幸せな婚約破棄
「これで。アイシャ。君との婚約を破棄できる」
私の許嫁であるホーンズ公爵家の長子、ルーカスはにこやかな笑みを浮かべてそう言った。
その笑顔とたった今ルーカスから放たれた言葉に、私は胸が痛むのを感じずにはいられない。
物心ついた頃から、私の父であるバーナー侯爵と、ルーカスの父ホーンズ公爵様との間で決められた婚約。
周囲はそれを当然のこととして扱い、ことあるごとにその話題を私たちに振った。
「ルーカス。貴方……本気なの?」
私は、絞り出すような声で問いかける。
それを聞いてもなお、ルーカスは笑みを浮かべたまま、私の質問に答えた。
「ああ。元々父さんたちが勝手決めたことだ。それに縛られること自体おかしいだろ?」
「でも……!」
「あらあら? アイシャさん。どうしたんですか? そんな苦しそうな顔をして。やっとこんな婚約が破棄されたのだから喜ばしいことでしょう?」
「ティアナ……」
ルーカスと私の会話を遮るように、ティアナが割って入ってきた。
私より二つ年下の彼女は、豊満な胸を反らせてルーカス同様笑みを作る。
「喜ばしいでしょう? それと、婚約破棄が決まった以上、貴女が居るべき場所はここではありませんわ。さっさと家へお戻りになられたら?」
「そうだな。ティアナのいう通りだ。君はもう、この場にいる必要などない」
「分かったわ……」
外へと向かう私を遮らないようにと、侍従の一人が扉を事前に開く。
雲一つない空から差し込む光に照らされた出口に差しかかった時、私は一度だけ後を振り向いた。
そこには、いまだに笑みを浮かべたまま私を見つめる二人の姿があった。
☆
家に戻ると、両親が出迎えてくれた。
すでに事情を知っている二人に、私はどういった顔を向ければいいのか分からず、下を向いてしまった。
「おかえり。アイシャ。ちょうど最近手に入ったばかりの茶葉で、お茶を飲もうとしていたところだ。お前も飲むだろう?」
父の問いに、私は無言で俯いたままの頭を下に小さく振った。
「お父様、お母様。ごめんなさい……私……」
お茶を飲むためのテラスに向かい、座った瞬間。
私の口から自然と謝罪の言葉が漏れ出てしまった。
それを聞いた両親は慌てた表情になる。
「何を言うの。アイシャ。あなたは何も悪くないわ。私たちがもっと早くからこんな事態になっていると気づいていれば」
「そうだぞ。ルーカスの行動には正直驚いたが」
そこまで言われて、私はなんと恵まれているのだろうと再度認識し、嬉し涙を流した。
☆
ルーカスとの婚約破棄からしばらくして、私は自身の結婚式にいた。
間も無く式が始まるという時になって、ティアナが私を訪ねに来た。
「アイシャさん。お久しぶりね。まぁ! 素敵なドレス‼︎ お兄様もアイシャさんの晴れ姿を見れるのを楽しみにしてましたのよ」
「ティアナ! よく来てくれたわね。来てくれて嬉しいわ。ルーカスは?」
「うふふ。ここは男は立ち入り禁止でしょう? 外で、今か今かと待っていると思うわ」
「そう。会うのはあれ以来初めてだから。楽しみだわ」
「お兄様もこの姿を見たら、自分のあの時のお節介を悔やむこと間違いありませんわね」
ルーカスの妹ティアナに言われて、私はあの時の思い出が鮮明に蘇ってきた。
今私がこの場にいるのは、全てルーカスのおかげと言って過言ではない。
互いに許嫁として育てられたルーカスと私は、良好な関係を気付いたまま成長していった。
ルーカスが当時どう考えていたのか今でも分からないけれど、私自身は親が決めた結婚を素直に受け入れるべきだと自分に言い聞かせながら過ごしていた。
ところがある日、そんな私の心に変化が起きた。
これから結婚する男性との出会いだ。
初めて会った時、私は今まで経験したことのないような胸の高鳴りを感じた。
それが何か気付くまでに少し時間がかかったが、一時の気の迷いだと思う他なかった。
その後も彼と出会うたび、身体的にも感情的にも高鳴る想いは募るばかりで、彼に恋していると自分を偽るのは難しくなっていた。
しかし、ルーカスとの結婚は両家が決めたことであり、そこに私の感情など差し込む余地などない。
私はただただこの感情が風化してくれることを願うしかできずにいた。
ところが、そんな私の様子をルーカスが気付いていてしまった。
「あの時は本当に困ったわ。だって、許嫁の男性の口から、他に好きな男性がいるかと聞かれるんですもの」
「うふふ。アイシャさんもさぞお困りになられたでしょうね」
結局私の態度から確信を得たルーカスは驚くべき行動にでた。
彼の私への想いを確かめ、互いに惹かれ合っていると分かったところで、婚約破棄をすると言い出したのだ。
「ええ。その後、まさかの婚約破棄でしょう? いったいルーカスは何を言い出してるのかと思ったわ」
「だって、そういう国もあると聞いたことがありますけど、この国では重婚はできませんもの。アイシャさんがお相手の方と結婚するためには、お兄様との婚約を解消するしかないでしょう?」
ティアナのいう通りなのだけれど、その後のルーカスはホーンズ公爵様や私の父に私たちの婚約を破棄してくれるよう頼み始めた。
そう言ったからといって、すぐにそうなるわけもなかったけれど、ルーカスは実現させてしまったのだ。
「さぁさ。そろそろ式の時刻ですわよ。主役が遅れるなんていけませんわ。男性方が首を長くして待っているでしょうし」
「ええ。そうね」
「それじゃあ、私は先に行ってお待ちしてますわね。ごきげんよう」
私はティアナを追うように会場へと向かう。
そこには数多くの来訪者が待っていた。
父のエスコートで式場へと向かい、中央で父から彼へと取る手を移す。
誓いを立てる神父様の元へ向かう途中、凄く懐かしく感じる顔が視界に現れた。
「アイシャ! 素敵だよ‼︎」
「ルーカス‼︎ ありがとう‼︎」
満面の笑みを浮かべ腕を振りながら声をかけてくれたルーカスに向かって、私も最高の笑顔で応えた。
主人公の相手をぼやかして書いているのはわざとです