プロ作曲家が作曲AIに3日で飽きてしまった件 ~~クリエイターがAIに駆逐されることはないと僕が思う理由~~
2022年の夏頃、「Midjourney」や「Novel AI」などの画像生成AIが突如現れてから、もうそろそろ2年が経つ。
自分も「仙道企画」という個人企画にて、ボカロ動画の背景にNobel AIを使ったことがきっかけで、今でも各種生成AIはそれなりに触っている。
そして最近、「作曲AI」も台頭してきた。Suno AIとかUdioというやつだ。
早速Suno AIで曲を生成してみると、思ったよりもちゃんとした曲になってびっくりした。
以前のAI生成曲はコード進行や生成メロディーに強い違和感があったが、Suno AIではかなり改善されているし、Udioは細かい作り込みもできる。
面白がって色々と生成してみたのだが……正直、3日もすると飽きてしまった……。
なぜかといえば、「それっぽい曲止まり」だからだ。
ボタンを押すだけで量産される「それっぽい曲」「どこかで聞いたような曲」をずっと聴いていると苦痛にすらなってきた。例えるならば、大して美味しくない料理を無限に出されているような。
新しい技術に対して「すごい!」という気持ちはあるものの、AI生成曲を好んで聞きたい、お金を払いたいとは全く思わなかった。
生成AIの登場によって「クリエイターの仕事がなくなる!」なんて危惧も、SNSなどで少なからず目にした。
だが今回、自身が数十年携わり、プロとして飯を食ってきた分野のAI生成物に触れてみて思った。
「人間のクリエイターがAIに駆逐されることはあり得ない」、と。
その理由や根拠を深く考えるうちに、クリエイティブについて見つめ直す良いきっかけになったので、今回のエッセイではそれを共有というか、語らせていただければと思う。
では早速だが、人間のクリエイターがAIに駆逐されない理由として、自分が考えたのは下記の3点だ。
・理由1 個性の有無
まあはっきり言ってここがかなり大きい。
そもそもAIとは「人工知能」のことだが、人間は知能だけで作品を作るわけではない。これだけで、勘のいい人はピンとくるかもしれない。
まずAIも人間も、既存作品を学習するのは同じだ。そして、学習する「量」に関しては、何億という膨大な作品を学習するAIには、人は絶対に敵わないだろう。
ただし、逆にAIが人間に敵わないもの、AIでは持ち得ないものがある。
「個性」だ。
では人の個性がどうやって形成されるかと問われれば、自分は「出会いと選択」だと思っている。
先ほど書いたように、学習量はAIには絶対に敵わない。
一生で出会える作品数には限りがあるうえ、人には「好き嫌い」がある。
だが、その「限定と偏り」こそが大事なのだ。
つまり人は、何と出会い、そして何を選択して(好んで)きたかという「道筋」がそれぞれ全く違うからこそ、その人だけの個性が生まれ、磨かれ、育っていく。
例えば自分の場合、大雑把に書くと
・幼少期 クラシック、中島みゆきさん(母がよく口ずさんでた)=物悲しさ
・小学生 J-POP、アニメ曲=王道売れ線感
・中学生 ビジュアル系=繊細さと美しさ
・高校生 HR/HM、1980年代洋楽=パワーとキャッチーさ
を主に聞いていた(聞かされていた)が、この「出会いと選択の道筋」は、世界中どころか、これまで生まれた人類の中でたった一人、仙道アリマサだけしか体験していないものだ。
(ちなみに=の右に書いたのはそれぞれのジャンルで学んだメロディー感だ)
だから自分が作るメロディー、作りたいメロディーは自分しか作り得ない。その、自分が作った曲を好きでいてくれる誰かがいる限り、自分が自分の曲を何よりも愛せる限り、AI生成曲のクオリティーがいくら上がろうが正直どうでもいい。
また単に、曲やアーティストを選別しただけではない。
時には人生観が変わるような衝撃を受けもしたし、そして時に、苦しみや痛みを支えられることすらあった。
一つの曲に夢中になり、一週間くらいずっとその曲ばかり聴きまくったこともある。
つまり、思い出や感情や衝動を同時に、この胸に深く刻んでいったのだ。その深ささえ、個性を形作る要因となる。
恥ずかしながら自分は、「死のうと思っていた人が、明日も生きてみようかと思える曲を作りたい」という気持ちが心のどこかにあるのだが、それはきっと「音楽に救われた経験」が何度もあるからだ。そしてそんな気持ちも、曲作りに投影される。
また、創作のための個性は生まれ育った環境だったり、日々の生活によっても形成される。
世界のそれぞれの地域にて、作られる楽器や奏でられるメロディー&リズムが違うのはご存知の通りだ。そしてそれは、人自身にも言える。
自分は郊外で育ったので、のんびりとした空気だったり自然だったりが好きなのだが、こうした面もフレーズや選ぶ音色に反映されたりする。
両親や学校の友達など、出会う人々の影響も多分にある。
クラシックと中島みゆきさんが好きな母の元に生まれたおかげか、マイナー曲を作るのは結構得意だし(実際、採用も多い)、高校生の時に友人が某王者とかHELLOWEENとかをどんどん聴かせてくるのでHR/HMにハマってしまった。
いかがだろうか。こう考えてみると人は、音楽もその他エンタメも、知能だけで作っているのではないのがよくわかるだろう。
それどころか知能なんてのはほんの一部に過ぎず、作者がこれまで見て聞いて感じて刻み歩んできた、「人生そのもの」から生み出している。
つまり創作のための「エンジン」のスペックが、知能だけのAIと人間とでは桁違いなのだ。
もし、ある人の個性の形成つまり、生まれてから今に至るまでの全ての「出会いと選択」を計算で再現しようとしたら、恐らく何億ごときじゃ収まらない、途方もない数字になるはずだ。
というか、現代の技術では不可能だろう。
だったらAIに学習させる側が、自分の好みの作品を選別し学習させていけばいい、つまり個性を作り出せばいい、となるかもしれない。
しかもそもそも「生成」というやり方自体に、人間が生み出すものには勝てない部分があると思うのだ。
・理由2 ディティールが圧倒的に違う
冒頭にAI生成曲は「それっぽい曲止まり」と書いているが、逆に「7割8割はできている」、とも言える。
そもそも、人が作るにせよある程度の「テンプレ」みたいなものは存在している。
ドレミという音階も、テンポや拍子という概念も、コードおよびコード進行も、先駆者たちが作ってくれたものを拝借しているわけだ。
さらには「売れ線コード進行」みたいなものがあるように、多くの人が心地よく感じやすい「ツボ」みたいなのも存在する。
昨今の作曲AIはそこをちゃんと抑えられている。だからこそ「7割8割はできている」と書いたし、その進化に驚いたわけだ。
では人が作るものと何が違うのか、何が差を産むのかといえば、「ディティール」だ。
そして、個性やクオリティーというものはディティールにこそ現れる。そのディティールを徹底的にこだわれるのが、人の手による創作の強みだと思う。
自分が初めて、作曲事務所の面接に行った時のことだ。
当時の全力を尽くしたデモ曲について、向こうの人にハッキリとこう言われた。
「詰め込みが圧倒的に足りない」と。
メロディーももっと細部まで見直す必要がある。光る部分はあるが、いい加減な部分が多すぎると。
ヒット曲の譜割りや音域をちゃんと研究しなさい、と。
アレンジも「スカスカ」と酷評された。
音源もショボいから全部買い直したほうがいいし、もっともっと「自分がやりたいこと」を詰め込みなさい、と。
その後もコテンパンにダメ出しをされて、作り直し再提出してOKをもらえたのだが、結局その事務所は10曲くらい作ってやめてしまった。
だが、クオリティーを上げるきっかけには十分なった。
例えば、ギターはなんでもいいや、アンプはいつものマーシャルでいいや、と適当に録音していたのが、ハムかシングルかはたまたハーフトーンか、アンプは歪みならJCMかレクチファイアーか、クリーンならベースマンかAC30か、なんてことを最〜〜〜低限は考えるようになったのだから。
(全く意味不明な文章ですみません)
こうやって隅々までこだわった作品に、ボタンひとつで数秒で作れるAI生成物が勝るとはどうしても思えない。
ましてやプロの仕事が生成AIに置き換わってしまうなんて、考えられない。
作曲とは別の話になるが、自分は漫画・アニメ好きなのでイラスト生成AIをよく触っていて、趣味として楽しめてはいるものの、細部を見ると「うーん」と思うことがよくある。
初期は「指が変」とよく言われたが、現在ではかなり改善されている(変になる時はあるが)。
ただ、細部までよく見ると破綻していたり、「ここはなぜこうなってるの?」と首を傾げたくなったり。
その点、人の手で描かれた絵には線の一本一本に意思が通っている。
いたずらに書き込みの多いAI絵を見ても、むしろ情報量が多過ぎて苦痛すら感じるが、細部までちゃんと、意図をもって描かれた人の絵は、こだわりや技術に感動したり、「発見する喜び」すら与えてくれる。
では仮に、細部にまでこだわることのできる生成AIができたとしよう。
だがそれでも、AI生成物がメインストリームとなり、人間のクリエイターが用済みになることはないと確信している。
・理由3 人は人が好きだし、人が作ったものが好きだし、人が流す汗に価値を感じる
どんなに素晴らしい作品が生成できたとしても、「AI生成です」と聞くだけで、その価値は1/100、1/1000、あるいはマイナスまで低下する。そんな方は多いんじゃないだろうか。
「へー!」とは思っても、「お金を払いたい」とはならない。
AIと聞いて「なんだ、騙された」と思う方すらいるだろう。映画を見ていて「あ、これCGだな」とわかると未だ、若干萎えるように。
Suno AIの生成曲レベルのものを、身近な人が自力で作ったと聞いたら「すごいじゃん! 頑張ったね!」と褒めたくなる。
だが「AI生成です」と聞けば、「へえ、AIもすごくなったね」で終わりだ。内心ガッカリするだろう。
つまり人は、人が汗を流し、その手によって作られるものに価値を感じ、敬意を覚えるのだ。
この本質は我々が人間である以上、ずっと変わらないのではないだろうか?
将棋の世界において、人がAIに勝てなくなったこと(将棋連盟の羽生善治会長も認めている)を引き合いに出し、クリエイターもそうなるのでは?なんて危惧する方もいるかもだが、「ルール」や「勝ち負け」が明確に存在する将棋と、それらがないクリエイティブの世界では話が全然違うということを忘れてはいけない。
そして将棋の世界でも結局、メインストリームは変わらずに人同士の対戦だ。
やはり人は、人が好きなのだ。
そもそもAIは「おやつ」は食べない。これだけで、人の対戦の方が見ていて楽しい。
おやつなんてくだらないことのようだが、AIが「無駄」「非効率」と判断するようなことにむしろ、人は興味を惹かれたりする。
そこで新たな出会いがあり発見がある。
そんな「面白さ」を人が持ち続ける限り、AI生成物にメインストリームを譲ることは、作者も、消費者も、ないのではないかと思うのだが、いかがだろうか。
以上3点、AIが人間のクリエイターを駆逐することはないと思う理由を、僕個人の意見として述べさせていただいたが、これは決して生成AIを否定するわけではないことを最後に書いておきたい。
冒頭でAI生成曲について、「大して美味しくない料理を量産」と書いたが、たまに「美味しさのカケラ」みたいな部分もあって、それを活かすことはできると思う。ネタ切れ、マンネリ化した時にヒントを探す分には助かるだろう。
つまり自分にとって生成AIはあくまで「補完ツール」だ。
だが、その存在のおかげでこれまでとは違った制作方法ができるかもしれないし、可能性を感じるのも確かだ。
さらには、曲は作れるけど絵は描けない自分が、AI生成によって「それっぽいイラスト」を出力することによって、ボカロ動画に華をそえることができる。
逆に、絵は描けるけど......という人が、AI生成曲をつけて動画にしたことで、もっと人目につきやすくなる(バズる)可能性だってある。
こういった楽しみ方ができるようになったのも事実だし、そこから全く新しいエンタメのジャンルが生まれるかもしれない。
AI生成物でしか摂取できない栄養がある、そんな方もいるだろう(別にそれを悪いとも思わない)。
将棋の話を途中で出したが、藤井聡太七冠(2024年6月下旬時点)が研究に将棋ソフトつまりAIを活用していることは有名だ。
しかし藤井七冠だけではなく、他のプロ棋士のレベルも上がっていることにも注目すべきだ。
人がAIに負けたことでAIを拒絶するのではなく、むしろ活用し、自らのレベルアップに努める。
この将棋界の姿勢には学ぶべきことが多い。
かの小室哲哉氏も、既にAIを仕事に活用しているそうだ。
〜〜小室哲哉、楽曲作成にAI活用「『なるほど、君はこういうふうに書くんだ』って」〜〜
https://www.sanspo.com/article/20240505-RSZH3PK2VFDUXCM2ZFVX53KCS4/
この記事の中で小室氏は、AIが作成した歌詞に対し「中学生みたいな感じ」と称しているが、的確な表現だと思う。
自分が理由1と2で長々と書いたことを、一言にまとめていただいた感すらある(苦笑)。
そして一方では、学生を対象にした音楽制作WEBアプリが登場した。
〜〜GIGAスクール構想に対応した音楽制作Webアプリ、カトカトーンが全国の小学校~高校に無料で提供開始。音源はKORG Gadgetがベースに〜〜
https://www.dtmstation.com/archives/65938.html
生成AIが次々に台頭するこの時代に、自らの手で音楽を制作する環境を提供したことに拍手を送りたい。
やっぱり、試行錯誤して自らの手で作品を作り出すのが一番楽しい。
その楽しさを持ち続ける以上、少なくとも僕自身は、AIに駆逐されることは決してない。
決して、だ。
さてさて長々と書いてしまったが、ここまでのご高覧、誠に感謝の限りだ。
「実際、プロレベルの作曲においてAI生成曲を一部でも使うのはアリなのか?」「クリエイターの本当の敵はAIではなく、実は……」みたいな話も交えたかったのだが、文字数の関係上割愛させていただいた。
だが今回のエッセイがもしご好評なら、そういった話もいずれ書いてみたい。