10話 明智家の朝
明智家の朝は早い。
執事の小林は今日の予定を確認してから玄関を掃く。
家政婦の文代は朝食の支度をしながら洗濯の準備をする。
明智香子は馬の世話だ。
飼葉を与え敷き藁を交換。ブラシを丁寧にかけてから敷地内を散歩させる。
馬は手を掛けただけ愛着を持ってくれる。だから人任せにはしない。
芦毛のゴローに鞍を置き身を預ける。ゴローは乗馬向きで、とにかく走るのが好き。
栗毛のロクローは性格が大人しいから馬車に向いている。綱を解けば、勝手にゴローについて来る。
小気味よい馬蹄の音が朝露に濡れる中庭に響く。花壇の草木の葉に溜まった雫が、朝日をキラキラと集めている。
それを蹴散らしながらゴローを駆るこの時間が香子は好きだ。風に魂を預ければ、何もかも忘れられる。
池の周りをゴローの気が済むまで走ってから、香子が向かったのは正門。新聞受けの朝刊を受け取るのも彼女の役割なのだ。
馬を降り、アラベスクの門扉を開いて一旦外に出る。そして新聞受けを覗き込んだ時、彼女は気付いた。
門柱の影に蹲る子供。
丈足らずの薄汚れたシャツに、膝が擦り切れたズボン。乱雑に刈られた赤毛を伏せているから顔は見えないが、外国人だろうか。
そして、膝の上に手毬ほどの大きさの金属の球を乗せていた。
こんな場所にいるところを見ると物乞いだろう。関わらないようにするのが利口かも知れないが、香子にはそれが出来なかった。
困っている者を見捨てない事。それが何よりの正義――恩人である日下部伯爵からよく言われた。
香子は前屈みに子供に顔を近付けた。
「お腹、空いてるの?」
しかし子供は返事をしなかった。微動だにせず、香子に項を見せている。
厭な予感がした――もしかして、行き倒れているのか?
香子は思い切って手を伸ばす。
「ねえ、大丈夫?」
と、肩に触れた――その時。
子供の手がガシッと香子の手首を掴んだのだ。
香子は戸惑った。
「え……?」
子供を見ると、僅かにこちらに顔を向け、膝との隙間から目を覗かせている――ラムネ瓶のように透き通った瞳。
子供はまじまじと香子を見た後、口ずさんだ。
「――Who killed the parson? (誰が神父さまを殺したの?)」
香子は息を呑む。
目を見開いたまま、魅入られたように動けない。
すると、子供が再び呟く。
「You, said the Sparrow, (それはあなたと雀が言った)」
「…………」
香子はよろめく。腕を外し後退ろうとするが、子供は掴んだ手を離さない。
彼女は路地にへたり込み、悲鳴すら上げられなかった。
☩◆◆──⋯──◆◆☩
その頃。
遠藤透也は路面電車の屋根にいた。
――今朝、リュウの画像解析で名刺を検証、明智香子の住所が解ったはいいが……
「画像解析で電池を喰ったでアリマス」
と、リュウが宣った。
「残量は?」
「九十分」
「……九十分!?」
「一時間半後にワガハイはシャットダウンし、データが初期化されるでアリマス」
リュウは二十二世紀末の技術で魔改造されたヤモリ型ロボット。糖分を燃料として動く。
昨日の無駄遣いの所為で、リュウの餌の金平糖すら買えなくなったのだ。市電の運賃などとても出せない。
透也の住む渋谷から明智邸のある麹町はそれほど遠くないとはいえ、九十分以内に明智香子に取り次ぎ紅茶をご馳走にならなければならないとすると心許ない。当然、瞬間移動でリュウに無駄な電力を消費させる訳にはいかない。全てに於いて猶予は無い。
「……仕方ねぇな」
透也は電磁バネブーツに足を突っ込み、継ぎ接ぎだらけの上着を羽織る。革手袋をし、その左腕にワイヤーガンを装着。光学迷彩マントを頭から被った。
昼間にこの装備を使うのは、「怪人ジュークである」とバレるリスクが高いが、そうも云っていられない。移動時間の節約にはこれが最適なのだ。
最後にリュウを胸ポケットに突っ込むと、透也は長屋を飛び出した。
渋谷の街は、通勤通学の人波でごった返していた。光学迷彩で姿を消しているとはいえ、人にぶつかれば意味はない。透也は周囲を見渡し、目星を付けると左手を伸ばした。
ワイヤーガンの銃口から放たれた弾は、発射と同時に三又のフックとなる。強化ワイヤーを導くそれは、一直線に市電のパンタグラフに巻き付く。感電しそうなものだが、二十二世紀の絶縁性能を持つ銃の本体と手袋があれば、この程度の電圧は平気だ。
それと同時に、透也は路地を蹴った。
そして、ワイヤーが銃の内部機構に巻き取られていく勢いに身を任せる。
そして二秒後には、彼は市電の屋根に居た。
光学迷彩のフードを緩めて顔を覗かせると、頬を叩く向かい風が心地好い。光学迷彩生地は通気性がないから、長時間被っていると息苦しくなるのだ。
透也は大きく息を吸った。
彼の顎下からリュウも鼻先を出す。
「無賃乗車でアリマス」
「お尋ね者が今更だ」
そう云いながら、透也の目は別のところを見ていた。並走する山手線の方が早そうだ。
再びワイヤーを放つ。空中で身を翻し飛び移った透也は、先頭車両まで身軽に駆ける。
……そうして、明智邸の前に到着したのが午前八時。とても礼節ある訪問時間ではない。
しかし、リュウに残された時間は六十分を切っていた。行くしかない。
透也は人目の無いことを確認してから光学迷彩マントを脱ぎポケットに納め、ワイヤーガンをベルトに挟んで上着で隠した。
そうすれば、どこから見ても貧しい労働者。とても時空転移者には見えない。
それからアラベスクの門扉の前に立ち声を上げようとした処で、彼は漸く違和感に気づいた。
門扉が細く開いている。
几帳面に整えられた生垣と見比べて、この些細なルーズさがどうにも気になる。
透也は眉を寄せる。
誰かが通る予定があるのなら全開にするだろうし、閉めるならこの状態はない。こんな開け方をする場面があるとすれば、ほんの一瞬外に出る場合……例えば、新聞受けに新聞を取りに行くとか。
透也は門柱に目を移す。そこに据えられた新聞受けから、朝刊がはみ出している。
「…………」
押し掛けるには早いが、朝刊を受け取るには遅過ぎる。これはどういう事だ?
すると、胸ポケットのリュウがモゾモゾと顔を出した。
「馬がいるでアリマス」
云われてアラベスク柄を透かして門の奥を見る。そこでは芦毛と栗毛の馬が仲良く草を食んでいるではないか。
馬がいるのなら尚更。門を開けっ放しにしておくのはおかしい。
「どう思う、リュウ?」
「事件の匂いがするでアリマスね」
透也はじっと馬の向こう――明智邸の様子を伺う。
木造平屋の洋館。庭木に隠されてその全貌は見えないが、馬が自由に歩き回れるほどの敷地から察するに、かなりの広さがありそうだ。淡い水色に塗られた外壁には、白い窓枠が幾つも並んでいる。その窓全てが雨戸で覆われていた。
観音開きの玄関扉は閉ざされているが、大きく配された模様硝子から中を覗けるだろうか。
庭先は整然と整っており、静寂に包まれた中で馬が草を食む音だけがする。
透也は顎に手を当てる。するとリュウも前足を鼻先に当てた。
「行くしかないな」
「事件の匂いがするから仕方ないでアリマス」
上着の襟を正し、透也はそっと門扉の隙間を抜ける。後ろ手に門を閉め、手入れされた庭へと踏み入った。
石畳のエントランスの左右には芝が植えられ、花壇では季節の草花が彩りを添えている。奥には池もあるようで、穏やかな水面に朝日がキラキラと反射する。
その先、玄関前には数段の階段。落ち葉ひとつなく掃き清められているところを見ると、今朝掃除されたばかりだろう。
ということは、異変が起こったのは、つい先程。
透也は水色の壁に背を当て、そっと玄関扉の模様硝子を覗く。だが、何の気配も無い。
「仕方ねえな……」
透也は右目を覆う前髪を耳に掛けた。痣のあるそこにあるのは、義眼。何度か瞬きをして起動させると、虹彩が紫に光りだした。
広範囲サーモグラフィーの反応によると、建物内に人の反応がある。奥まった位置から推察するに、居間だろうか。そこで四人が向き合い、じっと動かないでいるようだ。
念の為、玄関のノブを回してみる。すると呆気なく動いた。
「……どうする?」
透也が訊くと、リュウは答えた。
「ワガハイが偵察に行くでアリマス」
なるほど。いきなり透也がのこのこ入っていって、勘違いだったら不法侵入になりかねない。ただし……
「通信にどこくらい電力がかかる?」
「マイナス十五分でアリマス」
「…………」
残り四十五分、か……だが、致し方無い。
「解った。もし何処かで紅茶道具を見かけたら、まず角砂糖を腹一杯喰え」
「了解でアリマス」
玄関扉を細く開く。その隙間にリュウが身を滑り込ませた。
「…………さて」
勘違いであることを願いつつ、透也は左耳のピアス型通信器をオンにする。するとリュウの視界が共有され、義眼に映し出された。
低い位置からの映像。
なるほど、外観に違わぬ豪邸だ。かといって、毳々しく飾り立てられている訳ではない。床や壁紙はむしろ古めかしく、だが手入れされているため品性がある。
落ち着いた艶のある木の床をリュウは奔る。時折気配を探るように足を止めるが、目的地はまだまだ先だ。無駄に電力を消費させないため、透也はサーモグラフィーで確認した見取図を元にリュウに指示を出す。
「廊下の突き当たりを右だ」
脳波通信だから言葉には出さない。左耳の通信器に念じるだけだ。
すぐさま脳裏に返事が届いた。
「カシコマリでアリマス」
指示通りにリュウが進む。右の義眼に集中し、サーモグラフィーの画像とリュウからの映像を重ねてリュウを導く。
そして二分後、開け放たれた扉に行き着いた。その奥の絨毯敷きの部屋が、四人の人影がある居間だ。透也に軽く緊張が奔る。
リュウは慎重に扉へ進む。そして顔を上げた途端、脳波通信に歓喜の声が届いた。
「紅茶のワゴンでアリマス! 角砂糖のポットも置かれているでアリマス!」
「おし! さっさと喰ってこい」
「しかし、そこに行くまでに問題が……」
リュウがぐるりと部屋を一周するように視線を移す。
そこで室内の状況が分かった。
サーモグラフィーの画像通り、四人の人物が向き合っている。明智香子、初老の執事、家政婦らしき割烹着の老婦人、そして、赤毛の子供。
四人の中央に紅茶のワゴンがあるのだが、最も問題となるのは、その四人の状況だった。
――赤毛の子供がピタリと、部屋の奥の暖炉を背にした明智香子に向かって銃口を向けており、左右に控える執事と家政婦が動けないでいるのだ。
そして、手で押さえる香子の肩に、血の染みが広がっている。
「……角砂糖を取りに行き辛いでアリマス」
「確かにな……」
透也は空を仰ぐ。
リュウが電池切れを起こすまで、残り四十分。
その間に、この膠着状態を解消し、香子を助けなければならない。




