33話 苦悩
香子の介抱を家政婦の文代に任せ、小林執事が応接間に戻って来たのは十五分後だった。
「この度は大変な御無礼を……」
と頭を下げる小林を中村は止めた。
「いえ、厳しい話を立て続けにしてしまいましたから、謝るべきはこちらであります」
それから中村は小林と向き合い、事情を訊くことにした。
「失礼ですが、明智家と日下部伯爵とはどのようなご関係で?」
小林執事は左の片眼鏡を光らせ暫く黙っていたが、やがて短く答えた。
「亡き子爵様よりのご関係にございます」
その程度の返答で納得はしないと、中村は黙って小林を見据える。
だが小林も熟練の執事だ。余計なことを云うまいと中村を見返す。
火花を散らす両者の中に入ったのは野呂だ。
「あ、あの……」
と、若い刑事は冷や汗を拭きつつ愛想笑いを浮かべた。
「わ、話題を変えましょう。昨夜、怪人ジュークがこの屋敷を訪れたのは何時頃で?」
すると、少し安堵した表情で小林は答えた。
「昨夜はお嬢様のお気分が優れないご様子でしたので、夜食をお持ちにお部屋に上がりました。それが八時頃かと」
「その時に何か変わった様子は?」
「特に。私めはつい先程まで、そのような者がお嬢様を訪ねて来たとは知りませんでしたので」
「では、先程の明智探偵の話についてです。彼女は『昨夜、怪人ジュークは赤毛の子供を探しに来た』と云っておられましたが、それはつまり、浅草の劇場の一件で、怪人ジュークと赤毛の子供があの現場に居たことをお認めになった、という意味で宜しいですね?」
それには、小林以上に中村が驚愕した。未熟な印象ばかりが先立つ野呂が、此処まで鋭い洞察を見せると思わなかったのだ。
これには小林も降参するしかない。
「……はい、あの御方はお嬢様を影男なる不届き者からお護りくださったので、恩を仇で返す真似は出来ず、嘘を申しました」
ここで漸く中村は息を吐いた。
「その時の状況を、詳しくお聞かせ願えますか?」
☩◆◆──⋯──◆◆☩
香子は間もなく目を覚ましたのだが、起き上がることすら出来ずにいた。
頭の中に情報が錯綜し、呼吸すらままならない。
怪人ジューク――遠藤透也は、目的を達せられずに姿を消した。
そして、これまで全幅の信頼を寄せていた日下部伯爵が、怪盗の黒幕……。
再び過呼吸を起こし布団の中で悶える。
「……ハァ……ハァ……」
すると、文代が飛んで来た。
「お嬢様、ゆっくり息をお吐きください。そう、ゆっくり……」
背中を摩られ息を吐く。暫く呼吸だけに集中していると、漸く気分が落ち着いた。
「ありがとう、文代」
「いえ、お紅茶でもご用意致しましょう」
そう云って扉に向かう文代を、香子は
「待って」
と呼び止めた。
「お願い、訊かせて欲しいの」
「何でございましょう?」
「――私の魔能は、黒い魔女からのものなの?」
文代は硬直した。
「それだけじゃない。貴女と小林の魔能の正体は? ――貴女たちは、何者なの?」
青ざめた老家政婦は、扉に手を掛けたまま立ち尽くした。
やがて文代はゆっくりと香子に向き直り、深々と頭を下げた。
「お嬢様、申し訳ございません。どうかそれだけはお赦しください。只、我々はいつ如何なる時も、お嬢様の味方にございます。それだけは、お心に置いてくださいまし」
☩◆◆──⋯──◆◆☩
中村と野呂が帰った後、小林執事は自室にて思案を巡らせていた。
あの二人が日下部伯爵に疑いを持った一件を、日下部伯爵に報告しないというのは、経済的な援助を受ける明智家にとって、重大な背信行為であるからだ。
しかしそれを伝えるのは同時に、香子への裏切りでもある。
正義を突き詰める為に探偵になった香子はこの先、日下部伯爵の敵となるだろう。香子と小林は一蓮托生。信頼が失われれば、互いの魔能は……互いの存在は、意味の無いものとなる。
「…………」
机に向かい額に手を当てる。
このような状況となったのは、怪人ジュークなるあの若者の所為……。
確か、遠藤透也と手紙に書いてあった。
少々言葉遣いや態度は荒いが、誠実な人柄は行為で解った。勿論、賞金稼ぎなどと云う下賎な生業を選ぶ程だ。立場としては明智家と比べるべくも無い。
とは云え、香子が恋する相手を貶めることは、小林には出来なかった。
幼くして両親を亡くし、心の傷を「正義感」に置き換えて気を張って生きてきた彼女が、あの若者を見る時だけに浮かべる表情……その柔らかな眼差しは、小林の知らないものだ。
嬉しさ半分、嫉妬半分……父親同様に見守ってきた彼にとって、娘の成長を見せつけられているようで、どうしても否定できない。
その彼が失踪したと訊いた香子の心労は察して余りある。幾ら小林が寄り添ったところで、決してあの若者の代わりにはなれない。
そこに畳み掛けた、香子が「あしながおじさん」のように慕っていた日下部伯爵への疑惑……。
日下部伯爵への報告を怠れば、経済支援を打ち切られるだろう。
しかし香子の正義感を裏切ることは、小林にとって余りにも心苦しい。
警察が日下部伯爵と怪盗同盟との繋がりを確信した今、香子にとってどちらの手段が正解なのか。
「果たして、一体どうしたものか……」
小林執事は深く溜息を吐く。
すると扉がノックされた。
「入りなさい」
顔を覗かせたのは文代だ。
「お嬢様はお休みになられました」
「お疲れ様。おまえも今日は休みなさい」
だが文代は出て行こうとしない。少しモジモジと目を泳がせた後、小林にこう云った。
「先程、お嬢様に私たちの魔能のことを訊かれました」
「…………」
「お答え出来ないと申し上げましたが、それで宜しかったのでしょうか?」
小林は返答に詰まる。
今の香子は、とてもそれでは納得しないだろう。
少し考え、小林は答えた。
「明日、私からお嬢様にお話しする。それで良いな?」
「畏まりました」
文代は一礼し、「お休みなさいまし」と部屋に下がった。
――もはや、選択の余地はあるまい。
小林は心を決めた。
日下部伯爵を裏切ることにはなるが、香子に寄り添うと。
その為には、全てを明かすしかない……本当に守らねばならない秘密以外は。
ところが。
翌朝、最初に明智家に響いたのは、悲鳴に近い文代の叫び声だった。
「小林執事! 小林執事!」
息を切らして駆け込んで来た彼女に、身支度を整えたばかりの小林は駆け寄った。
「どうした? 何があった?」
「お、お嬢様が……お嬢様が……」
小林の五臓六腑が凍り付く。
「香子お嬢様が、どうしたのだ?」
すると文代は声を震わせた。
「お嬢様が……お部屋にいらっしゃいません」
☩◆◆──⋯──◆◆☩
その頃、明智香子は愛馬ゴローを駆り、千駄木の急坂を下っていた。
「……確か、この辺りのはず」
ゴローの脚を緩め、辺りを見渡す。
すると、ビルの隙間に隠れるように、色褪せた看板が掛かっていた。
――喫茶 白梅軒。
日下部伯爵、そして小林……彼女を取り巻く庇護を絶たなければ、真実は得られない。
そう考えた香子は居ても立ってもいられなくなり、此処にやって来た。
これ迄の非礼を中村警部に詫び、警察の……いや、中村警部の正義感に全てを託そう。その仲介役を、人の好さそうな野呂なら引き受けてくれるはず。そう考えたのだ。
店先にゴローを繋ぎ、香子は格子の硝子扉の前に立つ。
そして取手に手を掛けた。
――その瞬間。
かつての透也と同じ景色に立っていると意識して、心臓がドクンと鳴る。
「…………」
そこで一呼吸してから、香子は扉を引いた。




