19話 浅草へ行こう
浅草の夜は蠱惑的だ。
看板、幟、雪洞、ネオン――
光と影と狂乱の色彩が、人々を歓楽へと掻き立てる。
「この愉悦こそ、僕の世界」
男は満ちた月に似た色の瞳を細めた。
男は雑踏の中を進む。
有象無象の人波はだが、彼を認めると道を開ける。
神々しいまでの美貌が人の視線を惹き付け、触れてはならないものに対する畏怖を抱かせるのだ。
痩せ型の長身に女物を着流しにし、組紐で滑らかな長髪を束ねる。色白で鼻筋の通った顔立ちは神話に謳われる少年神のように無垢でありながら、切れ長の眼に宿した艶は闇そのもののように底が知れない。
そんな彼に近付く者があった。
先進の洋装に身を包み、クロッシェ帽を目深に被る彼女は、ネオンの光に目が眩んだのかもしれない。
「あっ……!」
男にぶつかりよろめいた拍子に足を挫く。
「痛ッ――」
立ち上がろうとして思うに任せられない彼女は、破れた長靴下を眺めて呆然とした。
そこに、男は手を差し出した。
「大丈夫? ごめんね、僕が余所見をしていた所為で」
柔らかでよく通る声に顔を向けた彼女は固まった。
目の前一尺の距離に、この世のものとは思えない美男子が微笑んでいるのだ。年頃の女なら九割九分、彼女と同じ反応をするだろう。
彼女は男の手に手を置き、夢見心地にこう云った。
「はい……大丈夫です」
「大丈夫じゃないよ。足を挫いてしまったんだろ? 僕に見せて」
男は彼女の足首に触れる。痛みにビクッと身を震わせた彼女に、男は申し訳なさそうに目尻を下げた。
「これは悪いことをしてしまった。少し休んだ方がいい。さあ、こちらに」
「でも……」
「あぁ、歩けないのだね。ならば、僕の背を貸すよ」
「そ、そんな、はしたない」
「ハハッ、ならば……」
男は彼女の背と膝裏に手を回し、軽々と抱き上げる。
「キャッ!」
彼女は悲鳴を上げながらも、恥ずかしさから隠れようと男の首に手を回し、肩に顔を埋めた。
「心配しないで、僕に任せて」
「…………はい」
男はそのまま歩き出した。
衆人の環視を抜け、路地裏に入る。
――そこにあるのは、雪洞やネオンの光から切り離された、影。
漆黒が具現化したかのような空間に、男は躊躇なく踏み入った。
すると、脚が消え、帯が消え、背が消え……
何事も無かったかのような影が残った。
――影男。
影は、彼の領域。
☩◆◆──⋯──◆◆☩
翌朝。
娘の捜索願を出しに来た男は、中村警部に縋り付いた。
「お願いします! 娘を、娘を探してください」
「しかしですな……」
困り果てた中村は、無精髭をゴシゴシと擦る。
「一晩戻っていないだけでしょう。捜索願を出すには時期尚早かと」
「そう仰らず! 確かに娘は、近頃ダンスホールだかカフェーだかという風紀のよろしくない場所に入り浸っていました。ですが、夜には必ず、必ず戻って来ていたのです!」
「はぁ」
「それが、昨夜に限って戻って来ず……ウウッ」
とうとう男は床にへたり込み泣きだした。
「父ひとり娘ひとり……手塩にかけた愛娘です……もし事件に巻き込まれていたらと思うと、私は……私は……ッ!」
仕方なく、中村は折れた。
「解りました。捜索願はお受けいたします。ですから、どうかあちらに……」
朝の警視庁入口ホール。
登庁した職員や行政的な手続きに来た市民たちでごった返している。
こんな処で騒ぎになるのはよろしくないと、中村は空き部屋に彼を案内した。
――そして、その捜索願を『特殊能力を持つ怪盗による連続窃盗事件特務対策本部』略して東京特務警察の本部で、中村は眺めていた。
そこへ部下の野呂刑事がやって来た。
「おはようございます……何をご覧になってるんですか?」
と、野呂は中村の手元を覗き込む。
「捜索願ですか。でもこれ、ウチのヤマじゃないですよね?」
「だと思うか?」
意味深な視線を中村は野呂に送る。
「もし、俺の勘が正しければ、彼女はそろそろ……」
すると、部屋の扉が開き、刑事の一人が駆け込んできた。
「見付かりました! 今朝捜索願を出された娘が、見つかりました!」
――彼女は、浅草六区の交番に座っていた。呆然としてはいるものの、受け答えはしっかりしている。
「はぁ。昨夜は十時前にダンスホールを出て、市電の最終便に乗ろうと急いでいました」
「それから?」
「あの……おかしな話なんですが、そこからの記憶がなくて」
「と云うと?」
「正確には、停車場に向かっていたら此処にいた、という感じです」
「…………?」
中村と野呂は顔を見合わせた。
足首を捻挫しているものの、他に異常が見当たらなかったため、彼女は父親の迎えで帰宅したのだが。
浅草警察署に場所を移し、中村は彼女を発見したという巡査の話を訊いた。
「通報を受けて小官が向かいましたところ、横丁脇の路地裏で、呆けたように座っていました」
「他に人影は?」
「通報者である近所の住人が遠巻きに見ていた以外は、これと云ってありませんでした」
巡査を帰し、二人きりになった部屋で中村は書類を睨む。
すると、堪りかねたように野呂が云った。
「あの、単に酔い潰れていただけではないのでしょうか? 酒による醜態……もしくは、行きずりの男と一晩過ごしたのを恥と考え、嘘を云っているだけでは?」
すると中村は、書類の束を解いて机に並べた。
それを見て、野呂は眉を顰める。
「これは?」
「本庁の市民課で借りた」
「全部、捜索願、ですか」
「しかも、浅草六区で起きた、半日で解決した行方不明事件ばかりだ」
日付を見ると、ここ半年。起こった数は二十件を越す。
「いや、あの、これって行方不明事件と呼べるのでしょうか?」
野呂の疑問は尤もだと、中村も腕組みする。
「いい歳をした娘が一晩帰らなかっただけで捜索願を出しに来る親などそう居ないからな――と云うことは、明らかにされていない行方不明事件はこの数倍に及ぶとも考えられる」
そう云ってから、中村は気まずそうに首筋を掻いた。
「実のところ、私も今朝方、捜索願を出しに来た父親を時期尚早と宥めて帰そうとしたのだ。ところが、いざ書類を提出に行ってみると、似た案件が山とある。これは何か繋がりがあるのではと思ってな」
「確かに……」
野呂は書類に目を通す。
「共通点は、被害者が若い女で、一晩姿を消し、翌朝呆然としているところを発見されている、と……」
「そして、全ての現場が浅草六区だ」
中村は無精髭を撫でる。
「匂わないか?」
「何がですか?」
「――魔能の匂い、だよ」
野呂がゾクッと身を震わせた。
「もしそうだとすると、大変な事件になりそうですね」
「ああ。だが、敵の目的が解らない」
野呂は腕組みして頬を掻く。
「どうするんです? 魔能に詳しい明智探偵とは喧嘩別れしてしまったし……」
「喧嘩別れと云うな! あれはだな……」
中村は云い淀む。
今更、公権力が一介の私立探偵に頭を下げる訳にはいかない。
それに、未だ魔能による事件と決まった訳でもないのだ。
しばし考えた末、中村は云った。
「今捜査したところで、何も出ては来まい。暫くは様子見だ」
☩◆◆──⋯──◆◆☩
「――おーい、朝だぞー、目玉焼きだぞー」
ニコラに叩き起こされ、透也は目を擦りながら梯子を登った。
「…………」
つい深夜まで機械いじりをしてしまった……。
ニコラが一昨日、先日作った金属探知機の改造をしようとして小火を起こし、その後始末をしているうちに、なんやかんやと改造するのが楽しくなってしまったのだ。
大欠伸をしながらテーブルに着く。すると、目玉焼きが差し出された。
「……飯は?」
「無い!」
「…………」
気が向くと朝食の準備をしてくれるのは有り難いが、料理のレパートリーは目玉焼きだけなのだ。
とは云え、やって貰って文句は言えない。透也は箸を持って手を合わせた。
「いただきます」
ニコラと生活しだして一週間。
奔放過ぎて手を焼くところはあるが、彼女なりに「怪人ジューク」の助手という役回りをしようとしている。
一方透也は、賞金稼ぎの仕事は開店休業中だ。
このところ、怪盗出没の気配がない。
もしかしたら、怪盗同盟の幹部であった「人形使い」の死後、彼のポストを争って内紛でも起きているのかも知れない。透也はそう考えていた。
眠気まなこで目玉焼きを頬張る透也の前に、ニコラが座って牛乳を飲む。
川沿いの窓から、晴れ渡った日差しと爽やかな風が入り清々しい。そう云えば、この世界に来てから誰かと向き合って食事をするのは初めてかも知れない。
そんなことを考えつつ目玉焼きを平らげると、ニコラは
「プハーッ」
と牛乳瓶をテーブルに置き、牛乳を口端に付けたまま声を上げた。
「暇だ!」
「…………」
「活動写真が観たい」
「活動写真、ねぇ……」
そういえば、前からそんなことを云っていた気がする。とはいえ、お尋ね者の身。呑気に出掛けている場合では……
「ソーダ水も飲みたい! アイスクリンが乗ったやつ! あと、煉瓦塔に上りたい! 昇降機というのに乗りたい!」
「浅草十二階、かぁ……」
「服も買った! ああいう場所はお洒落して行くんだろ? 透也の分も買ったから」
「へぇ〜……って、へ?」
気付けば、ニコラが着替えている。
フリルの付いたワンピースにアーガイル柄の長靴下。そこにカンカン帽を被れば、いつも機械油で汚れているニコラとは全く別人の……雀斑がチャーミングな青い目の女の子だ。
これは夢だろうか?
目覚めたと思ったら二度寝しているのはよくある。これもきっとそれなのだろう。
なら、話に乗ってみるのも面白そうだ。
……と、数分後には透也は長屋を後にしていた。
下ろしたての三つ揃いに縞のネクタイ。中折れ帽も型崩れしていない。
そんな透也の腕を取り、ニコラがとびきりの笑顔を見せた。
「行くぞ! 出発ぅー」
市電に乗る。座席に並んで揺られながら、何となく透也は訊ねた。
「この服、幾らした?」
「五千円」
「五千円……って、ハア?」
思わず叫んで、透也は慌てて口を押さえる。
「待て、今、五千円と云ったか?」
「うん!」
「五千円って……二十二世紀じゃ端金だけど、今の貨幣価値としたら……」
指折り数え、透也は絶句した。
「どしたの?」
「……今、目が覚めた」
「良かったねー、浅草に着く前で」
ニコラは楽しそうだ。
その姿を見ていると、怒る気は失せた。
「……まあ、いいや」
透也は複雑な思いを視線に込めて車窓を眺めた。
……その市電の屋根の上。
六本脚の奇妙な物体の半円形の頭に、鮮やかな緑色のヤモリが乗っている。
青く縁取られた目を細めて車内の様子を超音波で感知し、立体映像に構築する。それをステラに見せつつ、リュウは溜息を吐いた。
「初デートは前途多難でアリマスね」




