますよ」
影男は恭しく胸に手を当てる。
「わ、私も……難しいことは解んないけど、今のままでいいです……」
透明怪人はおどおどと仮面を揺らしながら肩を竦めた。
「拙僧は御仏に仕える身。汝が菩薩である限り、我が信仰に揺るぎは無い」
一寸法師は閉ざした目を前に向けたままそう答えた。
三人の意思を確認し、黒い魔女は立ち上がった。
「これより、帝国評議会を敵と看做す。『大西洋結社』の犬が入り込んだとの情報もある。心して励め」




