五十嵐:不甲斐ない
五十嵐は小切手を片手に微笑んでいた。
「よしよし」
「ここで背中に黒いものが見えんのは何でだろうな?」
「ん? 気のせいじゃないのか? 俺はこの金をもっと増やそうとか思っていないぞ?」
本当なのにギンは嘘でぇとぼやいている。トーラは珍しく苦笑している。
「何にせよ、元手は手に入った」
「じゃあよ、飯食いに行こうぜ!」
「宿にしよう」
とたんにギンが元気になった。
宿に戻り、食堂で注文する。
喧騒を無視したギンがわくわくと待つなか、トーラに笑みが浮かばないことに五十嵐は気付いていた。
「トーラ」
「え?」
彼女は肩を揺らして飛び上がる。
「どうした?」
「うん?」
「どこか元気が無いと思った。具合も悪そうだな。元気が無いと思ったのは、俺が手洗いに行った頃から。具合が悪いと思ったのは、店を出た頃から」
「うー……」
分かったのか?
そう呟いたトーラは僅かに顔をしかめる。
「ユーイチは、良いのか?」
「何が?」
「祖国に戻りたく、ないのか?」
彼女の言葉が、強固に閉じた殻の隙間から、吹いてきた風のように思った。
「心配なんだろ? 今だって焦ってるんだろ?」
戻りたい。でも、戻れない。
ああ、焦っているよ。少しでも早く国に戻れるようにと。
「……戻れない」
声は、案外はっきりと食堂に響いた。
「今の俺では、足手まといになる。それが分かっているのに、戻れるか」
もどかしいさ。でもアンヌさんや楓殿、ロナンさん、玖楼殿、彼らと約束した。国を守ると。彼らに頼るしか、彼らの条件を呑むことで国を守るしか。
悔しさで、また涙が滲んだ。
「ちくしょう」
何で泣いているんだ、俺。
不意に、ギンの手が頭に乗った。
「ユーイチ、何で泣いてんだよ」
思っていたことを、言葉にして出してくれる。
「悔しいか? 腹立たしいか? 憎いか? 寂しいか? それとも」
ギンの爛々と輝く赤銅色の目が、少しだけ動いた。
「情けないか?」
情けない。
「ああ、情けないさ。団に配属された。小隊の隊長にも何度もなって、団長に任せられると言われたこともあった。なのに、仲間が死んだのに手も出せなかった! あの人が割って入らなければ、俺だって玲奈だって死んでいた!」
副団長の皮を被った化け物が息の根を止めようと襲い掛かったとき。
手も足も出せなかった!
「丹洪最強の戦闘集団が何だ! 一度も、誰かを守れた例なんて無い!」
村の衆だって。
武士団の仲間だって。
鈴無の当主だって。
あまつさえ、玲奈を傷つけて、
パン。
不意に、横っ面を張られた。
冷ややかなギンの目が、あった。
「聞いて呆れる」
ギンは手を下ろす。
「何をグダグダと悩んでいる。何度も小隊を任せられただろう? 言い換えれば、何度も国を救っていたのだろうが」
「だが大切な人間は、」
「だからそれは」
目が、彼から離れない。
「お前が弱いからだ」
何、を。彼は。
ギンの目は厳しさを増す。
「強くなるしか、大事な者を守れない。救えない。それが今の世の中だ、理だ。知っていただろう? どこかで気付いただろう? だからお前は、槍を手離せないのだろう?」
「俺は」
「強くなれ。人間は、初めは弱い。だが、どこまでも強くなれる。手を休めるな。常に前を向け!」
叱咤に、涙が止まった。
「ギン」
トーラが心配そうに見る。彼は面倒そうに頭をかき混ぜ、元の調子に戻った。
「……正直、オレだって今まさしく逃げてる。でも、逃げてもそのツケは巡ってくる。いつかは追い付かれんだよ、だったらそれまでに準備するしかねーだろ」
今、ちょうどツケは来てんだよ。
そうぼやいた彼は、やっと口を開いた。
「いつからだったか。オレは、浮浪者だった。首都の裏道に這いつくばってな。そこに来た人間の足を掴むんだ。食べ物を恵んで下さい、ってな。足で顔を踏まれたことは数えきれねーほどある。黴を食ったことも二度三度じゃない」
僅かに、トーラが息を呑む。
「オレ以外にもそんな奴はいっぱいいた。そして二、三週間に一度来る黒服の奴らが、オレ達の恐怖の的だった。子供を問答無用で引きずってくんだ。そいつがどうなったのかは、誰も知らねー。
そしてある日。オレも引きずられかけてよ、手ぇ振り払って表通りに逃げたんだ。それで一目散に逃げて、いきなり扉が開いて連れ込まれて、気が付いたらベッドに寝かされてた。それが、じっちゃん……オレの養い親との出会いだ」
「しかし、それを何故今」
「必要だと思ったからだ」
ギンは五十嵐に指を突きつける。
「『灰色の大地に白銀の稲穂が生い茂る方法』じっちゃんから聞いた。これは、隠語なんだよ」
彼は突き付けた指で、服を摘まむ。
「灰色の大地ってのは、汚い服の切れ端で汚れた街。もう少し分かりやすく言うなら、ゴーストタウン、もしくは廃墟だ。次に白銀の稲穂。これは」
次にその指は、頭に。
「オレ達信貴国の民の髪を指す。つまり、民と考えていい」
「待て」
廃墟に民が育つ方法、では意味が分からない。
ギンも五十嵐が理解していないと気付いたのか、面倒そうに頭をかいた。
「……トーラも聞いとけよ。この国には、守り神様がいる。確か虎だったな。その神様に好かれた王の時代は栄え、神様に嫌われた王の時代は廃れた。これが民衆の間で広がる言い伝え。だから、戦争や飢餓がよく起きると、民は王が神に嫌われたと騒ぐんだ。そして人間が死ぬと、どこかに廃墟ができる」
廃墟に人が来る方法、ということか。
ならば、国が栄えればいい。
そういうことか。
「では、その方法とは」
ギンは苦笑を浮かべ、答えた。
「王を代えりゃーいい」
王を代えりゃーいい。
そう言ったギンの笑みは、普段と変わらない。それが余計、五十嵐の嫌な予感を増長させた。
「ギン……お前」
「おっと。これはオレの考えでもじっちゃんの考えでも無いからな。あくまで知識。正直オレは王なんざどうでもいいし」
結局、自分の幸せなんざ自分の努力次第だろ?
彼はからりと笑い、場の緊張を解く。トーラが強張らせていた肩から力を抜いた。
「物騒なこと言うんじゃねー!」
「だってよ。酒屋でいきなり言われてみろよ、ビビるじゃねーか! しかもユーイチは意味分かって無かったしよ、教えて注意するべき、だろ!?」
「でも、こんな食堂で言わなくても」
ブチブチと不満を溢すトーラを無視して、ギンは五十嵐に笑いかけた。
「ま、ぐちゃぐちゃ言ったけどよ、結局は腹ァ決めるしかねーんだ。のんびりやろうぜ」
五十嵐は口を開いて、
「手ェ挙げろ」
「!?」
食堂に飛び込み何かを乱射した強盗に目を見開いた。
ちょっと横を見ると、ギンもトーラも、素早く両手を挙げていた。