1話 怪人、参上
――それは、到底信じ難い光景だった。
市電も寝静まる、深夜の銀座の国道沿い。
時計台のある百貨店の五階の窓から顔を出した男が、滑らかな混凝土の壁に手を伸ばす。
そしてそのまま壁に張り付き、まるで床を這うかのような動きで、垂直にスルスルと上りだしたのだ。
「ン……ンン……」
男が去った窓の奥では、雁字搦めにされた警備員が藻掻く。芋虫のように身をくねらせながら窓に近寄るも、既に男は屋上の庇に到達していた。
しかし、忍び返しの如く張り出すそこを超えるのは至難の業だ。蝙蝠か、或いは蜘蛛のようにぶら下がらなければ、屋上に逃れることはできまい。
刻は深夜零時過ぎ。通りを歩く人影は無く、白々と闇を切り取る街路灯も七階建ての屋上には届かない。闇に手元を誤れば、一直線に土瀝青の路面に落下するだろう。
悪逆非道の盗賊め、どんな手段で壁を上ったか知らないが、貴様の運命もそこまでだ……と、警備員は男を睨む。
――だが。
男はヒョイと庇の裏に飛び付くと、真っ逆さまに這いだしたのだ。
「…………」
眼を血走らせながら、警備員は口に捩じ込まれた手拭いを噛み締める。
噂には聞いていた。人間業では成し得ない、奇妙な能力を持つ盗賊の存在を。
ある者はガラス窓を水面のようにすり抜け、ある者は怪力で壁ごと粉砕する――そんな異能者が、夜な夜な東京の街を荒らし回っている。
奇妙奇天烈な手口から、警察もお手上げでその正体すら掴めない。
そんな盗賊たちを、新聞は『怪盗』と書き立てた。
三文誌の戯言だと信じていなかったが、まさか、これが怪盗なのか――!
警備員は絶望的な目で闇を見上げた。
そこでふと思い出す。
新聞にはこうも書いてあった。怪盗には多額の懸賞金が掛けられており、近頃は賞金稼ぎが暗躍していると。
いや……とだが警備員は首を横に振った。
こんな化け物を捕まえられる者などいる筈がない。自分が縛られた時など、瞬きよりも短い刹那の出来事。こうして床に転がる今ですら、自分がどうやって捕縛されたのか理解していない。気付いたら、網に掛かったトドのようにされていたのだ。
荒らされた現場を見れば被害のほどは分かる。高級腕時計や金の懐中時計、貴金属など、総額十万円は下らないだろう。
まんまとしてやられた自分はクビ。明日から家族共々路頭に迷う。生意気盛りの子供たちを、せめて高等科に通わせてやりたかった……。
そんな考えを巡らせる先で、盗人の姿は闇に呑み込まれて消えた。屋上へ出たのだろう。
屋上伝いに逃げられれば、警察では手も足も出まい。
「クッ……」
警備員は、窓に伸ばしていた頭をガクリと落とした。
不甲斐ない夫ですまない……情けない父で申し訳ない……と、警備員は心の中で繰り返す。
――と、声がした。
「ギャーーー!!」
ビルの谷間に響く野太い悲鳴。上の方からのようだ。まさか、盗人か?
と、警備員は再び首を伸ばした。
その直後。
目の前にドサッと風呂敷包みが投げ込まれた。
「…………?」
先程、盗人が背負っていたものだ。恐らく、中身は盗まれた時計類だろう。
――その向こうに、影があった。
窓から覗き込む人影。黒い仮面で頭から顔までをすっぽりと覆っており、体に密着した奇妙な服装をしている。
だがそれより、訝しむべきはその場所だ。
ここは五階。
庇もないその場所に、人間が立っていられる筈がない。
「ヴ……」
驚きのあまり唸ると、仮面の人影は云った。
「ごめん、助けられなくて。こいつを警察に届けなくちゃならないんでね」
仮面の人影が立てた親指で示した先にあったのは、網に掛かり吊り下げられた盗人――それが、宙にブランブランと浮いているではないか!
「後はよろしく……じゃ」
仮面はそう云い残し、トンと窓枠を蹴ると宙に舞った。そして、まるで海中を泳ぐ海豚のように、星空へと滑っていく。
……もしや、あれが『怪人ジューク』か――!
警備員は呆気に取られてその行方を目で追うが、怪人は忽ち星影に消える。それからも警備員はしばし、静寂に包まれた窓を眺めていた。
☩◆◆──⋯──◆◆☩
眼下に広がる東京の夜景。
遠藤透也はこの景色が好きだ。ビロードにダイヤを散りばめたような……とまではいかないが、人々の営みを感じられる明かりには、何物にも代え難い美しさがある。
彼が元いた世界――二十二世紀末の東京に、こんな温かな光はなかった。
あったのは、荒廃したスラム街と、天高く聳えるメトロポリスタワーだけ。
それすらも戦火に焼かれた後は、物資ひとつに血で血を洗う無法地帯になった。
そんな未来を変えるためにここに来たはずなのに、穏やかな夜景を眺めていると、目的を忘れそうになる。
それにしても……
と、透也はフルフェイスのヘルメットのゴーグル部分を上にずらし、頭上を見上げた。
「スピードがやたら遅くないか? 高度が下がってるぞ、リュウ」
彼を二本のワイヤーで吊るした上方。
無音でプロペラを回転させるドローンの上から、緑色をしたヤモリの顔が覗き込んだ――透也の相棒のヤモリ型ロボットだ。
「このドローンは一人用でアリマス。二人は無理がアリマス」
「まあ、それもそうか……」
透也はドローンから伸びるもう一本のワイヤー……ではなく、蜘蛛の糸を下方に視線を移す。
そこにあるのは、奇妙な姿勢で唸る男。
自らの魔能の網に絡まって動けない怪盗は、縋るように透也を見上げた。
「痛ェんだよ。な、助けてくれ」
「それは無理な話だ。俺はこれが商売でね」
「金か? 宝石か? 女か? 何でもやる! だから離してくれ」
「そんなモンいらねぇよ」
「なら、何が欲しい?」
「そうだな……」
透也はニヤリと男を見下ろした。
「――『黒い魔女』の居処、とか?」
すると男は、夜闇越しにも分かるほど青ざめた。
「そ、そいつを、どこで……!」
「前に捕まえた怪盗から名だけは聞いた――魔能を分け与え、異能の賊を仕立てる怪盗同盟の女首領」
「…………」
「そいつのところへ俺を案内してくれれば、逃がしてやってもいい」
男は目に見えるほどガクガクと顎を震わせる。
「それは出来ない……それを云えば、殺される」
「ふぅん……そういや前の奴も、締め上げた時そう言ってたな」
「ヒッ……」
男は全身をガタガタと震わせだした。これでは無理だと、透也はドローン上のリュウを見上げた。
「どうする? コイツも締めてみるか」
「コイツは雑魚だから時間の無駄でアリマス」
「誰が雑魚だ?」
その声が背後から聞こえたと気付いた瞬間。
蜘蛛の糸が投網のように透也に襲い掛かった。その罠は確実に、透也の行動範囲を補足している。
絶対に逃げられない状況。
透也を待ち構えていた男は手足を蜘蛛のように開き、ビルの屋上から投網に掛かった獲物に飛び付く。
――が。
強烈な光に目が眩んだ直後、男は宙を漂う蜘蛛の巣に絡め取られて、無様に路地に転がった。
「――――??」
困惑する男は、すぐ横で同じく転がる男に声を掛ける。
「どうなってやがるんだ? 弟よ」
「し、知らねえよ、兄貴」
そんな二人の元に足音が近付く。
足音は二人のすぐ傍で止まり、情けない姿を覗き込んだ。
「下調べもなく賞金稼ぎがやれると思う?」
「…………」
「最初から、もう一人いるのは分かってたよ――指名手配番号・乙八十二、『蜘蛛兄弟』。魔能名『一網打尽』。宝飾専門の魔能怪盗。弟が実行犯で、兄は見張り役。コソコソ隠れてる見張りを探すのが面倒だから、弟というエサで釣ったんだよ」
蜘蛛兄弟は顔を見合わせ、ギリギリと歯軋りをする。
「兄貴がちゃんと見張りをしてねえから!」
「テメェが捕まるようなヘマするからだろうが!」
「そんなんだから雑魚なんだよ」
腕組みをした透也は、ヘルメットの隙間から二人を見下ろす。
「相棒ってのは、何より相手を信頼するモンだろ」
蜘蛛兄弟は黙り込んだ。
そこに、ワイヤーを回収しながらドローンが下りてくる。それを透也の背中のバックパックに収めると、リュウがヘルメットをよじ登った。
「こいつら、どうするでアリマス?」
「運ぶの面倒だから、ここに置いていこう。朝になれば誰か気付くだろ」
透也はそう言うと、蜘蛛の糸の隙間にカードを差し込んだ。
警察各位
指名手配犯『乙八十二』ヲ捕獲セリ
懸賞金三千円ヲ以下口座ニ振リ込マレタシ
怪人ジューク
「……さて、帰るか」
そう云って、透也は大欠伸をする。
「瞬間移動で家まで送ってくれよ、リュウ」
「無理でアリマス。続けては使えないでアリマス」
「ドローンは?」
「バッテリー切れでアリマス」
「しゃあねえな……」
透也は首に巻いた薄地のマントを下ろし、フードを被る――すると、その姿が景色に溶け込むように消えた。
「…………!!」
愕然と周囲を見回す蜘蛛兄弟が、再び彼を見ることは無かった。
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【怪人ジューク】
本名・遠藤透也
年齢・十九
職業・賞金稼ぎ
能力・生死流転
(瞬間移動)
武器・ワイヤーガン、ダガー他色々
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