43話 消滅
屋敷の崩壊により、明智香子の手が離れた隙を突いて、霧生男爵は逃げ出した。
向かったのは裏庭。木の覆い繁ったそこには、一人の人物が待っていた。
――影男。
木陰に佇む彼は、霧生男爵の姿を認めると、切れ長の目を細め微笑んだ。
「随分とやられたようだね」
「腕がひとつ消えた程度だ。大勢に変わりは無い」
とは云え、彼の体力も限界だった。熱を孕む激痛が脳を麻痺させ、意識を保つだけでやっとの有り様。
「さっさと……連れ出せ……」
ゼェゼェと息を吐き、霧生男爵は木陰に座り込んだ。
すると、影男は彼から一歩離れた。
「それが、此方も都合が変わってね」
落窪んだ眼が見上げると、影男は冷徹極まる視線を落としている。
「もう一人呼んでいるんだよ」
――その途端、耳を刺す琵琶の音。
弓を放つ刹那の弦に似た空気の振動が脳に届いた瞬間、彼の体は変化を遂げた。
脳が裂け、血管が膨張し、心臓が爆ぜる。
それは筋肉にも影響を及ぼし、彼の肢体はバラバラに四散した。
「…………」
無惨極まる肉片の山から視線を外し、影男は細い目を、少し離れた木陰に座る人物に向けた。
「相変わらず容赦無いね――一寸さん」
呼び掛けられた男は、閉ざされた眼であらぬ方を見る。
「拙僧の役割を果たしたまで。異論があるなら、おまえにも我が琵琶の音を聴かせてやろう」
影男は肩を竦めた。
「遠慮するよ」
――一寸法師。
怪盗同盟屈指の暗殺者である。
「一寸先は闇」の盲目であることから、一寸と名乗る琵琶法師。
彼の魔能は『諸行無常』。彼の琵琶の音は対象者の体液を振動させ、細胞を破壊する。そして、形を保てなくなった肉体は四散するのだ。
影男にとって、絶対に敵に回したくない相手だ。
とは云え、一応は僧侶。無益な殺生はしない。黒い魔女直々の命令が無ければ、彼は動かない。
霧生男爵は警察に尻尾を掴まれた。怪盗同盟、そして魔能の裏の裏までもを知る彼を、生かしておく訳にはいかなかったのだ。
――それと、もうひとつの理由。
彼は黒い魔女を裏切った。
裏切りは死に値する――怪盗同盟の掟だ。
「さて、と。長居は無用だね。帰りも送るよ」
彼の出入りする「影」は、影のある場所になら何処にでも繋がる異空間。一寸法師の送り迎えが今回の役目だった。
だが一寸法師は首を横に振る。
「汝の趣味は沙門には向かぬ」
と立ち上がって琵琶を背負うと、器用に木の根を避けて木立の奥へと消えていった。
「……やれやれ」
と、影男は肩を竦めて屋敷に目を向ける。
――先程の七色の光。魔能を消滅させるものであると、彼には解った。
あの赤毛の子供の能力に違いない。
どういった発動条件かは知らないが、怪盗同盟にとって、脅威以外の何者でも無い。
しかし、霧生男爵の手から彼女が解放されたのは、彼にとって僥倖と云える。霧生男爵は日下部伯爵と強い繋がりのある人物。彼にとって――黒い魔女にとって、これから敵になる人物だったのだから。
……結果として、彼は自分の行為の尻拭いをした形となったのだが、無駄では無かったと思っている。
この屋敷の全容が明るみに出たことで、日下部伯爵の思惑は頓挫した。これで暫くは、彼も勝手なことは出来ないだろう。
だが、赤毛の子供と彼女の庇護者たる怪人ジュークを放置は出来ない。何とか丸め込んで、彼を手元に置けないだろうか……奴が女なら自信はあるのだが。
そう思案に耽っていると、辺りが騒がしくなってきた。警官たちが霧生男爵を探しているのだろう。
「さて、そろそろお暇しようか」
影男はそう云って指を鳴らす。
すると彼の姿は、電球がプツリと消えるように、その場から消え去った。
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文代の治療を受け、明智香子は部屋着を羽織った。
「ご無理だけはなさらぬよう、婆やの寿命が縮まります」
「ごめんなさい……」
部屋を後にする文代をベッドから見送り、香子は天井に目を向ける。
……猛烈なアドレナリンが出ていたとは云え、あれは流石にやり過ぎた。霧生男爵を見失った途端、痛みと貧血で動けなくなってしまったのだ。
一方、遠藤透也も文代の治療で一命は取り留めた。
中村警部に頼み込み、香子が全責任を持つと説得し、彼を屋敷に引き取った。今は客間で眠っている。
彼から離れようとしないニコラと、奇妙なヤモリもついて来た……ニコラのお供の鉄の球も。
ニコラは錯乱していたとはいえ、彼を撃ったのが相当ショックなようで、今もずっと、彼の手を握っている。
それにしても、想定以上の大事件だった。
霧生男爵の屋敷の土蔵からは、一階二階と地下を合わせて、百名を超える男たちが発見された。彼らは全員眠らされており、屋敷に入った時からの記憶が無いと証言した。
霧生男爵が彼らを集めた目的――。
同じく怪盗同盟幹部であり、日下部伯爵とも関わりのある人形使いの手口と合わせれば、彼らを自在に操れる手駒として利用する為、という目的が見えてくる。
霧生男爵、人形使い、そして日下部伯爵……。
彼らが何か大事を企んでいたのは明白だ。
しかし霧生男爵の死により、その繋がりは途絶えてしまった。それが香子には何よりも悔やまれる。
それに……と、香子は中村警部に聞いた、彼の遺体の状況を思い出して口に手を当てた。
あれ間違いなく、魔能による犯行。
それも、十年前、日下部伯爵と覇権を争っていた篠崎壮二議員の殺され方に酷似しているのだ。
闇に包まれた犯罪組織『怪盗同盟』。その中に、暗殺を専門とする魔能使いがいても不思議はない。この先、黒い魔女を追う上で、非常に危険な存在である。
気を引き締めて掛からねば、あの姿は明日の我が身になるだろう。
……でも。
遠藤透也、彼が死なずに済んだのは、何よりも嬉しい。
「――お嬢様、失礼して宜しいでしょうか?」
扉がノックされ、香子は慌ててベッドに起き上がった。
「だ、大丈夫よ……入りなさい」
小林執事だ。彼は相変わらず丁寧に一礼し、ベッドの傍らに立った。
「お嬢様がご無事で心より安堵いたしました」
「ありがとう……ごめんなさい、勝手なことをして」
「私めの配慮が足りなかったのでございます。謝るべきは私めにございます」
そう云うと、小林は温かな眼差しを香子に向けた。
「お嬢様のお望みならば、私めは全てをお話しする所存でございましたが、お嬢様がお望みでないのならば、私めは墓まで持っていく覚悟にございます」
「…………」
「私めは心に決めました。私めは命ある限り、お嬢様にお尽くし致します。お嬢様は望むがまま、前にお進みくださいませ。不肖この老いぼれの全身全霊を以て、お嬢様をお護り致します」
小林はそう云うと、柔らかに洗い上げたタオルを香子に手渡し、一礼して退出した。
それを見下ろす香子の視界が滲む。
……香子の全てを理解してくれる人がこんなに近くに居るのに、自分の幸せを考えないなんて、甘えでしかない。
香子はタオルで涙を拭く。
少しだけ夢を見てしまった。立場が真逆なのを知りながら、彼の輝くように真っ直ぐな気持ちに惹かれてしまった。
けれどそれは、決して彼女に向けられてはいかなかった。
あの赤毛の女の子。
どんな関係だか、彼女に知る由もない。けれど、あの子がじっと彼に寄り添っているのを見て、間に入れないと悟った。
「…………」
同じ屋根の下に居ても、顔も見られない。彼を助けられたのが、こんなに嬉しいのに――!
タオルで押し殺した慟哭は、香子を眠りに導く。
そして、カーテンの隙間から朝日が差し込む頃、慌ただしい足音が彼女を覚醒に導いた。
「お嬢様――お客人お二人が、お見えになりません」
小林の声が、泣き腫らした顔を上げさせた。
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【一寸法師】
職業・琵琶法師
能力・諸行無常
(琵琶の音の発する振動で細胞を破壊)
趣味・琵琶の演奏
好きなもの・平家物語
嫌いなもの・卑猥なもの
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