3.いらっしゃい
こんなにも緊張してこの駅に降りるのは、二月の入試以来だ。
高校の近くにある高比良くんの家を目指し、いつもの朝とは違う、静かで暖かな改札を抜ける。
制服の人は見当たらないけど、一応西口から出ようかな……。
部活で登校してる同級生に、今の私を見てほしくなかった。
ほんと、こっちの方は何もないなぁ。
通学路から外れた道を選ぶと、すぐに住宅街に入った。
少し歩いたが、目についたのは歩道まで侵食する雑草と、人影がなくて心配な喫茶店くらい。
誰もいないならスキップでもしようかな?
そんな何もないはずの街並みが、故郷のような愛おしさを見せてくる。
ここまでの幸福感は、もう覚えてもいないくらい久しぶりだ。
スマホのマップに示された目的地は着々と近づいているのに、思考回路にエンドルフィンが詰まって何も考えられない。
あれ、大丈夫? もう着くよ? もう着いちゃうよ!?
言うことを聞かない脳みそは、名前も知らない曲のサビだけを馬鹿みたいに何度もループ再生している。
時刻は一時十分。
このマンションの十四階に……高比良くんが……。
気づけば、目的地のマンションに見下ろされていた。
一時半頃に着くと連絡したので、予定よりも二十分早い到着だ。
どうしよう……。
このままマンションに入り、オートロックの前で待機するのはあまりに不審。
かといって、この日差しの中にはもう居たくない。
涼風は手をうちわにして日陰を探し、少し埃臭いマンション内の駐輪場にたどり着いた。
広さもあり、人通りも少なそう。
ここで心の準備をしていれば、時間もすぐにやってくるだろう。
はぁ……やっぱり緊張するな……。
高比良くんのお母さんって、どんな人なのかな……。
とても綺麗な人であることは簡単に想像がつく。
恥ずかしいから、授業参観にお母さん呼ぶのやめようかな?
母の顔を思い浮かべると、自然に緊張もほどけていった。
高比良くんにも、高比良くんの家族にも……嫌われないといいな……。
それからはしばらく、声にならない言葉で挨拶のシミュレーションを繰り返した。
そろそろ時間だ……。
オートロックの前に戻り、シミュレーション通りにインターホンを鳴らす。
いち……よん……ぜろ……なな……呼び出しっと……。
「はーい」
それは、今朝耳にしたばかりの声だった。
「あっあの、安達です……!」
「今開けたよ。待ってるね」
オートロックのドアが、空気も揺らさずに黙って開く。
「ああ、うん……ありがと……」
じっとしていると足が重くなっていくので、弾むような小走りでエントランスを抜け、そのままの勢いでエレベーターに飛び乗った。
本当に大丈夫なのか私……ここまで来たら、さすがにもう引き返せないぞ……。
階数表示と比例するように心拍数が上昇していく。
手汗をスカートで拭って十四階で降りると、気配を消しながら部屋番号を確認してまわった。
あ、ここだ……。
表札は出てないけど、ここが高比良くんの家だ……。
深呼吸で息を整え、震える指でインターホンのボタンを押し込む。
いよいよ、この時が……!
…………あ、あれ?
インターホンはうるさいくらいに鳴り響いた。
なのに、返事がない。
このまま待っていればいいのだろうか。
不安がじわじわと押し寄せる中、もう一度部屋番号を確認しようと片足を半歩後ろに引いた。
その瞬間――背後から、力強く両肩を掴まれた。
「うわああああ!?」
ビクッと身をすくめて、恐る恐る振り向く。
「いらっしゃい、安達さん」
そこには怯える私を見て、嬉しそうに笑う高比良くんが立っていた。