28話 探偵失格
ガランとした支配人室。
臨時の捜査本部が置かれたその部屋で、明智香子は中村警部と向き合っていた。
「では、怪人ジュークには会っていないと?」
「えぇ。騙されたようです――影男に」
「影男?」
「怪盗同盟の幹部です。やり口が巧妙ですので、指名手配はされていないかも知れません。女性を誑かして利用する、最低な奴ですけど」
すると中村警部はハッとしたように顔を上げた。
「近頃浅草六区で頻発していた、若い女性ばかりの行方不明事件はもしや、そいつの仕業ですか!」
「その事件のことは知らなかったけど、可能性はあると思うわ」
影に誘い込む――それが見方によっては行方不明に見えるかもしれない。そうやって「影縫い」を行い、眷属を集めていたのか……と、香子は影男に差し出された手を思い出しゾクッとした。
「怪人ジューク」としか名を知らないあの男が近くで見ていなければ、危うかったかも知れない。
そんなことを考えているうちに、中村警部は野呂刑事に指示を出す。
「ここに居た女たちの中に、行方不明事件の被害者がいるか調べておけ」
それから彼は再び香子に向き直る。
「その影男というのは、何を目的に貴女を誘い出したのでしょうか?」
「それが解らない。怪盗事件に関わるなという脅迫くらいしか……」
これは正直なところだ。彼女を眷属にすれば警察内部の情報を得られるかも知れないが、関係を絶っている今、効果としては嫌がらせ程度でしかない。
中村警部は腕組みして口をへの字に曲げる。
「その為に、劇場を爆破したと?」
赤毛の子供の存在を明かせない為、屋根の崩落も影男の所為にせざるを得ない。
だがその矛盾を中村警部は見抜いていた。
「そして、自分で崩落させた屋根に潰されたと仰る訳ですね」
「そうなりますわね」
「しかし、おかしいのですよ」
中村警部は身を乗り出す。
「消防に頼んで瓦礫の下を調べたのですが、何も見付かりませんでした」
香子は聞き間違いだと思った。
「……申し訳ございません。もう一度仰って頂けません?」
「ええ、何度でも云います。瓦礫の下からは、男の死骸どころか、不審なものは何も出ませんでした」
香子は絶句した。
「そんな……」
「消防の連中と一緒に私も捜索をしましたから間違いありません」
「しかし、私はこの目で見たのよ、あの男が屋根の下敷きになるのを。あの状況で逃げられる訳がないわ。それに、彼が操っていた女性たちは記憶を失くしている。これは彼が死んだことで彼から自由になったと……」
しかし、中村警部は冷たい目を香子に向けるだけだった。
「貴女、仰ったじゃありませんか。影男という者の能力は異空間へ出入りするのみと」
「…………」
「先程云った行方不明事件もですがね、被害者は皆、失踪している間の記憶を失っているのですよ」
香子は青ざめた。
『影』の内部、もしくは『影縫い』で呼び出された間の記憶が残らないと考えるのが妥当。
つまり、「影男は死んではいない」という事実を突き付けられたのだ。
ならば、彼女が見たのは何だったのか……。
その時、彼女の脳裏にとある事件記事が浮かんだ。特務警察に協力すると決まり、過去の事件を調べていた中にあった。
それは余りにも不可解な事件だった為、記憶に強く残っている。
未だ「魔能」の存在が認知されていない頃。とある屋敷に泥棒が入った。仕事で出張していた屋敷の主人が帰宅、家財道具を一切合切盗み出されているのを発見、警察に通報したのだ。
この事件の奇妙なところは、屋敷が留守でなかったどころか、夫人、夫婦の子供、使用人に至るまで、全員が「泥棒に入られたという認識が無かった」ことだ。
夫人の話によると、通報の前日、予定より早く帰って来た主人が「仕事の都合で急ぎ引越さねばならない、家財道具は本日中に運び出す」と云い、引き連れてきた人足に運ばせたという。
夫人も子供も使用人も身支度を整えて主人の迎えを待っており、惨状を見て激怒した主人に対しても「貴方の指示に従っただけ」と云い張る始末。
そんな事件が、忘れた頃に三件あった。
そしてその何れもが、濃い霧の日に起きていた――。
それだけでも十分に不可解なのだが、香子はもっと奇妙なことに気付いた。
気象台の記録を見ても、事件の起きた三件全てに、濃霧の記載が無いのだ。
もし「霧を発生させ、現実と寸分違わない幻影を見せる」魔能が存在すれば可能な事件だ。彼女はそう思った。
警視庁は「秘密裏に借金を負った家人による狂言」として処理したが、これが魔能によるものならば、怪盗による最初の事件と考えて差し支えない。
そして香子は思い至る。
舞台演出の煙幕。あれが魔能による霧である可能性を……。
影男と「霧の怪盗」の共闘。
それがもし現実となったならば、影男の死は幻影であり、本人はまんまと逃げ果せるのは可能だった――!
魂を抜かれたように愕然とする香子に、中村警部は冷たく云い放った。
「まさか、貴女も『影縫い』なる術に嵌ったのでは?」
「…………え?」
「この際、正直に云わせて貰います」
中村警部は椅子に背を預け腕組みをした。
「今度こそは、正直に全て話してくださると期待していたのですよ」
「…………」
「何故貴女は、そうまでして怪人ジュークを庇おうとなされるのですか?」
「え? 私はそんな……」
香子は言い返せない。
そんな彼女を見下すように、中村警部は立ち上がった。
「期待した私が間違いでした。では、これにて」
「待って!」
香子も立ち上がり声を上げる。
「影男は危険です。これ以上の被害者が出る前に指名手配を。それから、『霧の怪盗』事件を洗い直して……」
「失礼ですが、明智探偵」
中村警部の声は液化窒素に浸した鉄球のように冷徹だった。
「捜査の指揮権は私にあるのですよ」
そう云うと、中村警部は部屋を去った。
☩◆◆──⋯──◆◆☩
屋敷に戻った明智香子は、失意のまま自室に戻った。
部屋着に着替える気力すら無く、彼女はベッドに腰を下ろす。
「私立探偵」という立場など、警察権力を前にすれば吹けば飛ぶ埃のようなものだ。
とはいえ、彼らに魔能を解明するのは不可能に等しい。魔能使いでもない限り、あの特異な能力は理解し得ない。
それを見越して、先日の屋敷襲撃の際は強気に出たのだが、今日の事件で亀裂は決定的となってしまった。
「何してるのよ……私……」
香子は顔を覆って溜息を吐く。
そもそも警察に協力したのは、その組織力を利用し、彼女自身の魔能についての真相を探る為だった。それなのに、その手段を自らの手で断ち切ってしまった。
「怪人ジューク」と云う得体の知れない人物を餌に、中村警部の信頼を得るのが賢いやり方だと解ってはいる。それなのに……。
影男に云われた言葉を思い出す。
「君の想い人はきっと素晴らしい人なんだろう――例えば、義賊みたいに」
自分の心の最も繊細な部分を暴くその言葉が、彼女自身の欺瞞を突き詰めていく。
――探偵失格。
先程から、香子の脳裏をその四文字が埋めている。
すると、ノックがあった。
入って来たのは小林執事。
「食欲がおありでないようでしたので、夜食代わりに焼き菓子と紅茶をお持ちしました」
「ありがとう……でもそんな気分じゃないの、持ち帰って」
「畏まりました」
小林は退がりかけたところで、ゆっくりと振り返った。
「私めは常にお嬢様のお心を信じております。お嬢様を護った、かの御仁の振る舞いは本物と思いました故、不撓不屈でお守り致しました。それだけはお伝えしておきます」
小林はそう云うと、丁寧に一礼して部屋を出た。
「…………」
彼女の忠実な相棒は、彼女の心の揺らぎなどお見通しだ。そして、揺らぎに一筋の光を射す一言をくれる。
自分の判断を疑うことは、彼の判断をも間違ったものだと糾弾すること。
自分を信じる――それが小林との信頼の証でもあるのだ。
「ありがとう、小林」
そう呟き、香子はベッドから立ち上がった。クヨクヨするより、早く寝ること。それが今すべき最上の選択だと思った。
着替えを取りにクローゼットに向かう。
――その途中。
首元に冷たい感触が触れ、香子は立ち止まった。
正面に置かれた鏡台に目を向ける。
そこにあるのは、刃物を喉に押し当てられている彼女と、背後にある黒い影。
癖のある髪で右目を隠すその男は、低い声でこう云った。
「――ニコラをどこにやった?」




