40話 死神
ハンカチで口を押さえ、香子は玄関に駆け込んだ。未だ此処まで火の手は来ていないが、煙が充満している。
「桐生男爵……」
と呼ぼうとするが、咳き込んで声が出ない。
煙の奥の気配を探る。すると少し先で床が軋む音がした。
「…………」
視界が悪く、痩せた紳士の姿は見えない。
少し迷ったが、香子は探しに行くことにした。
身を低くして廊下を進む。突き当たりを右に、そして左へ。
幼い頃の記憶を頼りに奥へと踏み入る。広い屋敷だ。火元から離れるに従い煙も少なくなってくる。しかし、火の手が広がれば此処も危うい。早く桐生男爵を探し出し、連れ出さなければならない。
追い詰められた桐生男爵は死ぬ気なのだろう。
しかし、それだけは許してはならない。怪盗同盟と日下部伯爵との繋がりを知ると思われる重要人物。彼の証言が今後の捜査を大きく進展させるに違いない――香子の魔能の解明も。
それに、怪人ジューク……遠藤透也も此処に来ている筈だ。もし窮地に陥っているのなら、二度も助けられている以上、彼を助ける責務がある。
淡い期待を込めて屋敷の奥へと進む。
しかし、桐生男爵にも遠藤透也にも会うことなく、香子は見覚えのある部屋に出た。
――壁一面にボトルキャッスルが並べられた部屋。
幼い頃に見た光景と同じだ。
ただ違うのは、テーブルに、壁から外されたと思わしき瓶が三つ置かれ、その近くに瓶の破片が散乱していること。
そして、テーブルの傍らの椅子に、ドレスを着た赤毛の《《女の子》》が眠っている……彼が探していた「ニコラ」に違いない。
「女の子……?」
一瞬戸惑うも、香子は駆け寄り頬を擦った。
「ねえ、起きて。もう大丈夫、迎えに来たわ」
しかしニコラはぐったりと椅子に身を預けたまま目を開かない。
「…………」
香子はどうしたものかと考え、顔を上げた。
そこに、桐生男爵が立っていた。
全く気配を感じなかった。悲鳴を上げそうになるのを抑え、香子は何とか呼吸を整える。
「……桐生男爵、お久しぶりです。覚えておいででしょうか、明智子爵の娘の香子です」
「覚えているとも、忘れる筈がない」
桐生男爵は落窪んだ眼をじっと彼女に向けている。不健康な顔色は相変わらずだが、香子はその時、彼の中に一種異様な生命力のようなものを感じ、ギョッと立ち竦んだ。
それを察せられまいと、香子は殊更明るい声を出す。
「覚えていてくださり光栄です。相変わらず素晴らしいボトルキャッスルの数々ですわね。ですが、お屋敷が火事になっています。一番のお気に入りをお持ちになって、お屋敷の外へ出ましょう」
その時、香子は気付いた。彼の両手には既にひとつ、ボトルキャッスルが抱えられている。まるで眠り姫の御伽噺に出てくるようなその城は、桐生男爵の陰鬱な表情と余りにも似合わない。
しかし、今はそれを指摘する時では無い。香子は桐生男爵を促す。
「素敵なお城ですわね。外でよく拝見させて頂きます……さあ、行きましょう」
すると彼はそれを香子に差し出した。
「これは君に預けよう」
「はぁ……」
渡されるまま両手で受け取り、香子は戸惑い顔を桐生男爵に向けた。
――するとそこに、銃口があった。
「…………え?」
目を見開く香子に、桐生男爵は静かに云った。
「君の魔能は知っている。一息に仕留めなければ、こちらの命が無い」
「…………」
「その為には、邪魔が入るのは避けたい。それには、君に常にくっ付いているあの執事と君を離さねばならない。そこで私は屋敷に火を放った。君は私を追いたい。しかし、執事が知れば止められる。だから君は、執事の目を逸らして一人で来た」
ぐうの音も出ない。香子は唇を噛むしかない。
「君に避けられても困る。致命傷を免れられてはならないからね、君の魔能を防ぐ為――あぁ、その瓶の中身を伝えておこう」
ここで桐生男爵は初めて笑みを浮かべた。
「眠り姫の魂と、彼女を連れ戻そうと私の霧に飛び込んできた愚かな蝿だ」
香子は息を呑む。その様子を愉しむかのように、桐生男爵はフフッと喉を鳴らした。
「君なら理解していると思うが、瓶を落とせば二人は死ぬ。粗雑に扱えば只では済むまい。両手を塞がれては、上着に隠した拳銃も抜けまい。君に私の銃弾を避ける術はない」
銃口が香子の額に触れる。冷たい感触が彼女の血流を凍り付かせた。
「君は余計なことをし過ぎた。日下部閣下もご納得くださる筈。お国の為と諦めたまえ」
……何処かで信じたい気持ちを棄てられなかった。昨日の中村警部の話は不運な勘違いで、本人の口から堂々と、否定の言葉を聞きたかった。
だから無防備に、彼の前へ姿を出した……それが裏目に出た。
「そんなの……警察が赦さないわ」
絶望と怒りを込めた視線を、銃口の先の濁った瞳に向ける。
すると桐生男爵は声を上げて嗤った。
「警察など、閣下の一存でどうにでもなる。それとも、助けを期待しているのか? ならば諦めることだ。突入した警官隊は、霧の迷宮で彷徨っている……この屋敷を覆う、霧の幻影の中で」
――万事休す。
香子は震える目を、ギラつく死神の眼に向けるしか無かった。
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「……解ったよ」
磔にされた肢体を脱力させた透也がそう答えると、リュウは目を見開いた。
「透也、正気でアリマスか!」
「あぁ。俺は此処でニコラと暮らす」
「透也の時間の方が早く過ぎるでアリマス! 透也は……」
「体の大きさからして、元からすれば蟻か蚤程度の寿命だろう。それでもニコラが納得するなら、俺はそれでいい」
するとニコラは目を輝かせた。
「透也! ニコラ嬉しい。いっぱい遊ぼう! お絵描きに、お人形遊びに……」
「ずっと無理してたんだな、本当の自分を出せなくて」
透也は穏やかな目をニコラに向ける。
「故郷から連れ出されて、知らない場所に連れて行かれて、知らない奴に付き合わされて。何もかも自分の思い通りにならなくて、でもそれを云えなくて。寂しいのも、悲しいのも、辛いのも我慢して明るく振舞って。ずっと仮面に閉じ籠って、自分を誤魔化してたんだろ」
「…………」
「俺と一緒の時だって、本当の自分は出せちゃいない……本当の自分がどんな風だか、忘れちまったから。ごめんな、気付けなくて」
ラムネ瓶のように透き通った瞳が揺れる。透也は続けた。
「本当の自分を思い出したくて、幸せな記憶を繋ぎ合わせたんだな。それがこの城なら、俺は見たい。ニコラが本当の自分を思い出すまで、俺は付き合うぜ」
リュウはキョトンと透也を眺める。その横でステラはじっとニコラを見ている。
「けどさ、このままじゃ、城の見物も出来ねえじゃねえか。そろそろ解いてくれてもいいだろ。明るい部屋で、ニコラの大切なものを見せてくれよ」
そばかすの目立つ頬を涙が伝う。それを不器用に袖で拭った後、ニコラは晴れやかな表情をしていた。
「うん。透也に全部見せる」
……すると、茨の蔓が引っ込んでいく。スルスルと壁を床を這い、窓から出口から消えていく。
透也を繋いでいた蔓も消えて無くなった。手首を軽く振って怪我のないことを確認すると、透也はニコラに微笑んだ。
「じゃあ、行こうぜ」
差し出された黒い手袋に覆われた手を、小さな手が握った。




