予兆
「これはこれはネイジュ公爵様」
後ろを振り返るとそこは男性が立っていた。
「ハモンド伯爵」
ハモンド伯爵と呼ばれた目の前にやって来た男性は、一言で表すならとても太っていた。
年齢はおよそ四十代。頭髪はかなり薄くなっており、顔には脂が浮かんでいた。
「それが例の生贄ですかな? 随分と見目麗しい令嬢を選んだようですな」
「……」
生贄、という言葉をはっきりと伯爵が口にしたことにより周囲の貴族たちはざわざわと騒ぐ。
ハモンド伯爵は私と目が合うと卑しい笑みを浮かべた。
私はその笑みに思わず恐怖を感じて身を引いた。
「どうせ使い捨てるのなら、婚約破棄した後私の元へ嫁がせて──」
「失礼ですが」
ノエル様はハモンド伯爵の言葉を遮った。
ノエル様は表情こそ笑顔を浮かべているものの、声は固かった。
付き合いは短いけれどノエル様がとても怒っていることが分かった。
「彼女は私の婚約者です。何を仰っているのか分かりません」
「何を言っているのです。生贄については周知の事実ではありませんか!」
ハモンド伯爵は周囲の貴族に確認するかのように大袈裟な身振りを加えて話す。
「やっぱりあれが今回の……」
「借金で脅されたらしいわよ。哀れね……」
貴族は私を見てヒソヒソと話し、哀れみの目を向けてきた。
そうだ。私は生贄。
いずれは婚約破棄される身。
忘れていたわけではなかったけど、改めてそれを再認識させられて私は少し寂しい気持ちになった。
しかし次の瞬間ハモンド伯爵が言った衝撃的な言葉に引き戻されることとなった。
「ですから、婚約破棄した後私のところへ紹介していただきたいのです。どうせ手はつけないのでしょう? ああ、もちろん十分な金は払わせていただきますから」
ハモンド伯爵は当然のように私を売り買いすると言ってのけた。
そして今度はその欲望を隠すことすらせずに私に視線を注いできた。
ハモンド伯爵は私を足先から頭までゆっくりと舐めるように見ると目を細めて舌なめずりをした。
怖い。
私がそう感じた瞬間──。
「ハモンド伯爵」
「どうですか? 私の話を受け入れて──」
「貴方は今、公爵家の婚約者を、金で買うと。そう言いましたね?」
「え? は……?」
「それは公爵家にとって侮辱と受け取ってよろしいでしょうか?」
横に立っているノエル様からただならぬ雰囲気を感じ取って、私はノエル様の方向を向いた。
ノエル様は激怒していた。
そこにはいつも浮かべている笑顔はなく、ただただ怒りを滲ませてハモンド伯爵を睨んでいた。
いつも冷静沈着なノエル様が感情を剥き出して怒っている姿に私はただただ驚いていた。
ハモンド伯爵もノエル様から流れる尋常ではない怒気に気圧されて何も言えない。
広間に嫌な緊張が流れた。
その時。
「やあやあ、これは如何なさいましたか」
その嫌な雰囲気を引き裂くかのように明るい声を出して一人の青年がやってきた。
赤毛で顔が整っており、背が高いその青年は快活そうな笑みを浮かべて近づいてきた。
「ハルト……」
ノエル様が呟いた。
それは先ほど教えられたこのパーティーを開いた主催者である侯爵の名前だった。
ノエル様の話ではノエル様に友好的な人だということなので、ノエル様を助けにきたのだろうか。
「何やら不穏な言葉が聞こえてきましたが、私の夜会で何か問題でも?」
私の夜会、という言葉を強調するのは『私の主催しているパーティーで問題を起こすつもりか?』と牽制するのと、主導権を握るためだろう。
ハモンド伯爵はその狙い通り「ぐ……」と唸って苦し紛れの言い訳を始めた。
「わ、私はただ……」
「ただ、何です?」
「じょ、冗談を言っていただけなのだ! しかし公爵殿がそれを勘違いしたのだ!」
嫌がらせのつもりで言ったはずが大事にされて焦っているのだろう、ハモンド伯爵は冗談を言っていたことにして全てをうやむやにしたいらしい。
「冗談ですか…………他人の婚約者を金で買いたい、というのがですか?」
「なっ!?」
「伯爵。私はずっと聞いてましたが、流石にとても冗談には聞こえませんでしたよ。もし冗談なのだとしたらジョークの講師をつけてあげたいくらいだ。もしくはマナーの講師をね」
クスクス、と周囲から笑いが起こる。
それはハモンド伯爵へ向けた嘲笑でもあった。
それにしても先ほどから聞いていたのをここで言うあたり、性格が悪い。
「ハモンド伯爵。貴方は先ほどから言動が目に余る。失礼ですが品がなさすぎて周囲の顰蹙を買っていることをお気づきになられては?」
あまりにも直接的な言葉に周囲から笑いが起こる。
普通貴族ならもっと婉曲に遠回しな表現をするものだ。
しかしこの侯爵はそんなことはお構いなしに直接的な言葉を使ってしまう。だが本人の雰囲気と相まってそれが許されていた。
「ぐっ……! この……!」
ハモンド伯爵は顔を真っ赤にしてまだ何か言い返そうとしたが、流石に自分よりも上位の貴族二人を相手にする度胸はなかったのか、睨んだまま広間の端の方に消えていった。
ハモンド伯爵がいなくなると、その場も空気も元に戻り、周囲の人間はまた会話を始めた。
私にもまた視線が向けられているのだが、なぜだか先ほどまでの哀れみの視線とは違い、好奇の目を向けられているような気がした。
『あれは本気よ……』
『私もドキドキしちゃった……』
『これからはしっかり観察しないとね』
そんな言葉が聞こえてきたが、私はどういう意味か分からなかった。
本気ってどういう意味でしょう……。
ノエル様は公爵家が侮辱されたから怒っていただけなのに。
「ノエル」
ライレン侯爵は振り返った。
「ごめん、ノエル。俺がしっかり管理しとくべきだった!」
ライレン侯爵は勢いよく頭を下げノエル様に謝った。
「いや、助かりました。私も少々熱くなってしまった」
「確かにそうだ。珍しいね。君ほどの者が平静を乱すなんて。どうしてだい?」
「それは……分かりません」
「へえ……ま、俺には丸わかりだけどね」
ノエル様は自分でも分からないと頭を振り、それに対してライレン侯爵はボソッと呟いた。
そんなライレン侯爵に対してノエル様が怪訝な表情で質問した。
「何か言いましたか?」
「いやいや。それでは俺はまた挨拶に戻るよ」
「ええ」
ライレン侯爵が歩いて行って再び私とノエル様の二人に戻った。
「リナリア」
「はい」
「申し訳ない。あなたを不快な目に遭わせてしまった。私のせいです」
「いえそんな……私は気にしていませんし」
「そうではありません。あなたに不快な思いをさせてしまったのは私のミスです。あのハモンド伯爵は以前父に大きな商談を奪われたことで公爵家に憎しみを抱いているのです。もっと遠ざけておくべきだった……」
ノエル様はわかりやすく落ち込んでいた。
こんな姿を見せるのは初めてで、私は驚いたがすぐにノエル様の言葉を否定する。
「そんなことはありません。ノエル様にも予測なんてできないと思います。それに私はほら、大丈夫です。ノエル様が守ってくださったので」
実際ノエル様が私のことをあの生理的に受け付けない卑しい笑みから守ってくれたおかげで心の傷は浅い。
「それに、たとえ言葉だけだったとしても私のことを婚約者だと言ってくれて、嬉しかったです」
「……」
ノエル様の顔を見て私がとんでもないことを言ったことに気がついた。
「あっ! いえ! 違いますよ! そういう意味ではなくて、守ってもらえたのが分かって嬉しいという意味ですから!」
「ええ、分かっていますよ」
ノエル様はそんな私を見ておかしそうに微笑んだ。
「な、何でそんなに笑うんですか……!」
「いえ……何でもありません」
私はなぜか笑っているノエル様に尋ねるが、ノエル様は答えてくれなかった。
そしてひとしきり笑った後私に帰宅を提案してきた。
「もう潮時ですね。そろそろ帰り──」
ノエル様は私の向こう側を見て目を見開いていた。
「ノエル様?」
「申し訳ありません。今すぐに対処しなければならない問題が発生しました。すぐに戻ってくるのでここで待っていてください」
ノエル様は急に対処しなければならない問題が発生したらしく、私にそう言い残して人垣の中へと消えていった。
残された私は壁に近かったので壁際へと歩いていくと、壁にもたれかかった。
ようやく人の中から抜けた私は疲れと共に息を吐き出す。
そして私が待っていると。
「おい」
振り返るとそこには目を血走らせたハモンド伯爵がいた。




