32話 瓶の中
「…………ウヤ……トウヤ……透也」
ペチペチと頬を叩かれ、透也は細く目を開いた。
すると、鮮やかな緑の鼻先が視界に飛び込む。
「……リュウ」
そう呼ぶと、彼は満足げに頬をペロペロと舐めた。
「良かったでアリマス。このまま透也が死んだら、ワガハイ悲しいでアリマス」
「……ありがとな」
透也はリュウを頭に乗せて起き上がる……少しクラクラするが、生きてはいるようだ。
その途端、リュウが息せき切って喋りだした。
「ワガハイに感謝するでアリマス。透也はワガハイが助けたでアリマス」
「何があったんだ?」
「あいつ、透也の首からステラの鍵を盗もうとしたでアリマス。だからワガハイが隠したでアリマス」
「どこに?」
するとリュウは透也の膝に飛び下り、腹を反らせた。
「此処でアリマス」
……飲み込んだのだ。
確かに、外部メモリほどの小片であり、金平糖を十個も飲み込めるリュウの腹には十分に入る。
しかし、透也は厳しい顔をせざるを得ない。
「そんなことをして、リュウまで盗まれたらどうするんだよ」
すると、リュウはケロリと答えた。
「ワガハイの放電を甘く見ないでアリマス」
そう云えば、そんな機能も付いていた。
静電気程度のスタンガンだが、意外と痛い。慣れない人物なら手を出すのは危険と判断するだろう。
「透也が死ねばワガハイは自爆すると云ったでアリマス。鍵を護りたければ解毒剤を寄越せと云ったでアリマス」
「自爆? そんな機能あったか?」
「交渉術でアリマスよ」
流石リュウ。ヤモリの癖に度胸は一流だ。
「だから奴は、透也と一緒にワガハイも閉じ込めたでアリマス」
「何処に?」
「瓶の中に」
――そう云われ、透也は漸く気付いた。
今居る場所。
それは紛れも無く、二十二世紀末で見た、東京の焼け跡に違いない。
遠く聳える、焼け崩れたメガロポリスタワー。
周囲のスラム街は一面の廃墟となり、あちらこちらで煙が燻っている。その煙が地表に漂い、視界を霞ませるのだが、そこに含まれる胸の悪くなるような臭いは、透也の脳裏に染み付いたものだった。
顔の右側を覆う痣が疼く。
「クッ――!!」
その痛みは脳に抜け、全身を硬直させる。耐え切れず、透也は頭を抱えて焼け焦げた地面に伏せた。
「透也、落ち着くでアリマス。これは幻影でアリマス。騙されてはいけないでアリマス」
「…………」
「全部嘘でアリマス。ここは二十世紀初頭でアリマス。こんな戦争は起きていないでアリマス」
彼を見上げ、リュウは必死に声を上げる。
「この世界で魔能を無かったことにすれば、未来の透也は人を殺さずに済むでアリマス」
顔を伏せたまま、透也は呟く。
「それで、俺が何十万人もを殺した事実が消えるのか?」
「…………」
「元の世界の俺は、それで救われるのか?」
リュウは答えない。
ただ透也に寄り添っている。
肩を震わせる透也に、やがてリュウは囁いた。
「そんな辛さを背負うのは、透也ひとりで十分でアリマス。透也は、新しい並行世界の人々を救うんでアリマス。ワガハイは透也にはなれないでアリマスが、透也の一部にはなれるでアリマス」
透也の手がリュウを迎える。そこにリュウが身を預けると、手は彼を包み込み、涙の届く位置に彼を運んだ。
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午前十時、明智家の応接間。
「――彼が、消えた……!?」
明智香子は目を見開き、中村警部に向け身を乗り出した。
「一体どう云うことなの?」
すると中村は、隣に控える部下に促す。
「おまえから説明してくれ」
野呂刑事は徐に、テーブルに一枚のカードを置いた。
「今朝、母が店の扉に挟まれているのを発見しました。恐らく夜中に置かれたものかと」
香子はそれを手に取る。
カードに書かれているのは、別れの言葉だった。
「……今までお世話になりました。これが貴女の手元に届いていると云うことは、自分は目的に失敗したということ。恐らく二度とお目に掛かれませんが、お気遣い無きよう――遠藤透也」
厭な予感を拭えず、香子は震える目を漸く上げた。
「これは……一体……」
「僕も今朝初めて知ったんですが……母が、怪人ジュークの世話をしていたようで」
「えっ……!」
「実を云うと、うちの母、千駄木で喫茶店をしていまして。水商売のようなものなので、警察官という立場上、余り大っぴらにはしてませんでしたが」
「それで?」
「母は薄々気付いていたみたいですが……怪人ジュークというのは律儀な奴でして、大きな仕事の前には、夜中に喫茶店の店先にこの置き手紙をしていたようなのです」
「…………」
「無事に仕事を終えればこの手紙は回収するんで、朝には無くなってるんですが、今朝はそのまま……」
それを訊き、香子は動揺を抑えられなくなった。言葉に詰まり、溢れようとする涙を止められない。慌てて誤魔化そうとするがどうにもならず、両手で顔を覆うしか無かった。
そんな彼女を、中村と野呂は黙って見ていた。
漸く呼吸を整え、香子は言葉を口にするが、声が震えるのは誤魔化せない。
「実は昨夜、彼が私を訪ねて来たの」
「何と……」
「赤毛の子供を探していた。誘拐されたようで。それで私、霧の怪盗の話を……」
それを受け、中村警部が口を挟む。
「実は、明智探偵に云われどうしても気になり、私なりに調べたのですよ。すると……」
と、彼は周囲を確認してから声を低める。
「日下部伯爵と関係の深い人物だと判明しました」
それは香子にとって、心臓を抉る程の衝撃だった。
「日下部……おじさま……」
「貴女の世話になっている御方の悪い噂をお耳に入れるのは憚られましたが、この先避けて通れぬ道と思い、お伝えしました」
「…………」
頭がクラリとして、香子は肘掛けに身を預ける。
「だ、大丈夫ですか? 人を呼びましょうか」
「いいえ……続けてくださる?」
何とか身を持ち直し、香子は蒼白な顔を上げる。
その決意を受け取り、中村警部は姿勢を正した。
「日下部伯爵は帝国評議会の最重鎮。その彼が、『はじまりの怪盗』と繋がっているとなると、たかが賞金稼ぎの怪人ジュークに対し、甲種指名手配し懸賞金まで掛けた理由が解ってきます。日下部伯爵は、怪盗同盟から政治資金を得ていた――いや、政治資金集めの為に怪盗同盟を創設した可能性があります」
明智香子は紙よりも白い顔を中村に向ける。そして不意に、まるで糸が切れたように椅子から崩れ落ちた。




