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東京ファントムウォーズ  作者: 山岸マロニィ
<肆>──幻影ラビリンス
41/97

40話 死神

 ハンカチで口を押さえ、香子は玄関に駆け込んだ。未だ此処まで火の手は来ていないが、煙が充満している。

「桐生男爵……」

 と呼ぼうとするが、咳き込んで声が出ない。


 煙の奥の気配を探る。すると少し先で床が軋む音がした。

「…………」

 視界が悪く、痩せた紳士の姿は見えない。 

 少し迷ったが、香子は探しに行くことにした。


 身を低くして廊下を進む。突き当たりを右に、そして左へ。

 幼い頃の記憶を頼りに奥へと踏み入る。広い屋敷だ。火元から離れるに従い煙も少なくなってくる。しかし、火の手が広がれば此処も危うい。早く桐生男爵を探し出し、連れ出さなければならない。


 追い詰められた桐生男爵は死ぬ気なのだろう。

 しかし、それだけは許してはならない。怪盗同盟と日下部伯爵との繋がりを知ると思われる重要人物。彼の証言が今後の捜査を大きく進展させるに違いない――香子の魔能の解明も。

 それに、怪人ジューク……遠藤透也も此処に来ている筈だ。もし窮地に陥っているのなら、二度も助けられている以上、彼を助ける責務がある。


 淡い期待を込めて屋敷の奥へと進む。

 しかし、桐生男爵にも遠藤透也にも会うことなく、香子は見覚えのある部屋に出た。

 ――壁一面にボトルキャッスルが並べられた部屋。

 幼い頃に見た光景と同じだ。

 ただ違うのは、テーブルに、壁から外されたと思わしき瓶が三つ置かれ、その近くに瓶の破片が散乱していること。

 そして、テーブルの傍らの椅子に、ドレスを着た赤毛の《《女の子》》が眠っている……彼が探していた「ニコラ」に違いない。


「女の子……?」

 一瞬戸惑うも、香子は駆け寄り頬を擦った。

「ねえ、起きて。もう大丈夫、迎えに来たわ」

 しかしニコラはぐったりと椅子に身を預けたまま目を開かない。

「…………」

 香子はどうしたものかと考え、顔を上げた。


 そこに、桐生男爵が立っていた。

 全く気配を感じなかった。悲鳴を上げそうになるのを抑え、香子は何とか呼吸を整える。

「……桐生男爵、お久しぶりです。覚えておいででしょうか、明智子爵の娘の香子です」

「覚えているとも、忘れる筈がない」

 桐生男爵は落窪んだ眼をじっと彼女に向けている。不健康な顔色は相変わらずだが、香子はその時、彼の中に一種異様な生命力のようなものを感じ、ギョッと立ち竦んだ。

 それを察せられまいと、香子は殊更明るい声を出す。

「覚えていてくださり光栄です。相変わらず素晴らしいボトルキャッスルの数々ですわね。ですが、お屋敷が火事になっています。一番のお気に入りをお持ちになって、お屋敷の外へ出ましょう」


 その時、香子は気付いた。彼の両手には既にひとつ、ボトルキャッスルが抱えられている。まるで眠り姫の御伽噺に出てくるようなその城は、桐生男爵の陰鬱な表情と余りにも似合わない。

 しかし、今はそれを指摘する時では無い。香子は桐生男爵を促す。

「素敵なお城ですわね。外でよく拝見させて頂きます……さあ、行きましょう」

 すると彼はそれを香子に差し出した。

「これは君に預けよう」

「はぁ……」

 渡されるまま両手で受け取り、香子は戸惑い顔を桐生男爵に向けた。


 ――するとそこに、銃口があった。


「…………え?」

 目を見開く香子に、桐生男爵は静かに云った。

「君の魔能は知っている。一息に仕留めなければ、こちらの命が無い」

「…………」

「その為には、邪魔が入るのは避けたい。それには、君に常にくっ付いているあの執事と君を離さねばならない。そこで私は屋敷に火を放った。君は私を追いたい。しかし、執事が知れば止められる。だから君は、執事の目を逸らして一人で来た」


 ぐうの音も出ない。香子は唇を噛むしかない。


「君に避けられても困る。致命傷を免れられてはならないからね、君の魔能を防ぐ為――あぁ、その瓶の中身を伝えておこう」

 ここで桐生男爵は初めて笑みを浮かべた。


「眠り姫の魂と、彼女を連れ戻そうと私の霧に飛び込んできた愚かな蝿だ」


 香子は息を呑む。その様子を愉しむかのように、桐生男爵はフフッと喉を鳴らした。

「君なら理解していると思うが、瓶を落とせば二人は死ぬ。粗雑に扱えば只では済むまい。両手を塞がれては、上着に隠した拳銃も抜けまい。君に私の銃弾を避ける術はない」

 銃口が香子の額に触れる。冷たい感触が彼女の血流を凍り付かせた。

「君は余計なことをし過ぎた。日下部閣下もご納得くださる筈。お国の為と諦めたまえ」


 ……何処かで信じたい気持ちを棄てられなかった。昨日の中村警部の話は不運な勘違いで、本人の口から堂々と、否定の言葉を聞きたかった。

 だから無防備に、彼の前へ姿を出した……それが裏目に出た。


「そんなの……警察が赦さないわ」

 絶望と怒りを込めた視線を、銃口の先の濁った瞳に向ける。

 すると桐生男爵は声を上げて嗤った。

「警察など、閣下の一存でどうにでもなる。それとも、助けを期待しているのか? ならば諦めることだ。突入した警官隊は、霧の迷宮で彷徨っている……この屋敷を覆う、霧の幻影の中で」


 ――万事休す。

 香子は震える目を、ギラつく死神の眼に向けるしか無かった。



 ☩◆◆──⋯──◆◆☩



「……解ったよ」

 磔にされた肢体を脱力させた透也がそう答えると、リュウは目を見開いた。

「透也、正気でアリマスか!」

「あぁ。俺は此処でニコラと暮らす」

「透也の時間の方が早く過ぎるでアリマス! 透也は……」

「体の大きさからして、元からすれば蟻か蚤程度の寿命だろう。それでもニコラが納得するなら、俺はそれでいい」


 するとニコラは目を輝かせた。

「透也! ニコラ嬉しい。いっぱい遊ぼう! お絵描きに、お人形遊びに……」

「ずっと無理してたんだな、本当の自分を出せなくて」

 透也は穏やかな目をニコラに向ける。

「故郷から連れ出されて、知らない場所に連れて行かれて、知らない奴に付き合わされて。何もかも自分の思い通りにならなくて、でもそれを云えなくて。寂しいのも、悲しいのも、辛いのも我慢して明るく振舞って。ずっと仮面に閉じ籠って、自分を誤魔化してたんだろ」

「…………」

「俺と一緒の時だって、本当の自分は出せちゃいない……本当の自分がどんな風だか、忘れちまったから。ごめんな、気付けなくて」


 ラムネ瓶のように透き通った瞳が揺れる。透也は続けた。


「本当の自分を思い出したくて、幸せな記憶を繋ぎ合わせたんだな。それがこの城なら、俺は見たい。ニコラが本当の自分を思い出すまで、俺は付き合うぜ」

 リュウはキョトンと透也を眺める。その横でステラはじっとニコラを見ている。

「けどさ、このままじゃ、城の見物も出来ねえじゃねえか。そろそろ解いてくれてもいいだろ。明るい部屋で、ニコラの大切なものを見せてくれよ」


 そばかすの目立つ頬を涙が伝う。それを不器用に袖で拭った後、ニコラは晴れやかな表情をしていた。

「うん。透也に全部見せる」


 ……すると、茨の蔓が引っ込んでいく。スルスルと壁を床を這い、窓から出口から消えていく。

 透也を繋いでいた蔓も消えて無くなった。手首を軽く振って怪我のないことを確認すると、透也はニコラに微笑んだ。

「じゃあ、行こうぜ」


 差し出された黒い手袋に覆われた手を、小さな手が握った。

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