14話 白梅軒
千駄木の急坂の途中にある寂れた喫茶店。
ベルの付いた格子の硝子扉を開くと、女将が無愛想な声を投げた。
「いらっしゃい……って、アンタか」
「悪ぃな、俺で……ところで、さ……」
透也がそう口にした途端、女将はピシャリと云い放った。
「ツケはこれまでのツケを払ってからだよ」
「そこを何とか!」
「無理」
「この通りッ! 何でもしますから!」
両手を合わせて平服する透也に、女将はギロリと目を向けた。
「幾らツケがあるか解ッてんだろうね」
「あ、いや……」
「ッたく、妙なのに関わったモンだよ……座んな」
ここ白梅軒は、この時代としては珍しい、珈琲を出す店だ。とはいえ、立喰蕎麦屋を改装した店内は古めかしい。
柱や壁に芳しい香りが染み付き、心を落ち着かせる居心地の好い空間なのだが、如何せん女将の愛想が悪いため、客の入りはさっぱりだ。
だが、お尋ね者の透也にとってそれは都合が良かった。
彼女はこの東京で唯一、彼の素性を知る協力者であるから。どうしても困った時は泣き付けば何とかしてくれる、そんな頼れる存在だ……とは云え、この通りの人柄だから、透也としても余り頼りたくはない。
今ではすっかり貫禄が付き、和髪に江戸小紋で睨みを利かせているが、甞ては「浅草の白梅」と称される、東京でも屈指の美人だった……らしい。
そんな彼女を変えたのが、夫の死。
魔能使いに殺されたのだ。
幼い息子を抱えての苦労が、彼女を鬼のように強くした。生活のため喫茶店を開き、言い寄る男共をあしらううちに……と彼女は言い張るが、実のところは裏稼業にあった。
――情報屋。
東京の裏社会の動向は、全て彼女に集まって来ると云っても過言ではない。
帝国評議会の黒い繋がりも、怪盗同盟の内情も、彼女の美貌に惚れた男たちによって、ここ白梅軒に流れ着くのだ。
伝手なく時空転移して行き倒れかけていた透也が彼女に拾われたのは、運命と云うより他に無い。
透也の事情を知った上で、「夫を殺した魔能をこの世から消せるのなら」と、何かと援助をしてくれる。
今住んでいる渋谷川沿いの長屋も、彼女の伝手で安く借りられたし、金に困るとこうして食事をご馳走してくれる……ツケで。
「あいよ」
五つ並んだカウンター席の一番奥、背の高い円椅子に座る透也の前に丼飯がドンと置かれた。
「飯だけ? 何か他にないの?」
「ア?」
お梅に剣呑な目付きで凄まれれば、透也は逆らえない。
「喰わせて頂けて感謝であります!」
と手を合わせて白飯を掻き込んだ。
ステラとリュウは店の隅で戯れている。そこに目付きの悪いハチワレ――飼い猫のタマが乱入し、大乱闘に発展した。
その様子を気にするでもなく、お梅は、透也の横に座るニコラの前にも皿を置く。
「汚ぇガキだね。後で風呂に行きな」
と、透也に向けて十銭を弾いた。片手で彼が受け取ると、お梅は化粧の濃い目元を細める。
「アンタら、何をしたのさ。さっきお巡りが来たよ、モジャモジャ頭の男と赤毛のガキの二人連れが来なかったかって」
透也は箸を止める……警察の反応が早い。中村警部というのはかなり優秀だ。
「それにアンタ、指名手配されたって?」
「意味解らねえよ。怪盗を捕まえて指名手配とか、阿呆臭い」
透也は白飯に醤油を掛けて再び掻き込む。そんな彼を見下ろし、お梅は煙草盆を手繰り寄せた。
「私からするときな臭いね」
「帝国評議会と怪盗同盟が繋がってる、ってやつ?」
煙管に刻み煙草を詰めていたお梅は目を丸くした。
「アンタ、それをどこで?」
「若い刑事。特務警察の」
「特警の? 随分口が軽い莫迦だね……」
そう云うと、お梅は煙草に火を点けた。
「私ャこれでも商売に関しちゃ真面目でね、情報を渡す相手は選んでる。戦争が起きかねないから。裏社会っちゃそう云う処さ。それに、タダで情報は渡さない主義なんだけど、そこまで知ってンなら、アンタには教えてやるよ」
お梅はふぅと長煙管を吹かす。
「『黒い魔女』と繋がってるのは、日下部伯爵さ」
「…………」
透也は唖然と、お梅が吐く紫煙を眺める。
「政治資金集めに怪盗同盟を利用している――と云った方が正しいか」
「真っ黒じゃねえか!」
「大人の世界ったァそんなモンさ。だからアンタに、片っ端から怪盗を捕まえられちゃ困るのさ」
「だから俺を指名手配した……」
「警察なんざ、日下部伯爵の狗に過ぎないッてことさ。これから身の回りに注意するこった……明日くらいには、懸賞金が掛けられる」
「マジか!? 幾ら?」
「十万」
それには透也も目玉をひん剥いた。
「じゅ、十万……ッ!!」
「黒い魔女と同じ。破格の賞金首さ」
お梅はそう云ってギロリと透也を見た。
「アンタのツケ、それで払って貰うって手もあるね」
お梅が云うと冗談に聞こえない。透也は慌ててカウンターの下に隠れた。
するとお梅はトンと煙管の灰を棄てる。
「まだ売りャあしないよ。アンタのツケはせいぜい五百円……十万を越したら考えようかね」
すると。
我関せず食事に集中していたニコラが突然声を上げたから、透也はビクッとした拍子にカウンターの角に頭をぶつけた。
「美味しいよ! この三角の甘いの。なーにこれは?」
「シベリヤだよ。カステイラに羊羹を挟んだやつ」
「オカワリ!」
「よく喰うガキだね……あいよ。牛乳も飲みな」
「ありがとう、お姐さん!」
透也は恨めしい目をカウンターから覗かせる。
「何か、俺と扱い違わねえ?」
「さっき、このお兄さん、お姐さんのことをババアって……」
「ちょ、おま……!」
「このクソガキ!」
……結局、便所掃除とドブさらいをさせられて、白梅軒を出たのは昼下がりだった。
途中、警官を見掛ける度に裏道に逸れ、回り道をする。やはり、怪人ジューク包囲網は敷かれているようだ。
二人して頬かむりでやり過ごし、渋谷の銭湯に入ったのは夕方近く。さすがにここまで追って来てはいないだろうと思いつつ、急いで裸になったのだが……。
ニコラの服を脱がせ、透也は素っ頓狂な声を上げた。
「――――なッ!!」
付いてない。
ということは……
「ん? ニコラ、女の子だよ」
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【お梅】
渾名・浅草の白梅
年齢・秘密
職業・喫茶『白梅軒』店主
裏の顔・名うての情報屋
家族・莫迦息子、猫(タマ)
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