36話 タイムマシンと青い空
瓦礫を飛び越え、傾いた壁を蹴って屋上へ出る。
「……思い出した。この辺りはスラムの二丁目、幼年学校のあった辺りだ」
透也が云うと、脳内でリュウが答えた。
「そうでアリマス。そこを左に進むと市場があって、真っ直ぐ抜けると病院でアリマス」
「了解」
走りながら、透也はワイヤーガンを発射する。幼年学校の廃墟の屋根から、市場の中ほどに立つ鉄塔を狙う。そこを支点に身を踊らせ、一気に市場を飛び抜けた。
回転しながら病院に着地。その勢いのまま屋上を駆け、スラムの街並みにダイブすれば、気持ちもあの頃に戻っていく。
博士の研究所はスラム街の外れ。小高い丘の、緑に囲まれた場所にあった。夏になると蝉が煩くて、頭が痛くなったっけ。
破壊され尽くした街並みを駆け抜ける。
だがその景色の中に透也の目は、鄙びたパン屋を、頑固親父の工具屋を、安くて不味い食堂を見る。
喧騒が湧き出し、人々が行き交う。
青空を無機質な建物が切り取り、縦横無尽に張り巡らされた電線が不規則な模様を描く。
そんな街で、確かに、透也は生きていた。
その後、透也は小さな森に到着した。
耳鳴りのような蝉時雨の小路を駆け上り辿り着いたのは、粗末な小屋の連なる建物群。
妖怪博士の研究所だ。
合板と錆びたトタンを組み合わせた小屋には蔦が這い、あちらこちらに蜘蛛が巣を張っている。傾いた煙突や配管は、透也もよく修理をしたから強く印象に残っていた。
――妖怪が出そうな研究所。
そんな場所に住む偏屈者だから『妖怪博士』だと、みんなに軽蔑されていた。
透也は思わず、嘗てのように建付けの悪い戸を開いて声を上げた。
「ただいま、博士」
……けれど、返事は無い。当然だ。此処は博士がいなくなった後の研究所なのだから。
戸を抜けると蝉の声が静かになる。薄暗い室内に動くものは無い。造り掛けの機械や部品や工具が散乱し、オイルの匂いが立ち込めていた。
透也は記憶を頼りに奥に進む。工房と研究室を抜けた先が、博士の書斎。
本棚に挟まれる形で壁際に置かれた粗末な机には、おびただしい血痕が染みていた。
「…………」
しかし、透也の目的はこの机ではない。
本棚の一角。博士の論文がファイルされている場所だ。
そのうちの一冊を手に取り、透也は研究所を出た。
目指すは、丘の頂上。
木の根を階段代わりに坂道を登る。すると間もなく木の葉のトンネルが途切れ、一面の青空が目に飛び込んだ。
東京を一望できるその小さな空き地には、錆びたドラム缶が置かれていた。処々鉄板を溶接して補強してある。
――これが、俺たちのタイムマシンだ。
その錆びた鉄肌に鮮やかな緑色の小さな体が張り付いて、透也を見上げていた。
今度の声は、愛嬌のある口先から聞こえた。
「待ってたでアリマス、透也」
☩◆◆──⋯──◆◆☩
登庁した野呂は、息を切らして捜査本部に駆け込んだ。
そして、正面に座る中村警部の机を叩く。
「――――池袋です。池袋に霧生男爵がいます!」
「何だと!?」
中村は目を丸くした。
「確かな情報なんだろうな?」
「うちの母が言ってましたから」
それを聞き、中村は立ち上がった。そして一同に号令を掛ける。
「怪盗同盟幹部の捕縛に向かう! 黒い魔女に最も近しい大物だ。心して掛かれ!」
――連なる車列の中程を行く後部座席。
中村と野呂は並んで座り、緊張した面持ちで前を睨んでいた。
その途中、野呂が中村にボソリと話し掛けた。
「実は、警部にお伝えしていないことがありまして」
「何だ?」
野呂は前を向いたまま答えた。
「僕の父は、篠崎壮二と云います」
その途端、中村は目を剥いた。
「――何だと!?」
「十年前、帝国評議会で日下部伯爵と覇権争いを繰り広げている最中、魔能使いに襲われて死んだ、篠崎壮二です……勿論、認知はされていませんが」
中村は暫く愕然と野呂を見つめた。
「母が高利貸しをしていた当時、部下の借金の肩代わりを申し出た父に、母は惚れたようで。父に諭されて高利貸しを辞めたんですよ。とは云え、愛人未満の関係のまま僕を身篭り、身を引いて……」
「…………」
「でも何時か、僕を父に会わせたいと思っていたようなんです。そんな折に、あの事件が……。それから母は結婚と離婚を何度かしまして、野呂と云うのは最後の継父の苗字です」
中村は漸く息を吐き、腕組みをした。
「それは不幸だったな」
「不幸なんかじゃありません。母は良くしてくれたし、周囲に恵まれて刑事にもなれましたから……お気付きかと思いますが、僕が刑事になったのは、父の仇討ちの為です。父を殺した犯人を捕まえたいのは勿論ですが、それよりも、父を殺した魔能を消し去りたい」
ここで野呂は、決意を込めた目を中村に向けた。
「僕は誰より、魔能を憎んでいます。その気持ちは中村警部にも負けていないと自負しています。まだ未熟で失敗だらけですが、どうか、僕を見捨てないでください」
中村は聞き終わると、野呂の肩をポンと叩いた。
「いいか、刑事の素質で最も重要なのは執念だ。絶対に諦めない気持ちと、絶対に折れない正義心――おまえには、刑事の素質がある」
「警部……」
「素質のある部下は大事にする主義だ。大事にすると云うのは、鍛え上げるという意味だ。これ迄以上にビシバシいくからな、覚悟しておけ」
中村が鬼瓦のような顔を歪めニッと歯を見せた。
野呂もそれに応えて背筋を伸ばす。
「はい! 精進いたします!」
そんな彼らを乗せる車列が池袋に入る。通りを行く人々は、警察車両の隊列に異様な目を向けている。
当然だ。東京特務警察始まって以来の大捕物が始まるのだから。
「……しかし、厭に天気がいいな」
車窓を眺める中村が呟いた。
燦々と明るい青空は底抜けに陽気で、大捕物には似合わない。
「天気がいいと何か不都合があるのでしょうか?」
野呂が尋ねる。すると中村はギロリと振り向いた。
「俺の関わった現場に限ってのことだがな」
「はい……」
「快晴の日に事件が起こると――人が死ぬ」
☩◆◆──⋯──◆◆☩
警察車両より早く、馬車は桐生邸に到着していた。
門前に横付けし、明智香子は馬車を降りる。御者席では、小林執事が心配そうな目を彼女に向けていた。
「お嬢様、お一人で大丈夫でしょうか?」
「心配無いわ。以前、お会いしたことがある御方だもの」
そう云うと、香子は門の前に立つ。
……記憶によると、桐生男爵は独身で、通いの使用人の他は一人暮らしだった。
手入れの様子が見えない庭や外壁を見れば、その使用人すらも近頃は出入りしていないと見える。
香子は未だ半信半疑だった――日下部伯爵の黒い噂も、桐生男爵の正体も。
多少の痛い目を見なければ、中村警部や白梅軒の女将の言葉は六腑に届かない……そう考えた。
誰の助けも借りず、この目で、この耳で、真実を得る。それが香子に与えられた唯一の道だと思った。
錆び付いた門扉を軽く押す。閂のされていない門扉は不協和音を響かせながら奥へと開いた。
「…………」
雑草に侵食されつつある石畳が、木立の奥へと延びている。
遠い記憶が蘇る。桐生男爵はボトルシップの名人で、船だけでなく城やジオラマまでも酒瓶の中に組み立ててしまう。その物珍しい趣味に幼い香子が興味を持ち、日下部伯爵の紹介で彼の作品を見に来たのだ。
しかし幼い香子は、この屋敷を覆う陰鬱な雰囲気が苦手で、見に来たのは一度きり。
森のように鬱蒼とした木立に囲まれた屋敷。此処からは屋根の一部しか見えないが、洋館と大きな土蔵が並んで建っているのが分かる。
……そして今、その景色を霞ませる程の霧が、香子と屋敷の間に立ち込めていた。
それは気象条件としては有り得ない。すっかり日の高くなった晴天に霧が発生する筈がない。
やはり魔能か? とも考えるが、それも香子には腑に落ちない。
『浅草電影館』の件にも霧の怪盗の関与が認められるが、影男以外の魔能の気配はしなかった。
そして今も、この霧に対し、彼女の感覚は魔能を察知していない。
進むべきか。
それとも、留まるべきか。
明智香子はその場に立ち竦んだ。




