【連載版始めました】冷血公爵様の家で働くことになりまして ~婚約破棄された侯爵令嬢が侍女になるまでの話~
※感想欄でご指摘をいただいたので、侯爵と公爵について変更いたしました。
ぽたぽたと、冷たいものが頭からしたたりおちる。
ツンと香るアルコールの匂い。
お気に入りだった白いドレスに紫色のシミが広がっていくのを、私は呆然と見下ろしていた。
(…………なにが起こっているの?)
王家主催のパーティに出席し、婚約者とダンスを踊る。
今まで何度となく繰り返してきた事なのに、今日はいつもと違っていた。
(私……あぁそうだ、ジャークス様に話しかけようとして……)
ジャークス・ハルクフルグ様は、汚らわしそうな顔で私を見ている。
あれ?
ジャークス様はそんな顔はしないはず。
幼い頃の婚約の挨拶では、穏やかな微笑を浮かべて私のことを抱きしめてくださった。ともにハルクフルグ家を盛り立てて行こうと仰ってくださった。
私は愚図でのろまな女だ。何か失敗するたびに、ジャークス様は困った表情を浮かべて、これからだねと仰ってくださった。
頑張ろう。
この方のために頑張りたい、一生添い遂げていこうと思った。
『俺は大人っぽい女性が好きなんだ』
そう言われたときは、じゃあ今のままじゃダメだと思って、お喋りをやめて、嫌いだった勉強もたくさんした。公爵閣下の妻として恥じない女性になろう、もっと博識になろう、もっと淑やかになろう。
もっともっとを積み重ねた結果が、コレ。
「自分からワインをかぶりにいっておいて、なんて白々しい」
違います。
これはワインをかけられたんです!
そう言おうと思ったけれど、震える唇から何も言葉が出てこない。
昔から人前が苦手だったため、周囲から浴びせられる視線で私の鼓動が早くなる。
「ジャークス様…………あの、その隣にいらっしゃるご令嬢は」
ようやく絞り出せた声は、自分でも笑っちゃうほど震えていて。
周りから「無様ね」と失笑する声も聞こえる。
この場から消え去りたい思いが募ったけれど、腰が抜けて動きそうもない。
「ようやく気付いたか。そうだ、彼女はイースチナ・レイツェット子爵令嬢。俺の新しい婚約者だ」
ジャークス様に、胸を押し当てるようにして腕を絡ませている若い女性。
蜂蜜色の髪が長くふんわりとしていて、目が丸っこく人懐っこそう。
確かに可愛らしい女性だと思ったけれど、ジャークス様の好みとは正反対だと思った。
だってジャークス様は、大人っぽい女性が好きだったはずで……。
「レティシア・ラードハム様でしたっけ?」
「違い、ます。レティシア・ランドハルスです……」
「そうそう、それです。ごめんなさい、私ったら名前を間違えてしまって」
全然悪びれる様子がない。
名前を間違えてしまったのもわざとだろう。
(…………ワインをかけたのはイースチナ様?)
こうなる前は、私はワイングラスを持って歩いていた。
パーティーではワインを飲むのが習慣なのだけれど、強い酒が飲めないので、正直持て余していた。ジャークス様はどこだろう? そう思いながらフラフラしていたら、向こうからイースチナ様がやってきて、すれ違った。
強く腕をぶつけられて、バランスを崩した。
ワインが飛び散り、髪が濡れてドレスが汚れた。
イースチナ様は手を少し濡らしただけだったのに「きゃあ!」と、ことさらに大きな声で悲鳴をあげ、ジャークス様に助けを求めたのだ。
『聞いてくださいませ、ジャークス様。彼女にかけられたんです!』
と。
本当はそんなこと思いたくなかった。
まさかイースチナ様が、そんな事までして私を悪者扱いしたいだなんて。
甘かった。
お子様だった。
他者から憎悪をあまり向けられた事がなかった私は、イースチナ様のあの表情を見るまで悪意を信じられなかったのだ。
──いい気味ね。
イースチナ様は、唇だけ動かしてそう言った。
「おまえは人形みたいで何を考えているか分からない。最初こそ、美しいと感じることもあったが、その正体を知ってからは気持ち悪いと考えるようになった」
「なにを……」
「銀色の髪に紫紺の瞳……その容姿だけでも疑う余地はあったが、見逃していた。そんなはずはないと高をくくっていた。そんな不出来な俺に、聡いイースチナが教えてくれたのだ」
「なにを仰って……」
「薄気味悪い魔女め。おまえの悪行をここにて読み上げ、断罪する」
恐ろしく冷えた目だった。
そうしてジャークス様は、私に対するありもしない悪行を一つずつ述べていった。
「一つ、俺の婚約者という身でありながら数々の男を手玉にかけ不貞を働いた。
以上、12個の悪行をもって俺ジャークス・ハルクフルグは、レティシア・ランドハルスに対し婚約破棄を申し付ける」
──いよいよランドハルス侯爵も終わりだな。
──いいや、こんなの侯爵が認めないだろう。
──いま読み上げた悪行、俺も聞いたことがある。
第一、公衆の面前でハルクフルグ次期公爵が断罪をなされたのだ。
真実がどうあれ、こうなってしまったら娘の
令嬢としての価値はなくなったも同然。
──侯爵はなんと言うだろうな。
──娘を外に出すだろう。
ランドハルス侯爵家は王家の血が入っている歴史あるお家柄。
そんな家に魔女と断罪された娘がいてみろ、
家格の低下は避けられない。
──可哀想に。
失笑まじりの声。
周りを見渡しても、目を逸らすだけで誰も助けれくれない。私の味方は誰もいない。
この話はすぐ父であるランドハルス侯爵の耳に届き、娘の私は勘当を言い渡されるだろう。いや、勘当だけならいいかもしれない。密命を受けて殺されるかもしれない。父は非常に合理的で冷酷な男性だから、間接的に……なんて十分にありうる。
「ランドハルス侯爵令嬢よ、今すぐこの場から去るがいい。俺の気が変わらぬうちにな」
◇
会場を去る間際、イースチナ様が見せていた表情が脳裏にこびりついて離れなかった。
なんて悪意のある笑顔。
人はあそこまで悪い顔をできるのか。
(いいえ。私が知らなさ過ぎただけ……)
冷酷な父でさえ、私にそのような部分を見せたことはなかった。
幼いころに向けられた愛情を覚えているからこそ、そんな人に殺されるなんて考えたくもない。
「お父様」
家のエントランスホールには、父ランドハルス侯爵の姿があった。
最後の挨拶だ。
「申し上げます。私、レティシアはジャークス・ハルクフルグ様より婚約破棄を申しつけられました。受諾し、帰宅した次第でございます」
「……新しく婚約したのはレイツェット子爵令嬢だな」
「ご存じだったのですか?」
「噂は聞く。そもそもレイツェット子爵が社交界でも中々のやり手で、勢力範囲を広めている事も知っていた。その娘がハルクフルグ次期公爵に接近している噂も耳にしていた。……だが、まさかレティシアを魔女に仕立てて断罪し、イースチナ嬢の存在を正当化するなんてな……」
本来、子爵と公爵では家格が釣り合わず婚約なんてできない。
おそらくだけれど、イースチナ様は自分の存在を正当化するために、私という存在を悪役に仕立て上げた。あのような人目があるところでジャークス様が断罪されたのは「悪役にいじめられた悲劇のヒロインであるイースチナ様を救う」という筋書きによるものだろう。
悪い噂が流れていることは知っていたけれど、断罪中の周りの貴族たちの反応を見る限り、根も葉もない噂を信じている者が多いように感じた。
(私……なにか悪い事したのかしら)
イースチナ様と初めて会ったのは、半年ほど前の夜会だった。
いまになって思えば、そのときからジャークス様を狙っていたのだろう。
何か彼女にしたというわけではなく、私がジャークス様の婚約者であることが妬ましかったのだろう。鬱陶しいので退いてくれ。そんな感じだろうか。
「嵌められたな、あのように公になってしまえばみな一様にハルクフルグ様とレイツェット子爵令嬢に従う。魔女として断罪されたからな。裁判しても無駄だろう」
「…………そう、なのですね」
魔女。
それはわが国で、最も忌むべき存在だ。建国神話では王族の男をたぶらかし、国を騒乱の渦に巻き込ませたという悪役。この魔女は銀色の髪に紫紺の瞳を持っていたと言われている。私の容姿も魔女のソレと一緒だ。
ただ、銀髪は魔力量が多い。歴史書に名を連ねた女性はみな銀髪だったとされる。
大層な名誉なんていらない。
平穏な生活さえあれば、それでよかったのに。
「レティシア」
父は私をそっと抱きしめてくださった。
いつもの父らしからぬ優しさに、胸をしめつけられる
そして──突き放された。
「レティシア・ランドハルスを勘当する。もう二度と、この家に帰って来るな」
眉をひそめて悲しみを堪える父。
私はかしこまって礼を返した。
「重々に承知いたしました」
それから私は、今までお世話になった使用人や侍女に挨拶をして回った。何人かには涙を流され別れを惜しまれたけれど、その気持ちだけで救われる。
私はもうこの家に帰ってこない。
ぼんやり自室を眺めていると、侍女の一人に「レティシアお嬢様!」と飛びつかれた。ちょっとだけびっくり。
「どうしてレティシアお嬢様が家を出て行かねばならないのですか!! どうして、どうして……、こんなにもお優しいお嬢様なのに……っ」
「ありがとう。……でもどうしようもないことです。どうぞあなたの人生に幸があらんことを」
「お嬢様……!!」
号泣する彼女を抱きしめつつ、背中をさする。
そうやっているうちに、トランクケース一つ分の荷造りが終わってしまった。
なに、たいして持っていくものはない。
宝石やドレスに興味はなかったので、手放すのも惜しくはなかった。ただ、亡き母の形見である小さな指輪だけ手に、トランクケースを持って平民が使用する乗り合い馬車に乗る。
行先はとある家だ。
父はあのように私を勘当したけれど、一枚の紙をこっそり渡してくれた。
旧友、ジルクアド・ル・シザーク様を頼れ。
公爵の名前を出せば、きっと門の中にいれてもらえる。事情を話せば匿ってもらえるだろう。この家名の貴族は聞いたことがなかったけれど、誰に見られても良いように偽名の可能性だってある。父の直筆の手紙をぎゅっと握り締め、私は嬉しさに涙を流した。
(これが、お父様なりの愛情表現なのね……)
こっそり侍女伝いに手切れ金や手紙を渡してくる辺り、なんと不器用な人なのか。
小さな笑みがこぼれてしまう。
嬉しかった。
(もう二度と会えないかもしれませんが、どうかお父様、健やかであれ……)
祈りを捧げる。
しばらくして、馬車が止まった。
紙によれば、シザーク様の邸宅はここから徒歩で一時間歩かなければならない。社交界用のドレスほどではないけれど、私の恰好は歩きづらい。
頑張るしかないわ。
気合で歩くこと二時間弱。
紙には一時間と書かれていたが、完全に騙された。
(これ絶対にお父様の歩幅で計算されてますわ!!)
辿り着くころには、整髪剤で整えられた髪は汗でぼさぼさになっていた。足は豆だらけになり、ヒール靴は歩きにくかったので手に持っている。
生まれてこのかたトランクケースを持って歩き回ったこともなかったため、途中休憩の際に置き忘れそうにもなった。
(ここが……シザーク様の邸宅?)
ランドハルス侯爵の旧友というから、どんな大きな邸に住んでいるのかと思ったけれど、小さい。2階建てで、侯爵家で飼われていた犬のお家程度しかないけれど、申し訳程度の庭がある。
(貴族の方……ではないのかしら)
「あの、すみません」
おそるおそる玄関をノッカーを叩く。鈍い音。中々出てこられないので、さらにもう一度。
(もしかして、お留守……?)
私は疲れてその場に座り込んでしまった。
もうすぐ陽も落ちてしまう。二時間も歩いた疲れで、一歩も動けない。人の家の玄関前で座り込むなんて、本当はダメなのだけれど──
私の意識は、深い闇へと落ちていく。
「おい」
肩を揺すられて、目が覚める。
(もしかして眠っていたかしら……?)
「た、大変失礼いたしました! 申し訳ございません!!」
「びっくりした……」
そこにいたのは、若い男性だった。
年齢は20過ぎたあたりだろうか。
鼻筋がすっと通り、整った顔をしている。
(私と同じ…………銀髪)
銀色の髪は亡き母と同じもの。建国神話を信じる者の中には、髪色で差別してくる者もいる。私はこの髪が好きだったから、同じ髪色を持つ彼に親近感を抱いた。
「し、シザーク家の方でしょうかっ? 私はレティシア・ランドハルス。ランドハルス侯爵の娘です……。こ、ここに、侯爵より賜った信書がございます。どうぞお確かめください……」
震える手で信書を渡すと、彼はその場で開いて読み始めた。
「確かにこれはランドハルス侯爵のもの。しかと受け取った。なるほど、君は私の父ジルクアド・ル・ルヴォンヒルテ公爵に頼ってここに来たのだな」
(ルヴォンヒルテ……って、公爵様じゃないの!?)
偽名だとは予想していたが、公爵家だなんて誰が思うだろうか。
しかも彼は、父がと言った。
つまり、彼は使用人などではなくルヴォンヒルテ公爵の息子ということになる。
ルヴォンヒルテが治める領内には魔物がたくさん出現する。魔物は魔女が生み出した忌むべき生物とも言われ、公爵家は魔物が王都へ侵入してくるのを抑える役目を持っている。王家からの信頼が厚いお家柄だ。
ただ、ルヴォンヒルテ公爵は父ランドハルス侯爵と同じかそれ以上に冷酷な男で、息子もその血を引き継ぎとても冷徹な男なのだという。魔物を殺すため、中には彼らを「血塗れ公爵」と揶揄する者もいた。
「か、重ね重ねご無礼をして申し訳ございません! あの……っ」
「ジルクス。ジルクス・ル・ルヴォンヒルテだ。一応次期公爵となる」
「ルヴォンヒルテ次期公爵様、あの……お話が」
「話はあとで聞こう。とにかく、中へ入れ。……自分がどんな見た目をしているのか気付いていないわけではあるまい?」
「そう、ですね……。大変失礼いたしました」
謝罪を見届けるまでもなく、彼は無言で中に入ってしまった。
私も後を追う。
(次期公爵様の邸宅にしては……小さすぎるわよね? もしかして別荘かしら)
しかも、彼を世話する使用人の姿も見かけない。
「気付いたか? まぁ、使用人を一人もつけない次期公爵なんていないだろう。安心しろ、別に迫害されているわけではない。ここは本家より魔物と遭遇しやすい。俺自身は強いが、俺が出かけている間に使用人が殺されたら、たまらないからな」
見透かされてしまい、赤面する。
私は昔から、感情がすぐ顔に出てしまう性質だ。貴族同士の駆け引きが出来ない。もう私には必要とされない技術だから、もういいのだけれど。
「湯を浴びてきなさい。体も冷えているだろう」
彼はジャケットを脱ぎながら、こちらには目も合わせずそう言った。人からすると冷たい雰囲気。けれど、ジャークス様のあの時の表情に比べたら、怖くも何ともない。それにこの程度なら、父と似たようなもの。
冷たい雰囲気の中に確かな優しさがある。
私は静かに頭をさげた。
「温情、痛み入ります」
浴室の奥には、小さなバスタブが一つ。
おそらく外にタンクのようなものがあって、そこに溜めた水を沸かすのだろう。蛇口をひねると、温かな湯が流れて来た。湯を張るのは申し訳ないと思い、湯あみを済ませる。
トランクケースから替わりの服を取り出し、彼のもとへ戻った。
「どういうことだ?」
ルヴォンヒルテ次期公爵様は、湯あみをしたあとの私を見て目を見開いていた。
黒と白。侍女が着ているような給仕服だ。新品ではなくおさがりである。
「君は侯爵令嬢だろう。なのに、風呂中に使用人を必要としなかった。体を洗う、服を着る、髪を乾かす。どんなときでも使用人は必要だ。──なのに、君は一度も不満を言わなかった」
「ここに使用人はいらっしゃらないでしょう?」
「……ああ」
「であるなら、ないものねだりです。それにもう、私は侯爵家の娘ではありませんから」
私は、彼にすべてを話した。
ジャークス様に裏切られて婚約破棄されたこと、父から勘当され、ルヴォンヒルテ公爵を頼らなければいけなくなったこと。
「この話を、ルヴォンヒルテ公爵に直々に伝えたいのですが、どちらにいらっしゃいますか」
「公爵は現在外遊中で留守にしている。その話は、とりあえず俺が文をしたためて連絡しよう」
「ありがとうございます」
「おそらくランドハルス侯爵も、それを分かっていてこの別荘の場所を示したのだろう。ここは、いわゆる避暑地だ。最近は俺しか使っていない。おかげで道に迷っただろう?」
「はい、何度か」
彼は、一息ついた。
「残念ながら、本家に連れて帰ることはできない。君はハルクフルグ公爵のご子息であるジャークス公の元・婚約者だ。どんな理由にしろ婚約破棄された。いまの社交界はその話題で持ちきりだろう。そんな人を本家には連れて帰れない」
期待は、しないようにしていた。
どういう理由であれ婚約破棄されたのは事実。
そんな女を匿うとなれば、それこそハルクフルグ公爵にたてつくことになる。いまの社交界は私が完全に悪者扱いされているので、争いの火種を持ち込むのは避けたいだろう。
「だが、ランドハルス侯爵は賢明だ。本家には連れて帰れないが、別荘では匿うことが出来る」
「よろしいのですか……?」
「ルヴォンヒルテ公爵とランドハルス侯爵の話は俺にも伝わっている。その娘を無下にできるほど、俺は馬鹿にはなりたくない。それで、ここで暮らすために何人か侍女を呼んでくる必要があるのだが」
「あなたの侍女になります」
顎に手を当てて考え込んでいた彼は、目を見開いていた。
それもそうだろう。
今まで真っ当な貴族令嬢暮らししかしてこなかった女が、いきなり侍女になると言い出したのだから。
(住まわせてもらうのだもの。私はもうただのレティシアなのだから)
「本気か?」
「覚悟は決めております」
「……分かった。君の判断に従おう」
初めまして。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
こういう書き方をしたのは初めてなので、挑戦の意味も込めて投稿いたしました。
※追記
思った以上に反響をいただき驚いております。
消化不良との声を多数いただいておりますので、現在続きを準備中ですが、
現在別作の改稿中ですので、そちらの区切りがいいところまで終わってからとなります。
ありがとうございます!!
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