30話 霧
中村が顔を出すと、女将は相変わらず長煙管を燻らせていた。
「もう閉店だよ」
「珈琲を一杯貰ったらすぐ帰る」
――白梅軒。
長らく刑事畑に暮らす彼は、しばしばこの女将――お梅の世話になりに来る。
ただ彼は、野呂がお梅の息子とは気付いていない。流すべき情報を取捨選択する。それも『情報屋』のプロたる所以だ。
「あいよ」
お梅はカウンターにカップを置く。琥珀色の液体を口に付け、中村はふうと息を吐いた。
「その顔で下戸とはね」
お梅が鼻で嗤う。だが中村は怒りはしない。
野呂よりも、いや上司よりも家族よりも付き合いが長く、何なら「浅草の白梅」と呼ばれていた頃から知っている仲だ。
中村も自嘲で返す。
「近頃の若い奴は、上司に呑みに誘われるのを嫌がるからな。その点、俺はいい上司だ」
「ふうん」
一方、お梅は当然、中村の素性を家族構成に至るまで知っている。息子の上司がどんな男か知った上で、彼女は無表情に長煙管の灰をトンと落とした。
「閉店だっつってんだろ。用があんならさっさと云いな」
お梅に急かされ、中村は珈琲カップをカウンターに戻した。
「――霧の怪盗についてだ」
「…………」
「奴が起こしたと思われる事件の捜査資料を調べたが、全く得体が知れない。何か情報は無いか?」
するとお梅は呆れたような目をした。
「随分昔の話じゃないか」
「今日起きたとあるヤマに奴が出張ってきた可能性がある」
「…………」
「怪盗同盟で何が起きている?」
お梅は再び火皿に刻み煙草を詰める。それを火入れに押し当て、ゆっくりと吸口を唇に当てる。
紫煙と共に、彼女は吐き出した。
「日下部伯爵の飼い犬さ」
「何ッ!?」
中村は目を剥いた。お梅はそんな彼にジロリと目を向ける。
「帝国評議会と怪盗同盟に繋がりがあるってのは、流石に警察でも知ってんだろ」
「…………」
「魔能を与える黒い魔女と、魔能の使い方を教える日下部伯爵、そして霧の魔能使い『霧生男爵』。その三人で怪盗を始めたのさ」
カップの底に残った珈琲の波紋を睨みながら、中村は呟いた。
「はじまりの怪盗、か」
「けど、日下部伯爵は黒い魔女を信用しちゃいない。だから貧乏華族に魔能という餌を与えて飼い犬に仕立て、黒い魔女の傍に置いたんだよ」
その霧生男爵が近頃、怪盗として動いていなかったのは、賞金稼ぎに捕まり、日下部伯爵と黒い魔女との関係が明るみに出るのを防ぐ為、といったところだろう。
その霧生男爵が動き出した――この意味は非常に重い。
中村はお梅に鋭い眼光を向けた。
「怪盗同盟で何が起きている?」
もう一度放たれた質問に、お梅は忠告した。
「此処から先は、迂闊に口走りゃ東京を火の海にしかねない内容さ」
「それを止めるのが、我々警察の仕事だ」
お梅は暫く中村を見下ろしていたが、やがて諦めたように大きく紫煙を吐いた。
「アンタが正義感を持ってンのは知ってるよ。けどね、正義なんてのは星の数ほどあるモンさ。あんたの正義が何処に在るか、私に示してご覧よ――その場所によっちゃ、教えてやってもいい」
☩◆◆──⋯──◆◆☩
遠藤透也は東京駅のドーム屋根に立っていた。
ニコラと暮らしだしたあの日も、こうして東京の景色を観に来た。
あの時は朝、今は夜。
闇が建物の輪郭を隠し、代わりに夜景が地上の星のように瞬いている。
ニコラを失い、二人の住まいすら失った今、透也が進むべきは、前しか無い。
「……なあ、リュウ、知ってるか」
そう問うと、小さな相棒はポケットを出て肩によじ登った。
「何の話でアリマスか?」
「二十二世紀、俺が博士の世話になる前の話」
「東京掃討戦で孤児になったでアリマス」
「そうだ……けど、本当は少し違う」
透也はリュウに穏やかな目を向ける。
「俺は行き倒れたところを博士に助けられた――が、その直前、俺は博士を殺そうとした」
「…………」
「俺はな、ゲリラ側の少年兵だったんだ」
――AMTを抱え、メガロポリスタワーに忍び込む。
同じくゲリラの戦闘員をしていた父母の合図で、それを子供がやっと入れる換気口の奥へと持っていく。
「……バイバイ」
六本脚の戦車が闇の奥底へ消えたのを確認し、父母と共に逃亡。
そして――
火柱に包まれたメガロポリスタワーを振り返っても、まだその頃は、自分のしたことだという認識は無かった――その中に、何十万という人が住んでいることも。
それを理解したのは、銃の扱いを覚え、初めて人を撃った時。
「よくやった」
と父に褒められ、幼い透也は嬉しくなった。
人を殺せば褒めて貰える。自分は誰よりも多くの人を殺した。だから自分は特別で、生きるべき価値がある。
その認識で戦場を駆け巡り、死に瀕した彼に伸べられた手にさえ銃を向けた。
「――だから、博士は俺に約束させた。怪盗を手伝ってもいいが、絶対に人を殺すなと」
「透也……」
「俺は誓ったさ――俺の目の届く処で、人を死なせない」
前髪を掻き上げて素肌に浴びる風が心地好い。透也は紫の義眼を瞼で覆い隠した。
「俺は、生きていていい人間では無いんだ。そんな俺に、生きていていい理由をくれたのが博士なら、生きるべき価値をくれたのがニコラ」
「…………」
「ニコラを失ったら、俺、生きるべき価値を失う気がする……そんな弱い奴なんだよ、俺は」
するとリュウは、スルスルと透也の頭に這い上り、額をペロリと舐めた。
「透也は生きていないといけないでアリマス。ワガハイの金平糖を用意出来るのは透也だけでアリマス。ワガハイはその為に、ずっと透也と一緒にいるでアリマスから」
そんなリュウを指先に移し、透也は鼻先をそっと撫でた。
「進むのは修羅の道だぜ?」
「透也の見てきた景色に比べれば、大したことはないでアリマス」
指先に身を任せるリュウ。彼は透也の「生きるべき価値」には値しない――彼の体の、心の一部なのだ。
そんなリュウに透也は訊く。
「霧の怪盗、か……何処に居るか解るか?」
するとリュウは、くるんと身を翻し透也に尻尾を向けた。
「――迎えに来たでアリマス」
途端に漂いだす霧。
それは爆発的に濃度を増し、すっぽりとドーム屋根を覆い隠した。
――なるほど。
ステラの制御鍵が必要と知り、奪いに来たのだ。
霧の中で、ニコラが手を振る。
「おーい、こっちに来いよ」
透也は挑発するようにニッと口を歪めた――幻影とは、幻影と見抜いてしまえば効果はない。
ベルトの拳銃を抜く。そして銃口をニコラの心臓に向け、引き金を引いた。
発砲音と同時に揺らぐ霧と、ニコラの幻影。
「小手先の幻術など、俺には通用しねえ。さあ、来いよ。さっさとニコラの処に俺を連れて行け」
霧が透也に迫る。漆黒のボディスーツを覆い隠した霧は、やがて一陣の旋風に散らされた。
その後に、彼の姿は無かった。
☩◆◆── <参>──踊る走馬灯【END】──◆◆☩