38.菊永理瑛
「起立、気をつけ、礼」
帰りのホームルームを終わらせ、下校の合図となる号令をかけるのは、一年B組の学級委員長、菊永理瑛。
一斉に騒がしくなる教室の中、理瑛はスクールバッグを手に取り静かに立ち上がる。
そうだ、帰る前にお礼しておかないと……。
窓際の一番後ろの席、頬杖をつきながら外を見下ろす少女の肩を叩く。
「ごめんなさい和歌月さん、掃除当番変わってもらっちゃって……」
「あ、ううん全然気にしないで、ピアノの練習頑張ってね」
理瑛は放課後、明後日にまで迫ったピアノコンクールの予選に向けて、講師と本番を想定した課題曲の最終確認をする予定があった。
「本当にありがとう、じゃあ私先帰るね」
感謝を伝えると急いで教室を後にし、自慢の艶やかな長い髪をなびかせて階段を駆け下りる。
はあ、また甘えちゃった……いくら和歌月さんが優しいからといって、毎回これは良くないよね……。
今度またちゃんとしたお礼をしよう。
そんな反省を胸に靴を履き替え昇降口を出ると、校門の前に車に詳しくない理瑛でも知っている。特徴的な真っ黒の外車が停まっていた。
誰の車だろう……?
車を横目に捉えながら歩いていると、ちょうど理瑛が校門を出たタイミングで車のドアが開かれた。
車の中から颯爽と出てきたのは、胸元の空いた黒いワンピースと顔の半分を覆うほど大きなサングラスを身につけたモデルのように背の高い女性。
その学校には似つかわしくないあまりに派手な姿に、理瑛はつい目を引かれてしまった。
「ちょっとそこのあなた、彩人がどこにいるか知ってるかしら?」
え……私……!? あ、彩人……!?
サングラスで目元を確認することはできないが、視線が私に向いていることは明らかだ。
「た、高比良くんですか……?」
この女性は一体誰なのか。
高比良くんのご家族なのだろうが、母親というには少し若々しすぎるような気がする。
歳の離れたお姉さんかな……?
「なにあなた? 知っているなら早く呼んできてくれる?」
きつい香水の匂いがにじり寄ってくる。
「す、すみません今日は用事がありまして……」
女の圧に負けペコペコと頭を下げていると、すぐに背後から身がすくむような野太い怒号が響いた。
「おい、何してんだよ!」
こ、今度はなに……?
「あら彩人、元気そうで嬉しいわ」
背後から現れた声の主は、高比良くんだった。
「学校には来ないって約束だろ……!」
高比良くんは声にドスをきかせ、鬼気迫る形相で女を詰める。
「何を言っているの? ここは学校の敷地外でしょ?」
「眠たいこと言ってんじゃねえぞ、いいからさっさと車を出せ」
え、高比良くん……? どうしちゃったの……?
初めて見る高比良くんの一面に、理瑛の頭は真っ白になっていた。
「あの私はどうしたら……?」
伺いを立てるように言い合う二人を下から覗き込むと、高比良くんはバツの悪そうな顔をすぐに横に背けた。
「し、失礼します……!」
下を向いたままスクールバッグを両手に抱えて走りだす。
それはピアノの練習のためではなく、いち早くこの空間から逃れるため。
高比良くん……あんな風に怒るんだ……。
もしかしたら私が知らないだけで、反抗期の男の子というのは意外と皆あんなものなのかもしれない。
でもやっぱり……ちょっと怖かったな……。




